移眠の夏

十三不塔

移眠の夏

1


 人類は永遠の眠りの中へ旅立った。

 すると眼を覚ましているぼくは人間ではないというわけだ。すりきれたデニムとちぢれた赤髪しか持ち合わせていないにしても、ぼくはぼくのことを人間だと考えてきた。いや、そう思い込んでただけだ。ぼくはどこかの鉄砲撃ちが食料保存用にこしらえたツリーハウスの窓辺に佇みながら想いを巡らせる。食物テロ以前の世界の繁栄とその後のお粗末な顛末に。


 ――移眠トランスリープ


 食料危機に直面した人類はだんだんと先細りして、とうとう安楽死を選んだ。ほんとうは間次元通信というもので、自我意識をデータに変換してあちら側に送ったそうなのだが、別の宇宙があるなんて机上の空論に過ぎないし、あったところで先方に受信機がなければ底のない井戸に小石を投げ込むようなもの。どちらにしろ肉体的には死んでしまった。ぼくは連中がどこにも辿り着かないと確信している。虚空の残響となってちんまり消えていけばいい。いやそれは嘘だ。なかには気のいい奴らだっていた。シア、アデル、ランドン。消えて欲しくない奴らのリストは意外と長くなりそうで、思い出していたら感情が変に波立ってしまった。やめよう。

 西の空が翳った。山の天気は変わりやすい。雨雲が忍び寄ってきたとはじめは思ったものだ。肝を冷やしたのは、黒雲がこちらに近づいてきたことだ。あれは雀蜂の群れによく似て、微小な個体が密集した黒い塊だ。雀蜂だとしたらぼくはひとたまりもなくやられるだろう。

 彼らは矢のごとく一直線になってなってこちらに飛来してくる。先頭の個体が風除けになってエネルギーをセーブしているのだろう。自転車競技の後続選手が足を溜めるように彼らは羽の力を溜めている。ぼくは別の狩猟小屋から拝借して持ち歩いているライフル銃を構えたが、そんなものが当たるわけがない。丸太の壁をくり抜いただけの窓に身を乗り出したぼくは二発の銃弾を無駄にしたあと、大きな鹿の燻製肉で空隙を塞いだ。と、ポツポツと雨だれのような音がした。蜂たちが大挙して鹿肉に特攻している。ただしそのリズムには何かに呼びかけているような独特さがあった。愛嬌いっぱいのポリリズム。彼らはぼくを刺し殺そうとしているのではない。何らかのコミュニケーションを取ろうとしていた。

 鹿肉をどけた。


 ――HELLO


 視界に飛び込んできたのは五文字のアルファベットだった。群体はフォーメーションを変化させ、英単語を形作っていた。遅まきながらぼくは気付いた。これは昆虫型の極小ドローンだ。軍事偵察用に開発されたものだったが、環境調査にも同機種のバリエーションが製造された。でも個体ごとに活動するこいつらが集団として振る舞うなんて聞いたことがない。


「なんだよ。おまえら。そろってお出かけかよ」

 ぼくは母語のガリシア語で話しかけた。


 ――???


 群体はクエッションマークを躍らせた。こいつらの言語パレットにガリシア語は存在しないらしい。ぼくは英語が得意ではなかったけれど、こうなれば拙い英語でも使わないよりはマシだ。


「何の用だ?」


 ――HELP!


「なんだか知らないが、きっと無理だよ」


 ――HELP!!!


 彼らは繰り返した。パニックが去ったぼくは話を聞いてやろうかという気になりかけていた。一万にもなろうかという群体はさらに複雑な英文を形作った。


 ――修理求ム。太陽光シェル破損。


 こいつらは太陽が燃え尽きるまで動き続けられる仕組みだったが、どうやら思いがけないトラブルで故障したらしい。群れの何体かが発電システムをやられてしまったという。彼らの造り主である人間に救助を求めているのはわかったけれど、あいにくぼくは人間じゃない。そう突っぱねてもよかった。でも、ぼくは人間である前に電気技師だったし、父方の家系は虫も殺さないようなヴィーガンだったから、ふと情けをかけてやろうかという気になった。


「オッケー、まずは見せてみろ」


 すると群体は顔文字でスマイルの陣形を組んだ。ついでニッコリと弧を描いた口の部分から三匹の個体がふわふわと小屋に飛び込んできた。こころなしか活力がないところを見るにこいつらが怪我をした個体らしい。群体にとってこれは仲間を助けようとする緊急互助プログラムなのか、それともひとつの生物が自分の一部を、たとえばぶつけた足の小指をかばうみたいな仕草なのか。ぼくには皆目見当がつかない。


「代用できる部品があるはずだ。でも、おまえらは小さすぎるからふさわしい工具が要る。探しに行かなきゃな。それにしても名前が必要だ。おまえらと呼ぶのは味気ない」

 ぼくは名前を名乗った。おまえらはサルーと呼ぶいいな?


