7.再会
それから三日が経ち……熱も下がり、すっかり良くなったのだけど、わたしは学院にも妃教育にも行かなかった。
もう無理だと心が叫んでいる。でも心の片隅では、諦めるしかないというのも理解している。
このまま心を隠して、想いを殺して生きていくしかないのだろうか。それは少し……嫌だな、と思った。
ずっと寝衣で、ベッドの上に居るわけにもいかない。
身支度を整えて、部屋の窓を大きく開いた。換気の為に何度か開けてはいたけれど、ここまで大きく開くのは久し振りだ。
冷たい風が部屋の中をかき混ぜていく。大きく息を吸って、おもいっきり冬の空気を胸に吸い込む。喉がひりつく感覚が、心地よかった。
今日はミレイユに、お見舞いのお礼状を書こう。
レジエス殿下と王妃様にも書かなければならないけれど、回復したということは、出来ることなら伏せたい。これは……あとでお父様に相談しなくては。
お父様も、お母様も、弟のルシオも。
皆がわたしを心配してくれている。どうしてこんなに心を痛めたのか、説明しなくてはならない。その時に……この、胸の奥に巣食う靄も零して構わないだろうか。
小さな溜息をついたわたしは、静かに窓を閉めた。
とりあえず、まずは手紙を──
机に向かおうとしたわたしの耳に、部屋をノックする音が響いた。
応えると入室してきたのは侍女で、どことなく嬉しそうな表情をしているようにも見える。
「エルミラ様にお客様です」
「お客様……?」
「はい。応接室で旦那様とお待ちになっています」
「お父様がお相手をして下さっているのね」
レジエス殿下だろうか。でもそれならお客様といわず、殿下がいらしたと言いそうなものだけど。
少し不安に思いながら、侍女の先導で私は応接室へと向かった。すれ違う使用人達の顔が明るい。一体何があったのだろう。
応接室のドアをノックすると「入りなさい」とお父様の声がする。
わたしはドアを開いて──礼をする事さえ忘れてその場に立ち尽くした。
夢かと思った。
ソファーに座るその人は、こんなところに居るわけがないから。
少し長めに整えられた銀色の髪。瑠璃色の瞳。
すこしきつめな顔立ちだけど、口元が嬉しそうに綻んでいる。
「……ディートリヒ様?」
「エルミラ、やっと会えた」
ソファーから立ち上がったディートリヒ様はわたしに近付くと、両の手をぎゅっと優しく握ってくれた。
少し固い手の平だとか、わたしより高い温度だとか、何もかもが恋しくて。押さえつけていたはずの恋心が、ここにいるのだと主張してくる。
感情が溢れて、涙となって頬を伝った。
「ど、どうして……ディートリヒ様がここに?」
「ミレイユから事情を聞いたんだ。すぐにでも君の元に駆けつけたかったんだが、色々と調整しなくてはならなくてね」
わたしと一緒に泣いてくれたミレイユ。
いくらディートリヒ様と従兄妹だとはいえ、連絡を取る事は簡単ではなかっただろう。わたしの為に動いてくれた彼女を思って、笑みが浮かんだ。
「俺がここに来ると、公にするわけにはいかなくてね。リバデイル公爵を頼らせて貰った」
「娘の為になる事でしたら、私も協力を惜しみません。まぁ、まずは座ってはいかがかな。お茶を新しくしよう」
お父様の言葉に促され、わたしはディートリヒ様のエスコートでソファーに座った。ディートリヒ様はそのままわたしの隣に座り、ずっと片手を繋いでいてくれる。
距離の近さが嬉しいのに、恥ずかしい。お父様はそんなわたし達を見て苦笑いをしていた。
お父様の執事が紅茶を淹れてくれる。メイドに任せないのは、ディートリヒ様の身分を考えての事だろう。
執事は美しい一礼を残して部屋を後にした。壁側に控えていたディートリヒ様の侍従も一緒に部屋を出て行って、この部屋に居るのはわたしとお父様、ディートリヒ様だけだ。
「エルミラ、ディートリヒ殿下から話を聞いた。お前に辛い思いばかりをさせて、申し訳なかった」
テーブルを挟んだ向かいのソファーに座ったお父様が、わたしに向かって深く頭を下げた。
その姿に、落ち着きかけたわたしの涙がまた零れてしまう。
「お父様が謝るような事ではありません。わたしがもっと相談をしていれば良かったのです。それにお父様はわたしの悪評が広がらないよう、手を尽くして下さったではありませんか」
お父様は充分な程に力になって下さっていた。
わたしの悪評を否定して、どこからその話が広がっているのか調べて下さっていた。お母様もルシオだってそうだ。家族がわたしを信じてくれていた。
だから……これ以上心配を掛けたくなかったのだけど。
「それでも、お前は私の大事な娘だ。我慢なんてさせずに、もっと守ってやりたかった。……エルミラ、お前はもう自由になっていい。後の事は私がどうにでもする」
「……お父様?」
予想外の言葉に目を丸くしていると、お父様がディートリヒ様に微笑みかけた。ディートリヒ様が小さく頷くと、お父様はほっとしたように息をついて、それから──部屋を出て行ってしまった。
ドアは薄く開いているけれど、それでも……いま、二人きりというのは変わらないわけで。
「俺の話を聞いてくれるか、エルミラ」
「は、はい。もちろんです」
「ははっ、いつの間にか……俺達の間には壁が出来てしまったな。その口調もそうだ」
昔、まだわたし達が何にも縛られていなかった頃の事を思う。
何もかもが自由で、何もかもが楽しかった。
「君がレジエスの婚約者になって、気が狂うかと思った。君の隣にいるのは、俺だったはずなのにと」
「……王命、でしたから」
「そうだな。俺も君に婚約を打診するつもりだったんだ。あの日、国に帰った俺は父上にそれを伝えて……君の元にその打診が届く前に、君はレジエスの婚約者に決まってしまった」
あの日……それはきっと、花畑で一緒に過ごしたあの日の事だろう。
いまもわたしの胸を照らしてくれる、暖かな思い出。
「君を諦める事なんて出来なかった。全てを捨てて攫ってしまいたいと、何度思った事か。……それでも君が幸せにいるなら、笑っているならと自分に言い聞かせて、見守る道を選んだ。それが……このざまだ」
ディートリヒ様の言葉に、胸の奥が甘く疼く。ドキドキと鼓動は落ち着かなくて、繋いでいる手が震えてしまいそう。
だって、ディートリヒ様も……わたしと同じ熱を抱えていてくれたのだから。
ディートリヒ様は空いた手で指をパチンと鳴らした。わたしの目の前に差し出されたのは──一輪の薔薇。濃いピンク色をしたその薔薇は、瑞々しく花香を漂わせている。
「あの日からずっと君の事を愛してる。どうか俺に攫われてくれないか」
あの日からずっと泣き続けていた、わたしの中の【幼いわたし】が泣き止んだ。
そっと薔薇に触れても、消えたりしない。これは夢じゃない。
「どうか攫って下さい。わたしも、あなたを愛しています」
嬉しそうに笑ったディートリヒ様の腕に、わたしは閉じ込められていた。
焦がれていた場所だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます