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町には朝霧が立ち込めていた。道すがら見える山にも濃い霧がかかり宗教的な雰囲気が漂っている。この空気は悪くないが、日差しのない冬の朝は寒さが身に染みる。天気予報によれば日中は晴れるはずで、それを心のよすがとしながら歩いていると、一時間ほどして雲の切れ目に晴れ間が徐々に見え始めた。


前回のお遍路では真夏の酷暑を経験し、今回は真冬のお遍路とは、何も好き好んでこんな時期を選ぶ必要はないだろうと自分でも思う。実際、今度は冬にお遍路を歩くと聞いて母は呆れたらしい。けれども、二週間くらいのまとまった時間を確保するには季節をえり好みできないのだ。


夏と比べると冬のお遍路にだって利点はある。暑くないこと、マムシや蛇が出ないこと、蜘蛛の巣が張ってないこと……。否定形でしか長所を挙げられないあたり、自己暗示の涙ぐましい努力が垣間見える。


しかし、出発前に半ばやけくそで挙げたこれらの「利点」は、お遍路を再開してみると、実際に利点であることがすぐに分かった。夏の暑さが歩いている最中に消えてしまうことはないが、歩き始めると冬でも身体はすぐに温まり、寒さが全く気にならなくなる。また、「マムシに注意」「危険! スズメバチ」のような注意書きを山道の至る所で見るのは私には結構なストレスなのだが、この点について今回は完全にストレスフリーである。当然、遍路道に我が物顔で巣を張る蜘蛛もいない。


事前に想定していなかった冬の最大の短所は日の短さだ。春や夏は納経所の閉所時刻がお遍路の時間制約となっていたものの、午後五時に納経所が閉まった後も宿までの道のりを歩き続けることができた。しかし、冬は午後五時を回るとすぐに真っ暗になってしまうため、納経所の閉所時刻はほとんどそのまま歩き遍路の限界なのだった。


国道五十六号線沿いにヘンロ小屋を見つけ、少し休憩していこうと思って近づくと中には先客がいた。ベンチに広げられた重装備を見る限り、年季の入ったお遍路のリピーターだと思われる。こんにちはと声をかけ、今日はどの辺りまで歩く予定なのかと尋ねた。どうやらこの後の行き先は私と同じようだが、このお遍路さんは鳥坂トンネルを抜ける国道五十六号線ではなく、山道を登り、鳥坂峠を越えるつもりだそうだ。


「何せこの荷物でしょ、以前、トンネルでトラックに引っかけられたことがあってね」


男性はそう言いながら顔を少し曇らせた。そんな恐ろしい経験があれば、確かにもうトンネル内を歩きたくはないだろう。交通量が多く、それでいて歩行者用の通路が設けられていないトンネルでは、とりわけ大型トラックとすれ違う時にはひやりとする。


きっともうすでに結願されているのですよねと訊くと、逆打ちを含め、すでに十回以上も回っているという答えが返ってきた。


二〇一一年の震災でご家族を亡くし、供養のためにお遍路を続けているのだという。そんな話を聞くと、何の目的もなしにただ歩いている自分が何とも場違いのように感じられた。この人は私に、なぜお遍路に出ているのかは尋ねなかった。


「この間の雪の日、大寶寺の辺りは六、七十センチ積もったらしいよ」


ふいに、男性が話題を変えてそう言った。七十センチという数字を聞いて、私は思わず、えっ! と大声を出してしまった。


「この数日はお天気だから、解けて二十センチくらいまでにはなっているはずだけど」


それでも二十センチか……。これではとてもじゃないが、明後日に山道の峠越えで四十四番へ向かうのは不可能だ。多少時間がかかっても舗装路を歩いてゆくしかない。後で迂回ルートを確認しておかなければ。


「とにかく安全に行くことにします」


「そう、それが何よりも大事だよ」


私は、この短い言葉の中に重みと温かさを感じた。


先へ進み、先ほど会ったお遍路さんがトラックに荷物を引っかけられたという鳥坂トンネルが見えてきた。車道と歩道の段差がほとんどないトンネルである。トンネルの手前には歩行者のために反射たすきが用意されていた。自動車はトンネル内でライトを点灯させるはずなので、たすきをかけた歩行者はドライバーの目に留まりやすくなる。使い終えたたすきはトンネルの反対側に設置されたたすき入れに返却するのだ。トンネル内を歩きながら反射たすきの存在を頼もしく感じる一方で、最初からトンネル内に歩行者用通路かガードレールを設けてほしかったとも思う。


今日の行程で最も人出が多かったのは大洲城をいただく大洲市だ。昨日歩きながら眺めた宇和島城や足止めされた高知市で訪れた高知城といい、今回のお遍路はお城に縁がある。城下町として栄えた市内にはおはなはん通りや臥龍山荘などの見所も多く、明治の町並みを残した地区もある。どこかに宿を取り、ゆっくりと町を練り歩いてみたいところだが、それはさすがに叶わない。今日のところは昔の佇まいを残す小路を少し見やることで満足せざるを得ない。


宿を出てから六時間が経過したころ、国道五十六号線沿いに別格八番十夜ヶ橋が唐突に姿を現した。歩きながら何度か地図を確かめていたので、この辺りに十夜ヶ橋があることは知っていた。しかし、本当にこれがその十夜ヶ橋なのだろうか? 予想外の外観に、私は呆気にとられてしまった。まるでその辺の駐車場のような出立ちだったのだ。ありがたみをみじんも感じさせない境内を奥の方に進むと、あるべき本堂はなく、代わりに新築予定地だけがぽっかりと広がっていた。


十夜ヶ橋では平成七年に水害があり、水位が一メートルに達するほどの水が国道から流れ込んできたらしい。その経験から土台を高くしたのだが、あろうことか、平成三十年の水害では水位が三メートルにまで上がり、結局、本堂は水に没してしまったのだという。


お遍路さんは金剛杖をたずさえて歩くが、橋の上では杖を突いてはならないという作法がある。橋の下で眠るお大師様が、杖を突くコツコツという音で起きてしまうから、という訳だ。この作法の発祥地が十夜ヶ橋だと言われていて、橋の下には寝姿の弘法大師像が置かれている。そうか、洪水があったのか、と私は小声でつぶやいた。水底で眠るお大師様の姿が目に浮かんだ。


十夜ヶ橋から今夜の宿泊先まではおよそ八キロ。この日、私は初めての自然道を歩いた。冬まで落ちずに残っていた紅葉が美しかった。ヘンロ小屋で雪の話を聞いて(そして昨日の雪道で転んで)、私はすっかり臆病風に吹かれてしまったが、この道は歩きやすく安心した。


予定よりもいくぶん早く、私は内子駅からほど近い今夜の宿にチェックインした。

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