 ――SALEU?


「そうだ。気に入ったか?」


 シア、アデル、ランドン、エルネスト、ヴィド。さっきのリストの続きだ。彼らの名前の頭文字を数珠繋ぎにしてサルー。よろしくな。


 ぼくは時計工場に残された工具でサルーを直してやった。復調したサルーは三重螺旋の素敵なダンスでぼくを楽しませてくれた。


 ――THANKS


「どういたしまして」


 サルーは、ぼくを地上に残された食料のもとへと案内してくれる。サルーと衛星のリンクはまだ切れていなかったから、かなりの確度でぼくは食べ物にありつけた。かわりにぼくはサルーのメンテナンスを引き受けた。弱点を補いあって互いの寿命を少しだけ繰り延べる。これはなかなかどうして具合のいい共生関係だ。

 劣化して脆くなったインターステートの高架下では、降り注ぐコンクリートの瓦礫からサルーはぼくを守ってくれた。虫も一万匹ともなれば傘となって不吉な雨をしのぐことができる。一方、本物の雨が降ったときには、ぼくはリュックや服の中に押し込んで水分に弱いかれらを保護したものだ。原子力発電所跡を望める浜辺や、古代のメンヒルの脇をぼくたちはいっしょに通り過ぎた。旅の道すがら、お互いの身の上話をするのはロードムーヴィのお約束だったから、例に漏れず、ぼくらもそうした。


「おまえらの三分の一はアリゾナ生まれなんだな」


 ――残り。フランクフルト。珠海。


 サルーを製造したティアマット・ロボテクニクス社は、最も有名な多国籍企業のひとつであり、優雅で殺伐とした帝国を築いた。CEOであるオルダス・ウォーカーは貨幣に肖像を刻まれてもおかしくないほど大きな版図と資本を手に入れたが、その権勢をよく思わなかった連中が各地の植物種子保存庫を襲ったのだった。2482種の品種が地上から消えた。バナナに罪はないのに。


 ――君は? どことどことどこで生まれた?


「ぼくはひとつの場所で生まれたさ。スペインのエル・プエンテ州立病院の808号室」


 ――眠るのはいいこと。


「覚めるアテがあるならね」


 ――なぜ、アテもないのに寝る?


 生徒諸君。いい質問だ。


「大昔から空腹を紛らわせるには寝るに限るんだよ。ほんとうにほんとうに腹ペコのときにはそのまま眠りっぱなしでいられる。死だ」


 サルーは間の抜けた無表情の顔文字を描いた。これは腑に落ちないときのサインだ。

 まあ、わからないこともない。時空を飛び越えられるほどの知性が食べ物の問題でにっちもさっちもいかなくなるなんてお笑い草だ。人間とはそういうアンバランスで憎めない連中だったよ。


 ――どうして君。眠らない?


「悪い夢を見るんだ。いつか現実が悪夢に追いつかれたら、ぼくも眠るよ」


 とっくに両者は瓜二つだった。でも、友達に弱音を吐くのはぼくの信条に反する。

 サルーはしばし返答に窮した。こいつらがどんなふうに思考しているにしろ、ぼくは統合されたひとつなぎの何かとして見ている。複数形で考えるより便利だから。でも、ぼくは彼らの個性とでもいうものを乱暴に平均化しているのかもしれなかった。一寸の虫にも五分の魂と言うだろ?

