8.距離を無くして
想いが重なったわけだけど、これでハッピーエンドというわけにはいかない。
攫われたい気持ちのままに動けば、家族にもディートリヒ様にも迷惑が掛かると分かっているもの。
「俺としてはこのまま君を連れ帰ってしまいたいんだが。公爵家の責任問題にされては適わないからね、手順を踏んで正式な婚約者として国に迎えたいと思っている」
「手順、ですか?」
わたしの問いに、ディートリヒ様は微笑みながら頷いた。
手を繋いだままの距離が近くて、これは夢なのではないだろうかと思ってしまう。幸せな夢の中へと逃げ出してしまっているのかと、それくらい現実離れしていた。
「そう。手順といっても多くはないんだ。君とレジエスの婚約を解消する。君が俺と婚約をする。ただそれだけ」
「それがとても難しい事なのではないかと……」
「エルミラの悪評の原因がレジエスにあるんだ。それを理由に婚約解消に持っていく。リバデイル公爵もそのつもりだろう」
確かにレジエス殿下はわたしの悪い噂について否定なさらなかったし、むしろ肯定するかのような言動を繰り返していた。でもそれだけなのだ。
殿下はわたしに対して婚約者の義務を放棄するような事はしていない。直接、わたしが虐げられた事もない。
わたしの不安が伝わったのか、ディートリヒ様が繋ぐ手に力を込める。力強いその温もりが、大丈夫だとわたしを慰めてくれているようだった。
「君とレジエスの婚約なんだけど、政略的なものはないと知っている?」
「いえ……王命でしたので、何かがあるのだと思っていました」
「年が近くて仲が良いという令嬢が君だったんだけど、年齢や家格だけでいえば他にも候補になる令嬢はいた。君が選ばれた一番の理由は、レジエスが君に惚れていたという事なんだ」
「……レジエス殿下が、わたしを?」
予想外の言葉に体が強張ってしまった。だってそこまで好かれているなんて思っていなかった。瞳に映る想いも、恋というには穏やかなものだった。
レジエス殿下はいつも穏やかで優しいけれど、それは別にわたしに対してだけじゃない。皆に等しく接しているから、そんな気持ちを持って下さっているなんて考えた事もなかった。
「俺から見れば分かりやすかったけどね。まぁそれは置いておいて、エルミラとレジエスの婚約が結ばれた理由は、レジエスが君を望んだから。でも今の状況はレジエスは君に不満を持っているようにしか見えない。婚約の理由がなくなるんだ」
「そう上手くいくのでしょうか」
期待したい。でもそれが叶わなかったら、きっとわたしは立ち直れない。
そんなわたしの弱さを、ディートリヒ様は笑わなかった。瑠璃色の瞳でわたしを真っ直ぐに見つめている。
「これはきっかけに過ぎない。でもリバデイル公爵は必ず君の婚約を解消するだろうね」
わたしを大事にしてくれる父の事を思うと、素直に頷けた。
もっと早くに、父に本当の気持ちを伝えていれば変わっていたのだろうか。もっと早くに婚約を解消出来たのか、それは分からないけれど。
「だからエルミラ、昔のように笑ってほしい。言葉もだ。時が作った俺達の距離を無くすように」
ディートリヒ様はわたしの頬に指先を添えて、そっと撫でる。擽ったさに吐息を漏らすと、ディートリヒ様が笑みを零した。
離れていた時間が、埋まっていくような感覚に包まれる。まるであの日の続きのように。
すっとわたしの頬から手が落ちる。少し寂しく思って、その手の行先を追いかけてしまって恥ずかしい。
気付いているだろうディートリヒ様は低く笑ってから、紅茶のカップへ手を伸ばした。
それを見て、わたしも喉が渇いている事に気付いた。
カップをに蜂蜜を落としてから、ゆっくりとスプーンで混ぜた。少し重かったスプーンが蜂蜜が溶けるにつれて軽やかにくるくる回っていく。
カップを口に寄せて一口飲むと、花を思わせる優しい甘さが広がった。
「あのね……」
カップをソーサーに戻してから、ソファーの背凭れに体を預けた。お行儀が良くないけれど、子どもの頃はよくこうやって休んでいた。
でもそれはディートリヒ様の前だけだったけれど。それを思い出しているのか、笑みを浮かべながら彼も同じように寛いでくれる。
「ディートリヒ様がわたしを想ってくれているのは伝わるの。言葉で伝えてくれているのはもちろん、わたしを見つめる眼差しからだって想いが伝わってくるから。……公務で会っている時は分からなかったけれど」
「レジエスの隣に立っている君に、恋心を露わにするわけにいかないだろう? 変に疑われては君の為にもならないし、警戒したレジエスが君を隠してしまうかもしれない。公務の場だけでも、君の姿を見られる事は俺の喜びだったんだ」
「あ、ありがとう。……恥ずかしいわ」
「本当の事だから受け止めて貰うしかないな」
おかしそうに肩を揺らすディートリヒ様は、私の記憶にある姿よりもずっと大人っぽく笑う。時が経っているのだから当然なのだけど、何だかまた鼓動が跳ねた。
「それでね、さっきの話なんだけど。レジエス様がわたしを好いているってあなたは言うけれど、それを実感出来た事はないの。だってわたしの事を好きでいてくれるなら、あんな悪評を放っておかないと思うのよ」
「あー……恐らく、というか間違ってはいないと思うんだが」
ディートリヒ様は言いにくそうに眉を下げてから、わたしの手をそっと握った。
応えるように自分からも手を握ると指先が絡められる。
「レジエスは、エルミラに頼ってほしかったんじゃないだろうか」
「……頼って? でもわたし、悪評については相談したんだけれど」
「それだけじゃ足りなかったんだ。周囲から孤立したエルミラの、唯一の味方で居たかったんだと思う」
──僕は君の味方だよ──
レジエス様の言葉がよみがえる。
なぜだか背筋が凍って、体がぶるりと震えた。
「孤立した君の味方がレジエスだけとなれば、君はレジエスに縋る以外になくなる。それを願っていたんじゃないか」
それはわたしが苦しむ事を望んでいたと、そういう事なんだろうか。
悪意に晒される中でレジエス殿下だけがわたしに優しい言葉を掛けてくれるなら、縋って依存していたかもしれない。
でもそれは随分と歪んだ感情だ。
わたしには愛してくれる家族がいて、一緒に過ごせるミレイユが居て、心の中にはディートリヒ様がいた。だからレジエス殿下の望みは叶わなかった。
「エルミラを独り占めしたかったんだろう。その気持ちは分からなくもないが、やり方がよくないな」
「……ディートリヒ様も同じような気持ちがあるの?」
「独り占めしたいという気持ちは分かる。恋に狂う男の戯言だと笑ってくれたらいい」
笑えそうにないのは、わたしも……ディートリヒ様を独り占めしたいと思うから。
でもこうして二人になった今なら分かる。ディートリヒ様のこんな甘やかな笑みを見られるのは、きっとわたしだけなのだ。
「ディートリヒ様には独占してほしいって思うの。それも笑う?」
「笑わない」
繋いだ手の指先にディートリヒ様が唇を寄せる。音を立てて口付けされると、わたしの顔は一気に赤くなってしまった。頬も、漏れる吐息さえ熱を持っているようだ。
そんなわたしを見て、ディートリヒ様は嬉しそうに笑った。
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