12.薔薇の香り
暖かな陽射しが降り注ぐ、そんな日だった。
テラスに出てみると、冷たい風が体を包む。ぶるりと体を震わせて、やっぱり室内に戻ろうと踵を返したその瞬間、わたしの体は抱き上げられていた。
「こんな薄着で外に出たら、風邪を引いてしまうぞ」
「ディートリヒ様」
わたしを抱き上げたディートリヒ様はそのまま部屋に入り、後ろ手に窓をしっかりと閉める。
ほんの少ししか外にはいなかったのに、それでも体は冷えてしまっていたようだ。部屋の暖かさが心地よくて、息をついた。
ディートリヒ様はわたしの事をソファーの上にそっと下ろしてくれる。優しい仕草に鼓動が跳ねる。それもこれも、ミレイユがおかしな事を言うからだ。
『ディートリヒ兄様って宝物に触れるかのように、エルミラに接するのね』
大事にされている自覚はあるけれど、何だかその言葉が恥ずかしい。嬉しいけれど、ドキドキしてしまう。「宝物ですか」なんて本人には聞けないから、余計にそう思ってしまうのかも。
ここはグアル=ディオラ王国の城にある、王族専用のサロンだ。
祖国であるバルレート王国を離れて二週間。普段はミレイユの実家であるレンダール公爵家にお世話になっているけれど、今日はディートリヒ様とのお茶会で王城にお呼ばれしたのだ。
時間を見つけては会いに来て下さるディートリヒ様だけど、こうしてゆっくりとお会いするのは久し振りだ。
侍女がコーヒーとお菓子を用意して下がっていく。開けられたままの扉の先には騎士が控えているけれど、この部屋にはわたしとディートリヒ様しかいない。
その事にさえドキドキしてしまうのだから、わたしの胸はそろそろ壊れてしまうのではないだろうか。
「学院には慣れたか?」
「ええ、ミレイユのおかげね。皆さん好意的に接してくれるし、授業もとても楽しいの」
「それなら良かった。毎日でもレンダール家に行きたいんだが、ミレイユがうるさいからな」
大袈裟に肩を竦めて、ディートリヒ様がカップに手を伸ばす。上から見ると花の形を模しているカップの縁は薄いピンクに染められていた。
隣に座るディートリヒ様のカップから、コーヒーの良い香りが漂ってくる。その香りに誘われて、わたしもカップに手を伸ばした。香ばしい香りを楽しんでから、口をつける。何も甘味を足していないから、やっぱり苦い。
このままでも飲めるけれど、わたしはミルクを少し注いだ。沈んだミルクが浮き上がるのと同時に色を混ぜていく。
「……レジエスの話は聞いたか?」
「レンダール公爵と夫人から聞いたわ。保養地で療養される事になったと」
「意識もはっきりしてあの時のような狂気は見えないようだが、体調を崩しているそうだ。未来を壊したのが自分自身だと知った傷が癒えるには、時間がかかるかもしれないな」
「お父様からお手紙が届いたの。レジエス殿下が謝罪していたと、そう書かれていたわ」
「許すのか?」
「謝罪は受け入れるけれど、それ以上の事は何もないわ。……幼馴染だし、幼い時に皆で遊んだ時を思い出したら胸が苦しくなるけれど……でも、何が正解なのか分からない」
「そういうのを解決してくれるのが、時間なんだろうな」
わたしは小さく頷いて、ミルクを入れたコーヒーを一口飲んだ。先程よりもまろやかになっていて飲みやすい。
小さく息をつくと、一口サイズのチョコレートが載った小皿が差し出された。お皿を受け取り、チョコレートを一つ口に入れる。パキっとした食感の後にとろりとしたチョコレートのクリームが広がってくる。ほんのり甘くて、薔薇の香りが抜けていった。
「美味しい」
「良かった。チョコレートを食べて顔を綻ばせるのは昔から変わらないな」
「そう? どのお菓子も好きだけど……」
「チョコレートの時だけは顔が甘い」
「……何だか恥ずかしいわ」
気恥ずかしさを誤魔化すように、コーヒーカップを取って口に寄せた。このコーヒーにもチョコレートはよく合っている。
「そういえばバルレートの学院のお話も聞いたの。わたし達が王城に転移した後、ミレイユがユリアーナ様達に説明してくれたそうなのよ。レジエス殿下の真意とか、わたしが妃教育で休んでいたこと。遊び歩いていたわけではないことだとか。ユリアーナ様は信じてくれなかったそうだけど、周囲はすぐに理解してくれたみたい」
「実際に君に執着するレジエスを見ているわけだしな」
「その後はユリアーナ様も信じてくれたようだけど、リバデイル公爵家から各家に強い抗議をした事もあって、皆様だいぶ叱責されたそうよ。謝罪をしたいと父の元にお手紙が殺到しているそうなの」
「そうか。……エルミラはどうしたい?」
「どうもしないわ」
わたしはカップをソーサーに戻すと、またチョコレートを一つ手に取った。銀色の粉が振り掛けられた四角いものだ。口に入れると、サクサクと独特な食感がする。砕いたクッキーが混ぜ込まれていたらしくて、これも美味しい。
「謝罪をして満足するのはユリアーナ様達でしょう。わたしがグアル=ディオラに渡った事で、自分達に不都合な事が起きるのではないか怖がっているのもあるでしょうし。でもそれに付き合ってあげるほど、わたしは優しくないの」
「それでいいんじゃないか。あまりにもしつこいようなら、俺の名で抗議してもいい」
「グアル=ディオラの王太子殿下から抗議をされるなんて恐ろしいでしょうね。そうならないよう、父にお願いして苦言を呈してもらうわ」
「エルミラの為ならいくらでも抗議文を書くぞ? なんならその家まで行ってもいい」
「膨大な件数になってしまうけれど」
「転移すればすぐさ。俺の魔力量は幸いな事に多いから、全部の家を回る事だって可能だぞ」
「抗議に使うのには勿体ないわね」
冗談めかして笑うと、ディートリヒ様も肩を揺らす。
穏やかで、優しい空気に包まれているのに──胸の奥が疼いて苦しい。ぎゅっと締め付けられる感覚はいつまで経っても慣れない。
「確かに、それもそうだ。なら、エルミラの為に使おうか」
そう言うとディートリヒ様はわたしに向き直って、指をくるりと回して見せる。魔力が収縮した次の瞬間、ディートリヒ様の手には一輪の薔薇があった。
それをわたしの髪に飾ると満足そうに微笑んでくれる。
「ありがとう、ディートリヒ様。わたしね、あなたに薔薇を貰ってから、ずっと薔薇が好きなのよ」
「これからも贈り続けるよ。エルミラだけに」
瑠璃色の瞳に熱が宿るのが分かった。
わたしへの愛に溢れた瞳に囚われて、また鼓動が跳ねる。
ディートリヒ様の手がわたしの頬を包み、指先で耳を擽った。見つめてくる瑠璃の瞳に溺れそうになって、わたしはゆっくりと目を閉じた。
吐息が重なって──唇が触れた。
愛おしく思う気持ちが溢れ出すのが分かった。
好きで堪らなくて、この気持ちをもっともっと伝えたくなる。
ゆっくりと唇が離れても、まだ熱が残っているようだった。
「大好きよ」
「俺も。初めて会った時から、ずっと」
ふわりと香る薔薇は、幸せの香り。
それに包まれながら、今度はわたしから口付けをした。
愛してると、気持ちを込めて。
*********
これで完結となります!
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初恋は薔薇の香りがして 花散ここ @rainless
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