6.溢れる感情
その日の夜から、わたしは熱を出して寝込んでしまった。
父も母も、弟のルシオも、皆が代わる代わる部屋にやってきては様子を窺ってくれる。
心配そうな皆の様子が嬉しいけれど、頭がぼんやりと重くてうまく言葉を返せない。
ただ寝ているだけなのに、溢れる涙が止まらない。だから皆が余計に心配しているのだろうけれど。
重たい靄の中にいるようだった。振り払いたくても叶わずに、わたしを縛り付けている。
今日の事だけでなく、過去の事──辛かった日々が本のページを捲るように駆け巡る。
レジエス殿下に対してこんな気持ちを抱えて、信頼も出来なくて、友情だって消え失せて……そんな中でも婚約を続けるなんて無理だった。
だけどこれは王命で、従わなくてはならなくて。もう逃げたいのに、それが許される場所なんてこの世界にはない。
「……ディートリヒ様に会いたい」
月を溶かしたような銀色の髪が好きだった。
深くて綺麗な瑠璃色の瞳が好きだった。
少しつり目で、きつい顔立ちだと気にしているのが可愛らしいと思った。
笑ってくれると嬉しくて、隣に居るだけで胸が疼いて、触れた場所から燃えるように熱が広がって、苦しくて──それなのに、一番落ち着くのは彼の傍だった。
嗚咽を漏らしているうちに、わたしの意識は眠りの中へと落ちていった。
***
翌日、熱はだいぶ下がったけれど、まだ平熱には程遠い。
診て下さったお医者様からは風邪だろうと言われていて、治るまでは学院も妃教育も休む事になった。
その日には王妃様からお見舞いにとお花が届いた。
添えられたカードにはわたしを心配する言葉が丁寧な文字で綴られている。
王妃様は優しい人だった。
わたしが義理の娘になると喜んで下さって、妃教育の合間にはよくお茶に誘って頂いた。
流行りのドレスや、美味しいお菓子の話題に花が咲いた。王妃様の事は好きだった。
きっと……王妃様はわたしの心が誰の元に在るのか、気付いていたのだと思う。でもそれには触れずに、わたしを受け入れて下さった。
その翌日にはレジエス殿下からお花が届いた。
大輪の百合が美しい、見事な花束だった。それがどうにも受け入れられなくて、部屋に飾るのはやめてもらった。
添えられたカードにはわたしを心配する言葉が綴られていた。
でもそれを素直に受け止める事なんて出来なくて──また、熱が上がった。
***
また翌日になって熱は下がったけれど、学院はお休みする事にした。
いつから行けるだろうと考えていたら、来客を告げられた。レジエス殿下だったらどうしようかと思ったけれど、それは杞憂だった。
「エルミラ!」
わたしの部屋に飛び込んできたのは、ミレイユだったからだ。彼女も学院を休んだのか、制服姿ではなくデイドレスを着ていた。
お見舞いの果物だと持ってきてくれた包みを侍女に渡した彼女は、ベッド横に用意されている椅子に腰を下ろす。
「具合はどう? 先触れもなく訪ねてきてしまってごめんなさいね」
「気にしないで。もう熱も下がったのだけど、大事を取って休んでいるだけだから。こんな格好で申し訳ないわ」
寝衣姿にショールを羽織ったわたしは、まだベッドから出られないでいた。上体を起こして、背中にはやわらかなクッションをいくつも詰めて貰っているから、楽な姿勢を取れている。
「三つ編み姿も素敵よ」
「ふふ、ありがとう」
一本の三つ編みを肩から胸に下ろした姿は、どう見ても病人だった。もう良くなっているから、少し恥ずかしくもあるのだけど。
侍女が紅茶を用意して、サイドテーブルに置いてくれる。わたしの分はベッドの上でも使える小さなテーブルに用意された。わたしの紅茶にはミルクと蜂蜜をたっぷり入れて貰ったから、いつもよりも甘い香りがする。
侍女は礼をしてから去っていった。部屋にはわたしとミレイユだけしかいない。
