5.醜い世界

 初雪が降った。

 まだ積もる事はないだろうけれど、薄曇りの空からゆっくりと舞い落ちてくる雪がとても綺麗で、馬車の窓からずっと外を眺めていた。


 学院に到着して馬車を降りる。制服の上に羽織ったケープは魔装具で、体を温めてくれる機能があるのだけど、わたしはそのスイッチを入れずに歩き出した。

 冷たい風に身が縮こまるけれど、冬の訪れを実感するのが好きなのだ。あまりにも寒くなってきたら、この機能のお世話になるのだけど。

 わたしに触れた柔らかな雪が、すうっと溶けて消えていった。



 先生に課題を提出して、研究室を後にする。

 校舎の中は魔道具のおかげで過ごしやすい暖かさとなっていた。この時間はお昼休みだから、校舎全体が賑やかさに包まれている。


 わたしは今日、欠席となっている。妃教育が午後からも続く予定だったからだ。

 それが午前で終わってしまい、時間の空いたわたしは課題を提出しにきたのだけど、今日はこのまま帰ろうと思っていた。


 最近、学院に居るのが辛くなってきている。

 以前までは我慢出来た事も、今は辛い。レジエス殿下の事を信頼できなくなっているからなのか、まだ想いを残しているからなのか。

 色々な事に耐えられなくなってきている。


 こんな事ではいけないと分かっているのに、心が悲鳴をあげているのが分かる。

 謂れなきことで罵られるのも、陰口を叩かれるのも、もう嫌なのだ。


 漏れそうになった溜息を寸でのところで飲み込んで、わたしは意識して背を正した。

 誰に見られても恥ずかしくないように、真っ直ぐに前を向いて歩いていく。そうする事で自分を守れる気がしたから。


 ***


 帰ろうと思っていたけれど、ミレイユにだけは会いたいなと思ったのが間違いだったのかもしれない。


 彼女を探して裏庭を通ったわたしの耳に聞こえてきたのは、ユリアーナ様の声だった。


「レジエス様は優しすぎますわ!」


 大きな声だけど、その声は恋慕の色に染まっている。離れた木の陰に隠れて様子を窺うと、ガゼボのベンチに座るレジエス殿下の姿があった。その近くに立つ側近の令息達と、ユリアーナ様。ユリアーナ様の後ろにはいつものお友達が控えている。


 いけないと思いつつも、わたしはそっと風魔法を展開していた。

 そよ風に乗って、レジエス殿下達の声がわたしの元に届く。ユリアーナ様の声は魔法を使わなくても聞こえるけれど、殿下の声はこうでもしないと聞こえないからだ。


 盗み聞きは良くないけれど……でも、人払いをしている様子もない。裏庭には他にも生徒たちがいるし、殿下達の話に耳を傾けているもの。それなら、わたしが聞いたって構わないでしょう。


「エルミラにもいい所はあるんだよ」


 レジエス殿下の声は優しい。でも、なんだかもやもやする。


「でも……エルミラ様は今日もお休みしているじゃありませんか」

「何か事情があるんだろうね」


 ──妃教育だって、殿下は知っているはずなのに。


「それにわたくし達が何を言っても、エルミラ様は微笑んでいるばかり。わたくし達の意見を聞いて下さっているようには思えませんわ」

「聞いているとは思うよ。ただそれを活かすように動くのが苦手というか……彼女は少し、自分で何かを決められないようなところがあるから。どうしていいか困っているのかもしれない」


 ──わたしだって最初はちゃんと反論していた。でも、何を言っても聞き入れてくれなかったじゃない。悪評を覆そうと努力もした。でもそれが全部無駄に終わった時の絶望感を、この人達は知らないんだわ。


 手の平に痛みが走り、わたしはゆっくりと手を開いた。視線を向けた手の平には爪の跡がくっきりと残っている。いつの間にか拳を握り締めていたらしい。


 怒りに、心が静かに冷えていく。

 そんなわたしの気持ちを知るはずもなく、ユリアーナ様だけでなく側近の令息達も口々にわたしの愚痴をこぼしていた。


「レジエス様がお仕事をしていても、お構いなしに部屋に来ると言うじゃないですか。何をするわけでもなく、無駄なお喋りばかりしていくと聞きました」

「すぐ拗ねて、侍女にも当たり散らしているとか」

「面倒な事は全部レジエス様に投げ出しているというのも耳に入ってきます」


 全部、身に覚えがないのだけど。

 【エルミラ・リバデイル】がもう一人いて、その人が傍若無人な振る舞いをしているのではないだろうか。そう思ってしまうくらいだった。


 それに対して、レジエス殿下は否定をしない。

 困ったように眉を下げて微笑んでいる。


「でも僕はエルミラを放っておけないんだ」


 こうして悪評は広がっていくのだ。

 レジエス殿下が否定をしないから。


 殿下はわたしの味方だと、よくそうやって言って下さるけれど……やっぱり、違った。

 幼馴染として残っていた親愛の気持ちも、ひび割れて消えていくのが分かる。


 レジエス殿下の言葉に顔を歪めたユリアーナ様が、胸の前でぐっと拳を握っている。その表情は悲愴に塗れ、レジエス殿下を真っ直ぐに想っているのが伝わってくる。


「レジエス様がお可哀想です……! この婚約は、公爵家からの強い要望で決まったと聞きました。無礼を承知で口にしますが……エルミラ様は、公爵家の力を盾に……」

「ユリアーナ嬢、それ以上は口にしてはいけないよ。君の身が危うくなってしまうから」

「でも、っ……! 否定は、なさらないのですか……」


 レジエス殿下は微笑むばかり。それを見た周囲が、どう思うのか分かっているはずなのに。


 わたしは魔法を消して、その場を離れた。

 頬を伝う涙を手の甲で拭い、ケープのフードを深く被って走り出した。幸いな事にこれから午後の授業が始まるから、皆が教室に戻っていく。校舎から出るわたしを気にする人は誰もいなかった。


 馬車に乗り込み、深呼吸を繰り返す。


 もう無理だ。

 こんな嘘に塗れた世界に、わたしは居られない。


 もう、我慢は出来ない。

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