10.執着
婚約解消の手続きをはじめて、一週間が経った。
それが承認されたという報せを受けて、わたしは久し振りに学院へと向かう事になった。
グアル=ディオラへの学院へ編入する事になって、その事務手続きは既に済んでいる。全てが終わった今日、お世話になった先生方に直接挨拶がしたくて、学院へと足を運んだのだ。
小雪の舞う、寒い日だった。
時折吹く強い風が、降り積もったばかりの雪を散らしていく。風の流れるままに、雪は道のような模様を描いている。
「寒くないか?」
「ええ、大丈夫」
わたしの隣に立っているのはディートリヒ様だ。
この後に、共に王城へと向かう手筈となっている。レジエス殿下は朝から休むと聞いているから、学院で会う心配もない。
この学院を訪れるのも、今日で最後だ。
楽しい思い出が多いわけではないけれど、何だか感慨深くなってしまう。
最後の先生に挨拶を終え、研究室を後にする。
それがちょうど、授業が終わるタイミングと重なった。廊下に出て来た生徒たちが、わたしとディートリヒ様に気付く。
ざわめきはいつもより悪意に満ちている気がした。
きっとわたしが、レジエス殿下ではない男性と共にいるからだろう。それを説明してあげるつもりはないのだけど。
「エルミラ、お疲れ様」
立ち尽くす生徒達をかき分けて、わたし達の前に現れたのはミレイユだった。
彼女も今日は制服姿ではなく、デイドレス姿だ。彼女も留学を取りやめる手続きを済ませている。もう用事はないはずだけど、きっとわたしの為に来てくれたのだろう。
「ミレイユも。もう終わったの?」
「ええ。退寮手続きも終わったし、荷物も運びだしたわ。わたしは先に戻って、あなたの部屋がちゃんと整っているか確認してくるわ」
「ありがとう」
「……何もレンダール公爵家に行かなくても良かったのに」
「ふふ、少しの間だもの。少しくらい我慢したっていいでしょう」
楽しそうなミレイユとは正反対に、ディートリヒ様は大袈裟に肩を竦めている。そんな二人の様子がおかしくて、わたしはくすくすと笑みを零していた。
「エルミラ!」
悲痛な声は、人垣を押し分けてわたしの方へ近付いてくる。
わたしを庇うように前に出たディートリヒ様と、わたしの隣に立ってくれるミレイユがとても心強い。
生徒達を押しのけるようにして現れたのは──ここにはいないはずのレジエス殿下だった。
「ディートリヒ、お前がどうしてここに……!」
レジエス殿下はいつもの温和な表情をしていなかった。憎々し気にディートリヒ様を睨みつけている。その様子に周囲を囲むユリアーナ様達が顔色を悪くしているのが見えた。
「エルミラの付き添いに」
「お前がエルミラの名を呼ぶな! 彼女は僕の婚約者だ!」
怒鳴り声に身が竦んでしまう。ディートリヒ様の向こうに見たレジエス殿下の緑の瞳には、強い執着の色が表れていた。
こんなレジエス殿下は見た事がない。そう思ったのはわたしだけではなく、ユリアーナ様も驚きを隠せないようだった。
「婚約者だというなら、なぜエルミラを大事にしなかった? 彼女がこの学院内でどんな扱いを受けていたか、知らないわけじゃないだろう。お前が扇動していたんだから」
「違、っ……! 僕は……」
「お前が否定をしないという事は、是と受け取られる。そんなの分かり切ってた事だろう」
「そんな、僕はそんなつもりじゃ……。大体、どうしてディートリヒがここにいるんだ。これは外交問題だぞ!」
「滞在許可は得ている」
「なっ、僕は聞いていない!」
「お前に話す必要がないと、陛下はそう判断されたんだろう」
ディートリヒ様とレジエス殿下のやりとりを、わたしだけではなく生徒達も、それから教師も見ている事しか出来なかった。
「ディートリヒ、お前と話していても埒が明かない。エルミラ、僕のところに来るんだ」
レジエス殿下は怒りを隠さずに、わたしを呼んだ。こんな視線を向けられた事はないから、足が竦みそうになる。でも……肩越しに振り返ったディートリヒ様が優しく微笑んでくれたから、落ち着きを取り戻す事が出来た。
一歩を踏み出し、ディートリヒ様の隣に並び立つ。
そういえば、どうしてレジエス殿下はここにいるのだろう。
ここからの言葉は、本当なら王城で告げるはずだったのだけど。
「レジエス殿下、わたし達の婚約は本日をもって解消されました」
「は……?」
「先日より婚約解消に向けて、諸々の手続きをしていたのです。本日それが承認されましたので、この後に王城でご挨拶をする予定だったのですが……レジエス殿下は今日、お休みをされていたのでは?」
「それは……君の姿を学院で見たと聞いたから……」
「左様でしたか。それはお手数をおかけしました」
「エルミラ……僕との婚約を解消って、なぜ……」
レジエス殿下は信じられないとばかりに首を何度も横に振る。周囲を囲む側近やユリアーナ様は戸惑っているように見えた。
わたしは意識をして背筋を伸ばした。胸を張り、堂々とした姿を見せられるように。
「殿下はそれを望まれていたのではないですか。周囲の皆様もそう思いますでしょう。ねぇ、ユリアーナ様?」
「そ、そうですわ。婚約が解消されたのは喜ばしい事ではありませんか。だってエルミラ様は公爵家の力でレジエス様の婚約者になったと──」
「ふざけるな!」
喜色に満ちたユリアーナ様の言葉を遮ったのはレジエス殿下だった。
睨みつけられたユリアーナ様は顔色を悪くして、その場に座り込んでしまう。
「エルミラは僕のものだ。婚約解消なんて僕は認めない!」
「なぜですの……。だってレジエス様はエルミラ様を疎んでいたのでは……」
ユリアーナ様には酷な話だと思う。
いつもなら困った様子で同意するレジエス殿下が、わたしを想っているなんて分かるわけがないのだから。
「お前が認めなくても、もう婚約解消は成立している。お前がエルミラを大事にしていれば、こんな結末にはならなかったのかもな」
「うるさい……うるさい! エルミラは僕だけを見ていればいいんだ! 他の誰かがエルミラを見る事だって許さない。エルミラには僕がいればいい。そうだろう!?」
「歪んでいるな」
強い執着に、背筋が冷える。
恐ろしいと思ってしまうほどに、レジエス殿下の瞳から光が失われていた。
「兄様、王城へ移動した方がいいんじゃないかしら」
「そうだな。エルミラ、レジエスと共に転移する」
「わかりました」
「ミレイユ、後は頼んだ」
「はいはい。ひとつ貸しにしておくわ」
静まり返った廊下で、いつも通りの二人の会話がひどく浮いている。ディートリヒ様はそれを気にした様子もなく、わたしの腰を抱いてから逆手の指先で円を描いた。
わたし達とレジエス殿下の足元に魔法陣が描かれていく。
瑠璃色の光が魔法陣か放たれる。魔力に包まれた次の瞬間、わたし達は王城の一室に立っていた。
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