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朝、宿の女将さんに見送られて、いつもより一時間早く出発した。三坂峠からの山道が積雪で歩けないだろうと踏み、次の浄瑠璃寺へ向かうために国道を大きく迂回するという計画を立てていたからだ。距離にして約五キロ、一時間以上も余分に歩くのは痛手だが仕方ない。一昨日、大寶寺から来た道を逆向きに歩いていく。


国道三十三号線を北上していると、その途中、車道の反対側から突然声をかけられた。驚いて声の方を見ると、一昨日久万高原でひと言、二言、言葉を交わしたおばさんが軽トラで何やら作業をしながら顔だけこちらに向けている。


「一昨日会ったね」


「ええ、覚えています」


「浄瑠璃寺まで? 乗せていってあげようか?」


一瞬返事に詰まった。お接待は断わらないのが礼儀なのだが、やはり徒歩にこだわりたい。


「すみません。ありがたいんですが、歩きたいです」


せめて断り方を工夫すべきだったのだが、私は全く飾りっ気もなしにそう答えてしまった。おばさんは別に気分を害した風でもなしに、頑張ってねと笑顔を返してくれた。しばらくして車で追い抜きさまに手を振ってくれたので、私も笑顔で振り返した。


三坂峠の遍路道入り口に到着した時には、宿を出てからちょうど二時間が経過していた。


私の眼前には真っ白な遍路道が続いている。さて、どうしようか。


本来はどうするもこうするもない。私はこの山道を迂回すると決めていたし、そのために今朝は早く宿を出たのだ。でも、やはり遍路道に気がある。


雪の上には足跡が多く残っており、何人かがここを歩いているのは確実なのだ。私の目には積雪量も大したことはないように見える。ゆっくりと慎重に歩けばたぶん大丈夫だろう。ええい、ままよ。ダメなら途中で戻ればよい。それによる時間のロスは優柔不断さの代償として潔く受け容れよう。昨日も一昨日も古い遍路道を歩けなかったのだ。今日こそは歩いてみたい。


標高七百二メートルから三百十八メートルまで曲がりくねった斜面を一気に下る。これが登り坂でなくて本当によかった。地面に雪は残っていたものの、入り口の雪量が最大で、その後はさほど多くない。安心した。問題なく降りられそうだ。下り坂の途中、木立が途切れて視界が急に広がった。眼下に松山平野が一望できる素晴らしい眺めで、私は思わず足を留めてしばらく眺望に見入った。山間に沿って視線をたどった先には背の低い山がいくつか置かれ、その右手に広がる平野部には黄緑色の絨毯に白色の建物が模様を作り出している。この景色が見られただけでも三坂峠の遍路道を選んで良かったと思う。


明治二十七年まではこの道が松山と久万を結ぶ主要街道だったそうだ。その当時、ここを往来する多くの人たちは今も残る桜休憩所でひと息ついたことだろう。その桜休憩所を過ぎると積雪は全くなくなった。標高が三百メートル下がると景色はこんなにも違うものか。


この先は斜面の角度が急になり、そのうえ道が舗装路に変わってからは膝に負担がかかって辛かったが、それでもこの道を歩けたのは大きかった。四十五分で坂道を下り切ることができたのだった。


集落を歩きながら、目が合ったおばあちゃんに、こんにちはと声をかけると、向こうはあいさつもそこそこに、おやまあ、何かあげようか、と言いながら家の中に入っていってしまった。


「リポビタンとコーヒー、どっちがいいかね」


遠慮がちにリポビタンDをお願いすると、「リポビタンと、これはおじいさんに食べさせようと思ってたんじゃが」と言いながら、さらにおまんじゅうをひとつくれた。ありがとうございます、と頭を下げると、


「これはあんたじゃなくてお大師さんにあげたんじゃけんの」


私はありがたくお接待を受けた。


それにしても、峠を越えて瀬戸内海側に入り、景色がすっかり変わった。高知県や南予の山は冬でも青々としているのだが、この辺りでは黄色や赤茶が混じる。植生が違うのだろうか。そうこうする内に、今日最初の札所に到着した。宿を出て四時間半歩き続けたことになる。


四十六番札所浄瑠璃寺は道路沿いにあり、道路から本堂までをまっすぐに見通すことができる。そのせいか、背筋がピンと伸びるような、どこか鋭く尖ったような雰囲気を感じさせる。境内には「仏の指紋」があり、これをなでると文筆達成にご利益があるという。ちょうど現在、本を二冊仕上げているところでもあり、渡に船と思って指紋をなでておいた。


浄瑠璃寺の境内を抜けて歩き始めると、じきに四十七番札所八坂寺が見えてくる。赤い橋の上に山門が建っているのが特徴的だ。何人かの参拝者が視界に入ったが、境内は静かだった。本堂と大師堂の間に構える簡素な閻魔堂の左右には、極楽の途と地獄の途が控えている。どちらも造りはトンネルのようになっていて、内部にはそれぞれ色使いの鮮やかな地獄絵図と極楽絵図が壁にかかっていた。地獄に落とされた人々は一様に責め苦にあえぎ、極楽へ上がった人たちは皆顔ににこやかな笑顔を浮かべている。どちらの絵図に対しても、私はやや想像力に欠けるという印象を抱いたが、地獄に居た何人かの鬼が三つ目に描かれていたのが斬新と言えば斬新だった。