 サルーが形作ろうとした新たな構文は、しかし破壊された。

 強力な熱線がサルーを薙ぎ払ったのだった。高出力のサーチレーザーだ。サルーの一部が700体あまり蒸発した瞬間、ようやくぼくは危機を悟った。大きすぎる代償。


「セキュリティ・ウェポンがまだ生きてるのか」


 ぼくは不用意に危険なエリアに踏み入れたらしい。まだ人類がウトウトしていなかった頃には、軍事的なテクノロジーは廃れた戦争の代わりにこうした防衛的システムに転嫁されていった。猪やテロリストや露出狂を迎撃するための武器がトレンドとなったのだ。


「サルー大丈夫か?」


 このヒステリックな防犯レベルはただ事じゃない。次の攻撃が来る前にぼくらは廃車になったトレーラーの陰に身をひそめた。


 ――被害は軽微。


「悪いな、黒こげにされちゃもう直せない」


 個体数が減ったことでサルーの文字はやや細く頼りなくなった。視界の端に花輪で飾られたスカルの標識がある。ここは眠りについた人間たちの焼却場だ。なぜ、もっと早く気付けなかったのか。あの伽藍の中では、抜け殻になった人々が炉の中に巨大なロボットアームで次々に放り込まれていく。多様な宗教のチャントをBGMにした大がかりなBBQだ。


「人間どもは身体を捨てたくせに、捨てたものの先行きについて過敏なんだ。変な連中だろ?」


 ――死に対する観念。とても複雑。


「わかってんじゃんか。じゃあ、おまえの焼け焦げた仲間にも祈りを捧げよう」


 ぼくは十字を胸に切った。サルーはかつて異端とされたキリスト教ネストリウス派の祈りの句をラテン語で空中に描き出した。ときおり突飛なインテリジェンスを見せるサルーだったが、そこをつっこむのは野暮だ。ネットから瞬時に知識を取り出せるサルーはある意味ぼくよりずっと賢い。

 ぼくたちは焼却場を迂回して進んだ。目減りしたサルーの数を補填できる仲間には出会わなかった。中庭のある円い家のある集落へさしかかったとき、ぼくはいきなり倒れた。空腹はすでにぼくの一部になっていて、うっかり眼鏡をしたまま眠ってしまう人のようにぼくは極度の栄養失調に気付かなかった。誰もいない無人の世界でぼくは永遠に眠ってしまえるはずだった。人間たちみたいに。


2


 ぶんぶんと上方でうなる羽音がする。ぼくは灰色の意識の淵で何かにぶら下がっていた。


 ――WAKE UP


 弱々しい文字を見たとき、もうぼくは眼を覚ましていた。ぼくを奈落から引き止めていたと見えたのは、点滴のチューブで、ぼくの身体はボロボロのソファに横たえられていた。足元には無数のプランターが並んでおり、瑞々しい植物が茂っていた。


「くたばっちまわなかったのか。しぶといガキだよ」


 いきなりゴツンとアタマを叩かれた。しわがれた声の通り、ぼくを見下ろしていたのは魔女めいた老婆で、聞くに耐えない悪罵を撒き散らしながらぼくの静脈から点滴針を引き抜いた。

 ここはどこだろう? 室内の形状からするとあの円い建物の一室らしい。輪切りにしたバームクーヘンをさらに六等分にカットしたみたいな空間。ぼくは上体を起こすと頭上に渦巻くサルーに「おはよう」と挨拶した。またもや彼らは数を減らし、いっそうやせ細っていた。サルーは文字を形作らずに、小ぶりのスマイルマークとなって浮かんだ。笑顔もどこかぎこちない。


「あんたは誰?」ぼくは訊いた。

「あたしはローズ。若い頃にゃバラみたいにほっぺが赤かったからそう呼ばれてた。いまじゃ黒ずんでひび割れてるけどね」


 確かに頬ずりしたくなる顔色ではなかったけれど、それはお互い様だ。


 ぼくはのろくさと礼を言った。


「感謝なら、このぶんぶん虫どもに言いな。うちの電条網を強引に抜けてきたのさ。半数以上が焼かれた。おまえの助けを呼ぶためにね。あたしも仰天して100匹ほど蠅叩きでブチ殺しちまったよ」 


 この老婆を恨む気持ちはなかった。ぼくだってはじめはサルーに向けてライフルをぶっ放したのだから。サルーが惨めにやせ細ってしまったのはぼくのせいだ。ともかくこの老婆はぼくを助けてくれたのだ。得体は知れないが、それは向こうからしてみても同じだろう。

