初恋は薔薇の香りがして

花散ここ

1.恋の始まり

 夢を見ていた。幼い時の、綺麗な夢を。


***

 

色鮮やかな花が咲き乱れる一面の花畑。

 爽やかな夏の風に芳しい花香が乗っている。見上げた空は深い青色をしていて、色の薄い雲がすうっと流れていく。


「エルミラ?」


 掛けられた声にはっと我に返ったわたしは、ぼうっとしていた恥ずかしさを誤魔化すように笑って見せた。声をかけてくれたディートリヒ様は心配そうに眉を下げていたけれど、すぐににっこりと笑ってくれる。

 瑠璃色の瞳に溢れる気遣いに、胸の奥が少し苦しい。


「ごめんなさい、少しぼうっとしていたみたい」

「疲れたんじゃないのか?」

「ううん、大丈夫」


 優しい声に嬉しくなるのはどうしてだろう。ずっとこの声を聞いていたくて、ずっと彼とお話がしていたい。そんな気持ちが胸の中を満たしていく。


「エルミラ、何をやってるの。向こうで遊ぼう」


 花畑に座り込んでいたわたしとディートリヒの前にやってきたのは、レジエス様だ。わたし達三人は年も同じ十歳で、親同士の交流があった事から時々こうやって遊んでいる。


 レジエス様は不服そうに眉を寄せながら、わたしの腕を掴んで立ち上がらせた。それが少し痛くてびっくりしてしまう。


「カルロス達はもう行っちゃったぞ」


 レジエスの示す場所を見ると、レジエス様の弟であるカルロス様と、わたしの弟のルシオが騎士達と一緒に池の方へ向かっているのが見えた。レジエス様もそちらに行きたいのだろう。

 でもわたしは……まだここで、お花を摘んでいたかった。


「レジエス、エルミラはまだ花を摘んでいる最中で……」

「うるさいな。そんなのディートリヒがやっておけばいいだろう? エルミラは僕と魚を見に行くんだ」


 大きな声に肩が竦む。レジエス様がしたい事に付き合うしかないと、もう分かっている。そうじゃないと彼の機嫌は悪くなってしまうし、それに当たり散らされるのはわたしじゃなくて、ディートリヒ様とお付きの騎士や侍女だもの。


「ディートリヒ様も一緒に魚を見に行きましょう」

「おいエルミラ、僕は君と──」

「レジエス様、ルシオ達も行っているんだもの。みんなで行きましょう」

「……君がそう言うなら」


 不服そうにしながらも、それ以上の癇癪はないようだ。それにほっとしながらディートリヒ様を見ると、苦笑いをしながら立ち上がっていた。

 レジエスに手を引かれて歩くわたしの、少し後ろ。それがいつものディートリヒ様の場所。わたしと一緒に並んで歩くとレジエス様が嫌な顔をするからなんだけど、わたしは少し寂しくなってしまう。


 肩越しにちらりと振り返ると、少しきつめの顔立ちが優しく綻ぶのが好き。

 微笑みかけてくれるだけで、わたしの胸はどきどきと落ち着かなくなってしまうのだ。


***


 楽しい時間はあっという間に過ぎていく。日が暮れ始めて、家路につく時間。

 隣国に暮らすディートリヒ様と、またしばらく会えない時間が続いてしまうと思うと、何だか寂しくなってしまった。楽しかったから、余計にお別れが辛いのだ。


 レジエス様とカルロス様は、もう馬車に乗って帰っていった。

 ディートリヒ様は転移魔法で帰るから、従者達がその準備をしている。わたしが乗る馬車も準備がされているけれど、ディートリヒ様を見送りたかった。


「エルミラ、これを君に」


 そう言ってディートリヒ様がわたしの前でぱちんと指を鳴らす。その瞬間、彼の指先には一輪の薔薇があった。わたしの瞳の色によく似た、濃いピンクの薔薇は棘も綺麗に落とされている。

 わたし達がいた花畑に薔薇はなかったはずなのに、と思うけれど……ディートリヒ様は魔法使いだから、薔薇を出すのも簡単な事なのかもしれない。


 驚いているわたしの耳上に薔薇を飾ったディートリヒ様が笑みを浮かべる。綺麗だ、なんて言われてしまって、わたしの顔が一気に熱を持った。

 きっと赤くなっている。恥ずかしいけれど……でも、嬉しい。


「ありがとう、ディートリヒ様」

「どういたしまして。じゃあ、また」

「気を付けてね」


 ひとつ頷いたディートリヒ様は魔法陣へと歩いていく。彼の銀髪も夕陽の色に染まっていた。

 従者や騎士達もその魔法陣の中に入り、魔法陣が強く光を放った次の瞬間──もう、ディートリヒ様達の姿はなかった。


 寂しいけれど、でも……また会える。

 その時にはわたしもこの気持ちを伝えられるようになっているだろうか。


 髪に飾られた薔薇にそっと触れてみる。指先が熱くて、落ち着かない。

 そんなわたしを見た侍女達が微笑んでいるから、やっぱり恥ずかしくなってしまった。


 きっとわたし、ディートリヒ様が好きなんだわ。


 初めての恋を自覚して、胸が高鳴る。それは少し擽ったくて、道を照らす灯火のように暖かな気持ちだった。


***


 次の日。

 お父様がお呼びだと侍女に連れられて向かった書斎には、お父様だけでなくお母様も居た。

 侍女が紅茶を用意して下がっていく。いつもなら壁に控えている執事もいなくて、わたしと両親だけ。お父様は険しい顔をしているし、お母様は眉を下げている。


 何か良くない事があったのだけは分かる。少し怖くて、ドレスのスカートをぎゅっと指先で握ってしまった。


「エルミラ……お前の婚約が決まった」

「婚約……?」


 その言葉に、二人がどうしてこんな顔をしているの分かってしまった。

 わたしの婚約はもう覆せないものなのだと。そしてその相手は──ディートリヒ様ではないのだと。


「レジエス王子殿下との婚約だ。これは王命であり……我がリバデイル公爵家では拒む事が出来ない」

「……拝命致しました」


 世界から色が失われていく。血の気が引いていく感覚がして──


***


 ──わたしは、目を覚ました。


 ゆっくりと瞬きを繰り返す。見慣れた天蓋に、肌馴染の良い寝具。厚地のカーテンは陽の光を通さないけれど、枕元の時計を確認すればもう朝を迎えている事が分かった。


「……嫌な夢を見たわ」


 初めての恋を自覚した日。そしてその恋が終わった日。

 あれからもう、十年が経つ。恋心に蓋をして、レジエス殿下の婚約者となって……もう、過去の話になったはずなのに。


 胸が苦しい。

 漏れた溜息ではその痛みを逃がしてくれなくて、苦笑するしかなかった。


 起き上がってベッドから下りたわたしは窓に近付きカーテンを開けた。

 まだ陽が昇ってそんなに時間は経っていないらい。屋敷の白壁が朝陽を受けてピンク色に染まっている。


 出窓に飾られた一輪の薔薇に目を向ける。

 魔法で加工をして貰った、濃いピンク色をした薔薇。瑠璃色の一輪挿しに飾ったその花は、十年の時が経っても色を鮮やかに保っている。触れてみるとガラスのように硬くて、花弁の柔らかさは失われている。もう髪に飾る事は出来ないけれど、それでも……思い出を残しておくには充分過ぎるものだった。


 わたしはゆっくりと呼吸を繰り返した。深く吸った息を長い時間をかけて吐き出す。

 夢も、感傷も、なかった事にするかのように。

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