八坂寺を出て九百メートルほど北へ進むと、道路沿いに別格九番文殊院がある。狭い境内にはこれといった特徴もないが、ここは四国遍路の祖・衛門三郎の邸宅があったとされる重要な場所なのだった。


衛門三郎がお遍路に出たきっかけは壮絶である。


ある日、衛門三郎の家に托鉢僧がやってきた。彼は僧を追い返したが、翌日も、そのまた翌日もこの僧は家に現れる。そのしつこさが腹に据えかねた衛門三郎は僧の鉢をたたき割ったのだが、何を隠そう、この托鉢僧が実は弘法大師だった。


この年から、弘法大師に無礼を働いた衛門三郎の元を不幸が襲いかかり始める。なんと、八人の子供たちが次々と亡くなってしまったのだ。衛門三郎は自分がたたき割った鉢が八つに割れたのを思い出し、托鉢僧が弘法大師だったと気づく。そして、後悔の念にかられた衛門三郎は、弘法大師に会って許しを請うために四国遍路を始めたのだった。


どのみち伝説に過ぎないとは言え、私はこの伝承を知った時に後味の悪さを覚えた。それは衛門三郎の非礼な振舞いに対してではなく、いくら罰当たりとは言え、八人の子供全員を喪わせたという弘法大師の狭量さに対してである。いくら何でもやりすぎではないのか……。お遍路さんがたずさえる金剛杖は弘法大師の化身なのだが、衛門三郎伝説を知ってからはお杖を丁寧に扱おうとしみじみと思ったのだった。


文殊院から小一時間も歩くと四十八番札所西林寺に着く。街中のお寺という感じで、寺院に面した国道四十号線は車の往来が激しい。特別な思い入れもなくお寺を設計したらこんな境内になるだろうという、寺院の典型のように私には感じられた。


ここから先は少し慌ただしい。八キロほどの道のりで松山市内のお寺を立て続けに三か寺打つのである。


四十九番札所浄土寺の境内は横長で、仁王門をくぐり抜けると境内の全体が見渡せる。西林寺と同じであまり印象に残らない札所だった。と言うか、実はこの辺りから時間が気になり始め、そのせいでお参りに気が向かなくなっていたのかもしれない。このペースだと、今日中に五十一番まで打てるかどうかが微妙だったのだ。


浄土寺を出てからしばらくして、ふいにお大師様の存在が感じられなくなった……というのは嘘だが、金剛杖を境内に忘れてきたのに気がついた。危ない、危ない、気づいてよかった。日常的に持ち歩かない杖はどうしても忘れがちだ。実はこの金剛杖は二本目で、一本目は春のお遍路で駅に置き忘れてしまっていたのだ。


松山市内は交通量の多い街中にもかかわらず古い遍路石碑が多く残る。私はこれらの石碑をたどって繁多寺へと向かった。


五十番札所繁多寺の山門をくぐってまず目を引くのは右手の溜池である。フェンスには松山発電工水管理事務所の文字が見える。これが境内の一部なのかどうかはよく分からない。小高い丘の上に建つ繁多寺は寺院らしい静かな雰囲気があったが、納経所の住職はやけに陽気で、お寺の雰囲気と少し合っていなかった。もっとも無愛想よりは何倍も良い。本堂の方から見ると、砂利が敷き詰められた境内は日本庭園のようにも見えた。


この後はいよいよ今日、最後の札所だ。五十一番札所石手寺は入り口からして他のお寺とは違った雰囲気を醸していた。何せ、縁日を思わせる屋台が参道にずらりと並んでいるのだ。境内も賑やかで参拝者の姿も多い。三重塔の存在感は抜群で、絵馬堂には七福神が揃っていた。納経所が閉まる午後五時ぎりぎりに駆け込んだため、ご法度を承知でお参りの前に朱印を頂いた。納の文字が見える赤い巨大な提灯が納経所の目印である。さあ、これで時間を気にせずゆっくりとお参りができる。


大寶寺の住職が「返してほしい」と言っていた梵鐘がどこかにあるはずなのに見当たらない。お寺の方に尋ねてみても、どうやら分からない様子だった。念のため宝物殿も覗いてみたのだが、やはりそれらしき物はない。なんとも奇怪な話である。


石手寺ではアトラクションさながらに「お山四国八十八ヶ所」を巡ったり、四国霊場洞内巡礼を体験したりできるのだが、今日はもう疲れた。午後五時を回り、辺りも段々と暗くなってきた。早く宿で休みたいという気持ちが強い。


それにしても、今年の正月にはまさか自分がお遍路を始めるとは思いもよらなかった。まして大晦日まで歩いているとは。それでも、充実した大晦日を過ごせたのは間違いない。後二時間ほどで新年を迎えるが、石手寺からそう遠くないこの宿でも除夜の鐘の音が聞こえるだろうか。

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