 ようやくはっきりと室内の様子がうかがえた。

 塊根植物や青々と壁を這う蔦が見える。大きな水槽で水耕栽培されたサボテンは微笑むように花弁を開き、そのまわりをサルーが飛び回っているのだった。たくさんの古びた本やガラスとアルミの実験器具もある。呆然と佇むぼくの手にバナナが乗せられた。


「これって――」

 驚きのあまり眼を丸くしているとローズは素っ気なく言い捨てる。


「さっさと食いな」

「こいつは食物テロよりもっと以前に滅んだとされるグロスミッチェル種のバナナだよ。ありえない」

「人間だって滅んだってことになってるけど、ほら、生き残ってるじゃないか」

 老婆は不機嫌そうに口角を歪めた。

「ぼくは人間じゃない」

「見りゃわかる。おまえは知恵足らずのハナタレだ。でも、おまえが人間だってことなら見なくたってわかる。たとえ眠ってたってね」


 毒々しい言い草だったが、どこか悲哀と優しさが滲んでいた。眼を閉じて永遠の眠りにつくことを拒んだ少数の人々にはそれぞれ理由があるはずだ。詳しい事情に立ち入るのをぼくはためらった。


「ぼくの遺伝子には欠陥がある。生まれつき手に水かきのような膜があった。13歳のときにナイフで削ぎ落したよ」

「ありふれた奇形さ。一定の確率で誰にだって発現する」

「歯並びだって悪い。それにガリシア人のご先祖のやらかした反乱のおかげで、いつだってぼくらは日陰者だった。移眠に加われなかったのはそういうわけで」


 馬鹿げてる、といったふうにローズは顎をしゃくった。


「身体を捨てて行こうというのに、どうして見てくれや血で選別する必要がある? あたしらはあたしらで人間をやりゃいい。都合のいいことに奴らは人間の愚かしさごと持って行っちまったのさ。さ、腹ごしえがすんだら我が家を案内してやろう」


 ローズはゆったりとした足取りで円楼の庭に面する内廊下を歩いていく。

 右足に故障があるらしく、その歩みはナメクジを思わせた。にもかかわらず、単独でぼくを拾い出してくれたのだとしたらとんだ苦労をかけたことになる。でも、ぼくには恩返しの手段はない。それどころか被服室に眠っていたデッドストックのジーンズまで貰ってしまった。中庭の広大な菜園には、多種多様な作物が実っていた。久しぶりに午後の温かな陽射しを受けてサルーも活力を取り戻したようだ。畑の片隅の小さな土饅頭の上には、玄武岩の墓標が立っており、表面にアラビア語の碑銘が刻まれていた。


「そっちはアスパラとエシャロット。キャベツはこっちだ。玉ねぎもある」


 どれもこれも絶滅したはずの野菜ばかりだ。これだけの品種が生き残っているのならば、人類は眠りにつく必要はなかった。移眠とはなんだったのか。ローズはぼくの疑問にあっさりと答えた。


「テロリストは植物種子保存庫を焼き払ったが、そもそももっと広汎で充実した種子を独自に保存してたのさ。次の世界のために。なあ、こう思うといいよ。人類はあたしたちを置き去りにしたんじゃない、こっちが奴らを流刑にしたんだってね」

「あなたはテロリストなの?」


 こう言っちゃなんだけど、ローズはテロリストだとしても不思議じゃない面構えをしていた。

「違うね。でも共感は隠さないよ。あの頃は一握りの人間が地面や空気までを独占してたんだからね。なんにでも値札をつけられると思ってた。その虫どもを作った連中さ」

「でも」ぼくがサルーを庇おうと語気を強めると、ローズは優雅に手を差し上げた。

「わかってる。そいつらに罪はないよ」

「ローズ。ぼくはここに居てもいいかい? きっと役に立つからさ」


 やめときな、とローズは首を振った。サルーはぼくらの頭上でガタついた傘の取手のような形を浮かべた。クエッションマークだろう。


「土地が痩せてきてる。あと数年後には作物は実らなくなる。老いぼれがくたばるまでしのぐには充分だが、おまえがこれから長い日々を過ごすには足りない。ひとそろえの種子をくれてやるから新天地を目指すんだ。相棒が具合のいい場所を見つけてくれる」


