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普段よりも布団の中で長く過ごし、やや遅めの朝食を頂いた。今日の予定は岩屋寺まで、片道七キロほどの道のりを往復するだけだった。


八丁坂から山道を登る遍路道があるのだが、ここは積雪で通れないため、県道十二号線を行って帰ってくる。同じ道を往復するのは夏のお遍路で足摺岬にある金剛福寺を打った時と同じだが、あの時とは歩行距離に雲泥の差がある。そのため、今日はずいぶんと気が楽だったが、標高の高いこの辺りは道路が凍っていて滑りやすく、油断は禁物である。まだしばらく雪や氷が解けることはなさそうだった。


道沿いには見事なほどに何もなかった。県道は緩やかなアップダウンを繰り返しながら、少しずつ標高を下げていく。変わり映えのしない風景の中を黙々と歩くのはそう楽しいものではない。


途中、道路の右側にお遍路を描いた絵陶板を見つけた。今日初めて私の目を引いたのがこの絵陶板だ。そもそも絵陶板など珍しく、今までに見た記憶はない。白地に青色のタイル七十枚を組み合わせて描かれた巨大な絵の中で、二人のお遍路さんが小さな石仏に両手を合わせている。雑木林に囲まれた遍路道には遠くにもう一人、別の歩き遍路の姿も見える。白衣、菅笠、金剛杖という彼らの姿は典型的なお遍路さんだが、菅笠がずいぶんと平べったく描かれているのが特徴的だ。一体いつの時代のお遍路を描いた絵なのだろう。ひょっとすると、昔の菅笠はこんな形だったのかもしれない。


歩きながらふいに、さっきのタイル絵は、本当なら今日歩くつもりだった八丁坂の遍路道を描いたのかもしれないと思った。往時は多くの歩き遍路が行きかっていたのかもしれない。


古岩屋トンネルを抜けた先にも自然路の遍路道があるのだが、当然、ここも迂回してひたすらに県道十二号線を歩く。そもそも、自然道へ向かう道路は全く除雪されておらず、歩ける状態にない。直瀬川を渡った先が四十五番札所岩屋寺の参道だ。


参道沿いには屋台のような出店がいくつかあり、賑やかな雰囲気を感じ取れる。もっとも、今日はどこも閉まっていたが、雪だから閉まっていたのか、あるいはもう年の瀬だからなのかは分からない。斜面はやや急で、登りはよいが帰り道の方が怖い。昨日、金剛杖を手に入れておいて本当によかった。赤く塗られた極楽橋を渡り、少し登ると山門である。私は一礼して境内に入った。


「岩屋寺は見所が多いですよ」


宿の女将さんがそう話していた通り、他の札所にはない独特の雰囲気を持つお寺だ。ひときわ異彩を放つのは、人間の顔に見える巨大な岩崖である。確か火星の表面にもこれと似た人面岩がなかったか。「崖下十メートル以内には滞留しないで下さい。落石があります。」という注意書きが生々しく恐ろしい。


本堂の脇に掛けられた梯子を登れば法華仙人堂跡を拝むことが可能だが、梯子を数段登ったところで振り返り、下りの梯子を前にして狼狽する自分の姿を想像して拝むのを断念した。後先を考えず高い所まで登ってしまい、その後に降りられなくなってニャアニャアとか細い声で鳴く子猫を見たことがあるが、私にはその気持ちがよく分かる。私も幼い頃から高い所が苦手なのだ。


本堂と大師堂でお参りを済ませ、納経所で朱印と墨書を頂いた。こちらの住職だろうか、時間をかけてゆっくりと墨書きされていたのが印象に残った。


納経帳には墨で書くため、朱印や墨書が乾くまでに少し時間がかかる(朱印や墨書を乾かすためのドライヤーが用意されている札所もある)。そのため、納経帳の向かい合ったページに墨が移らないよう、紙を挟んでくれることがある。新聞紙を小さく切った物が多いが、岩屋寺では独自のメッセージを印刷したB5大の用紙を挟んでくれた。誰しも順調でない時があり、自分を他人と比べる必要はない。自分の命も他人の命も同じように大切にしよう。メッセージの内容はだいたいこんな感じだった。


最後の文章は肝に銘じておくべきと思うので、そのまま引用しておこう。


「『お納経』の揮毫・朱印は、美術作品や趣味のスタンプ収集ではありません。お詣り下さったあなた御自身が心をこめて御本尊様に納められたお経を、確かにお取次ぎさせていただきます、との住職の受け取り証印です」


本当のところ、今回のお遍路の行程計画を立てていた時に、回り道を強いるかのような岩屋寺の存在を恨めしくも思ったのだ。明治七年までは大寶寺の奥之院でしかなかったと知ればなおさらである。しかし、実際に訪れてみて、岩屋寺は再訪したいと思う魅力を備えた素敵な寺院だった。


納経帳をかばんに仕舞い込み、さあ出発しようかと腰を上げると、本堂の方から誰かが奉納している笛の音色が聞こえてきた。私は演奏に耳を傾け、すっかり気分が良くなった。往路に見た風景が、ひょっとすると復路では違って見えるだろうか。

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