「熱が下がったのなら良かったわ。きっと疲れが出てしまったのね。あなたはいつも頑張っているから」
「ありがとう。でもね、もう……頑張れそうにないの」
ぽつりと漏れた言葉は、自分でも情けなるくらいに、か細いこえだった。
紅茶のカップを持ったままでミレイユの動きが止まっている。美しい水色の瞳が驚きに丸くなっていた。
「何があったの?」
「特別な事があったわけではないのよ。レジエス殿下と、ユリアーナ様達が一緒にお話しているのを聞いてしまっただけ」
ミレイユは眉を寄せながら紅茶を飲んでいる。
機嫌が急降下している事に気付いて、苦笑いが漏れてしまった。
「そんな顔をしないで」
「だって、碌な話じゃなかったんでしょう」
「そうね。ユリアーナ様達は口々にわたしの事を責めていたわ。学院を休みがちな事だとか、わたしが我儘ばかり言っているとか……」
「呆れた。休んでいるのは妃教育の為でしょう。エルミラの我儘なんて、私だって聞いた事がないのに」
苛立ちを隠さずに言葉を紡ぎながらも、ミレイユの所作は美しい。音を立てずにカップをソーサーに戻したミレイユは、身を乗り出してわたしの手を握ってくれた。
「身に覚えのない事を言われるのは、まぁ慣れているというか……いつもの悪評でしょう。わたしが嫌だったのはね、レジエス殿下がそれを否定してくれなかった事なの」
「嘘でしょう」
「本当。否定も肯定もしなかったけれど、ユリアーナ様達はそれを肯定だと受け取ったでしょうね。あの人達の中では、レジエス殿下はわたしという婚約者に振り回されているように見えているんだわ」
「なんてこと……」
「一番悔しかったのはね、わたしが公爵家の力を使って婚約者になったと思われている事。これは王命で、そこにわたしの意思なんてなかったのに……」
もう枯れ果てたと思っていたのに、涙が溢れて零れ落ちた。
泣いてしまうなんて恥ずかしく、笑って誤魔化したくても涙は止まらない。
握ってくれるミレイユの手が温かくて、わたしからもしっかりと握り直した。
震える呼吸が聞こえて顔を上げると、ミレイユの頬も涙に濡れていた。それを見て、またわたしも泣けてしまった。
「わた、し……ディートリヒ様のお嫁さんになりたかった、のに……っ。でも、王命だって……レジエス殿下と婚約、を結ばれてっ……悲しくて、辛くて堪らなかった……っ!」
我慢していた言葉が溢れ出る。
今までずっと飲み込んでいた。これを口にしてしまったら、もう戻れないって分かっていたから。
「わたし、貴族だから……公爵家の娘だから、我儘言っちゃいけないって、っ……。でも、本当は、嫌だった……! 好きな人の、傍に居たかったの……っ」
「エルミラ……」
ミレイユがわたしを抱き締めてくれて、わたしもぎゅっと抱き着いた。
嗚咽に、更に涙が溢れてくる。呼吸がうまく出来なくて苦しいのに、言葉は止まらなかった。
「どうして、あんなに意地悪されなきゃいけないの……! レジエス殿下は、わたしの……っ、味方だって言うけれど、そんな事はなかったの。もう、我慢するのは、いや……結婚なんてしたくない」
嗚咽を漏らしていたのはわたしだけじゃなくて、ミレイユもだった。
わたし達は抱き合ったまま、子どものように泣いていた。
***
落ち着きを取り戻した後、腫れあがったわたしの目元に治癒魔法を掛けてから、ミレイユは帰っていった。
感情を爆発させたからか、心の中はすっきりしている。
疲労感に体が重くて、わたしは耐えられずに横になった。毛布に包まり、丸くなったわたしは眠気に誘われるまま目を閉じた。
鼻の奥がつんと痛む。
それがなんだか可笑しくて、少し笑った。
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