 夜になると、ぼくらは漆喰の壁をスクリーンにして、サルーの影絵を上映した。

 大昔に映画の撮影所で使われていたという強烈なライトで投射されたされたサルーの影はまるで彫刻されたようにくっきり見えた。こうしてシンボルや文字を描ける時間は残りわずかだ。サルー達は植物の害虫や病気を見つけるのに役立ったから、半数をローズに託すことにした。ローズがはじめぼくの申し入れを断ったのは、ぼくがサルーをぼくの所有物のように扱うべきではないと感じたからだ。でもそれは違う。ぼくはサルーに命令したんじゃない。ここに留まってくれと頼んだのだった。サルーはそれを了承した。ぼくとの旅は危険が多い。サルーにしてもここに居るのが得策なのだ。でも、そうなるとサルーは300以下の個体数になってしまい、今後はもうはっきりした文字を描けなくなるだろう。

 数週間の滞在後、とうとうぼくが旅立つ前夜がやってきた。


 ――يقبرنيヤーアブルニー


 ぼくたちが区切られた眠りにつく直前、サルーは飛翔する虫の軌跡に似たアラビア文字を描いた。

 ローズはにわかに涙ぐんだ。知らない言葉だ。

 直訳すれば、とローズは切り出した。


「あなたがわたしを埋葬する」

 恐ろしい言葉だった。


「あなたなしでは生きられない。だからあなたの前で死んでしまいたい。暗くて湿っぽい愛の願望」


 ローズは誰かのことを思い出しているに違いなかった。中庭にあった墓標の無骨なシルエットがぼくの頭をかすめた。あれが誰のものだかわからない。詮索するつもりもない。しかし、それを唱えたローズの声は低く澄んでいた。


3


 ぼくとサルーは鉛色の河を遡っていった。

 サルーのリサーチによれば、この先に肥沃な土地があるという。そこで植物の種子を撒いて死ぬまで生きる。たったそれだけがぼくの願望だった。ローズに貰ったリュックにはカプセルに入った種子が詰まっている。何も持たなかったぼくらにとって、これはほとんど唯一の所有物だ。夏が近づいているせいか陽射しはぐっと強まったから、サルーはとても元気だ。平原を七日と七晩を歩きとおした先にうっすらと地平線よりも太いラインが浮き出てきた。かつて異民族の侵攻を阻んだという巨大で長い壁だった。


 壁に達したぼくは左手で日陰のひんやりとする石塁に触れた。

 大きな鉄扉とは別の勝手口のような木戸からひょっこりと顔を出したのは巨漢の男だった。顔一面に髭が密生していて目鼻立ちがわかりにくい。


「子供よ。何をしに来た? ここは相続者たちの居留地だ」

 唸るように髭面は言った。腰には炸薬式の銃が下がっている。


「何を相続するんです?」

「決まってる。この星をだ。我々は人類に託された」


 静かに威厳を込めて男は言った。ぼくは知っている、こいつらはオプスⅨ。食用人工肉に人間の遺伝子を加えて作り出した汎用知性体だ。眠りについた地球人は、生産が間に合わなかった人工肉の処理に困って戯れに跡継ぎを拵えたのだ。


「ぼくを中へ入れてくれ。作物の種子がある。もう一度、仕切り直すことができる」


「歓迎しようオプスⅣ」大男はぼくを差し招く。


「なんだって? いま何て言ったんだい?」


「君のことだ。オプスⅣ。オプスシリーズの先達。太古の水棲猿人類のDNAをカスタマイズした擬人種。社会適合実験に供された個体もあったという。一定の保障と引き換えに子供のいない家で育てられた、君はそんなひとりなのだろう。間違いない。我々には同類がわかる」


 全身の力が抜けてへたり込んだぼくは腹の底から笑った。

 ほんとうにぼくは人間じゃなかったんだ! それは愉快で底冷えのする事実だった。ローザが認めてくれ、ぼく自身も心の片隅で信じていた前提がガラガラと崩壊した。人間じゃない。虚脱と絶望がモザイクタイルみたいにぼくの内側に敷き詰められていく。ぼくは煙よりも曖昧に立ち上がった。


「この星に残留したテクノロジーは相続者たちを害することはない。その虫どもがどうして君に懐いたと思う? 君が相続者だからだ」噛んで含めるみたいに男は教えてくれた。


 思い当ることは他にもある。焼却場のサーチレーザーがぼくを焼き払わなかったのも不思議だった。あれはAIによる厳密な運動予測によって制御されており、アニメや映画のそれのようにドタバタと身を躱せるような代物じゃない。はじめからぼくは攻撃対象から除外されていたのだ。


「さて、どうする?」

「ここへ入れてくれ。ぼくは人間じゃない。それでいい」

「ではその虫たちと決別しろ。我々は人類のテクノロジーを拒絶する。はじめから歴史をやり直すのだ」

「その銃は?」

「自分たちで造った。鍛造の技術は急速の進歩を遂げている」


 どん、と分厚い胸を叩いて男は言った。ぼくのライフルならとっくに壊れてしまった。


「やめとくよ。あんたらは人類のテクノロジーを拒絶すると言っておきながら、ただ焼き直しているだけだ。ぼくは友達と彷徨う。そしていつか生きる場所を見つける。死ぬための二つの穴も」


 そうしてぼくは石壁に背を向けようとしたが、待て、と男はぼくを呼び止めた。


「種子を置いていけ。我々が有効に使わせてもらう」


「いやだ」ぼくは言った。男はきっと銃を抜くだろう。そうして力任せに脅すのだ。こいつらは人間の美点を立派に受け継いでいる。カチャと引き金を引く音がする。ほら考えた通りだ。意外だったのは、もう二言三言威嚇をするかと思いきや、いきなりぶっ放してきたことだ。


 ぼくは脇腹を衝撃を受けた。背中が地面にくっつくと、視界には銃口と髭と夏の空だけが残った。ぼくのピンチにサルーが色めき立ち、ぶんぶんと威嚇の羽音を響かせる。


「致命傷ではあるまい。治療してやろう。きっと命は取り留めるだろう。さあ、その虫どもを追い払え」

「いやだ。こいつらはぼくなしじゃ生きられない」


「そうか」男は今度こそぼくの心臓に狙いを定めた。瞳の奥は粘っこく凍りついていた。


 人間でないぼくであっても永遠の眠りにつく時が来たらしい。

 もう一度、金属音の予備動作を終えて銃が鎮まる。

 ぼくは最後にサルーに別れを告げようと視線を彷徨わせたが、彼らはどこにもいなかった。ぼくは眼を閉じた。悪夢がついに現実を追い抜いて、どこまでもぼくを引きさらっていく。


 ボッと破裂音がした。ついで悲鳴が上がった。

 眼を開けると、地面に落ちた銃とちぎれ飛んだ男の中指があった。お粗末な造りの銃が暴発したのだろう。しかし腹の破れたぼくには幸運を感じる余裕はなかった。神か、それに近い何かを呪いながら髭面が扉の向こうへ駆けこんでいく、その背中を見送った。


 ぼくはよろよろと立ち上がり、もう一度サルーを探した。

 ついに見つけたのは、バラバラになった金属塊のそばだった。理解は唐突に訪れる。サルーは銃口に飛び込んで銃を暴発させたのだ。ぼくがいなくちゃサルーが生きられないなんて嘘だ。守られているのはいつだってぼくの方だったし、とどのつまり最後までそうだった。サルーは粉々で、塵と混じり合い、ひっそりと気配もなく、もう動かなかった。


 ぼくは壁に背を向けて来た道を引き返した。柔らかい扇状地に二つの穴を掘るつもりだった。ひとつはバナナの種を埋めるための小さな穴。もうひとつはぼくが眠るための穴だ。生と死の穴二つ。息も絶え絶えに辿り着くと、リュックから種子を取り出した。ローズの家で食べたグロスミッチェル種。

 ぼくは、ぼくと種子とを埋めた。自分の穴に横たわると、お馴染みの羽音が聴こえ、何かが舞い降りた。


 そいつは、ぼくの睫毛に止まったが、あまりに近すぎて見ることができなかったし、たった一匹の重みを持ち上げる力さえぼくのまぶたにはもうない。

 ぼくは舌先で空中にアラビア語の文字を書く。いや、それはひび割れた声だったかもしれない。


 ――ヤーアブルニー


 君がぼくを埋葬する。何も芽吹かず、何も腐敗しない、ほんとうの夜が来る。

 不規則だった呼吸が途絶という安定を得る。死の燐光にすべてが包まれていく。

 移眠。人間でないぼくでさえ移り行くだろう。

 

 生温い夜風が死者の頬をかすめたとき、ぼくは、ぼくの睫毛から飛び立った。

 

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