大いなる養蜂家(公募中につき非公開)

廉価

第一部 少年編

1-1

 陽光がこの地上に広く降り注ぐとき、草木によってその一部が絡め取られて蓄えられる。光は植物が差し出す税金としてミツバチによって徴収され、彼らの蜜胃と呼ばれる器官で熱を潜在させた糖蜜へと圧縮され、収奪者である我々が最後にその甘さを知る。

 人差し指から垂れた一滴の蜜の中に沼地の夕焼けが逆さまに映っていて、それが幼い私の世界のすべてだった。テムズ川の下流にある陰鬱な湿原、低空の黒い雨雲や業火のように赤い高層雲、それらの隙間で恨みがましく輝く空そのものの黄金色。私はそれらの色彩の溶け込んだ雫を舐め取って、その日の労働のささやかな対価とした。

 私は教会と墓地の近くにある小さな養蜂場で、養蜂家である義兄の言いつけどおり、巣箱の点検をしていた。教会の向こうには蜂の領土である花畑が広がっている。墓地には私の両親が眠っており、だから私は義兄の家の世話になっている。

 私の小さな身体に任された仕事とは、ミツバチが巣箱の中に作る、王台と呼ばれる代物を見つけて壊してしまう作業のことだ。女王バチが健在であるとき、その新しい玉座が育ってしまうと、二重王権を嫌う彼らの国家は巣の離散を敢行してしまう。どこかで新たな王朝を興すために。だからこの作業が必要だと私は義兄ジョーに教わった。

 古くはウェルギリウスによって称賛された小さな臣民たちを導く私の気高い作業を妨げたのは、その日突然、墓地の棘だらけのイラクサの茂みから現れた、汚れて穴だらけのフロックコートを着た恐ろしげな風体の男だった。

「動くな小僧!さもなくば喉を掻っ切るぞ!」男はその邪悪な手で、塞いだ私の口ごと頭をガクガクと揺らしながら言った。「声を抑えて言え。お前の名前は?」

「フィルです」私は震えながら名乗ったが、男はそう呼ぶつもりはないようだった。

「これはそこに入るか?」男は自分の持った板のような荷物と巣箱を指さして言った。覆い布を取ったその荷物は、暗い背景に青白い顔の紳士が描かれた肖像画だった。

「なぜそんなことを?」

「入るかと聞いているんだ、餓鬼(little devil)め!」

 恐怖に打たれた私は絵画を受け取って、巣箱の外から合わせてみたが、不吉にもその大きさは合いそうに見えた。「入ると思います」

「ならば入れろ」

 その不可解で冒涜的な指示を聞いた私の心には、有り金を差し出せとか(持っていなかったのだが)、服を脱いで逆立ちしろとか言われたほうがまだましだったかもしれないほどの恥辱が溢れてきた。

 私が防護装備をつけて巣箱の重い蓋を開けていると、男が震え上がって肩をすくめた。平原一帯に大砲の音が響き渡り、こだましたからだ。それは脱走囚や凶悪な逃亡犯がいるときに軍隊が鳴らす警報だった。

「聞こえたか?顔は割れてないから、俺一人でしばらく逃げまわるのは簡単だが、こんな馬鹿げた板を持って歩いてるところを見つかってみろ。どうなるかわかるな?」

 それが、なぜ我々がこんな恥ずべき行為をしなければならないかの説明らしかった。つまり男は、絵画泥棒なのだった。これが純然たる犯罪であることを知った私の精神状態は、倒錯的な儀式だと思っていたときよりもいくらかマシになった。

 私は絵画を、口を開けた巣箱の上からゆっくり下ろしていった。それはまるで職人が誂えたかのように、悪夢のような偶然によって、空いていた枠に滑り込んでいった。

「よし」絵画泥棒は、いつも私の頭を庭の植木よりもぞんざいに剪定する床屋がひと仕事終えたときに言うように言った。

 何も良くないと思ったが、私は巣箱の蓋を閉めた。

「明日の朝、ここに来てまた巣箱を開けろ」男は念を押すように言った。「いいか、俺はもうお前の名前も、住んでる家も知ってる。このことを誰か他のやつ、家族にでも漏らしてみろ。お前の腹を掻っ捌いて内蔵を全部スミスフィールド市場の肉屋の軒先に吊り下げてやるからな」


 翌朝、泥棒が監視する前で私は巣箱を開け、絵画を取り出した。顔中蜂に群がられながらも厳粛な表情を保った紳士の顔がせり上がってきた。そこで私は、巣箱にはまだキャンバスの白い縁が見えることに気づき、それも取り出した。そこにも同じ紳士の顔があった。

 私と盗人はしばらく唖然としていたが、先に盗人が正気を取り戻した。

「小僧、お前何をした?」彼は声を荒げた。「なぜ絵が二枚に増えているんだ!」

 私は巣箱の上に二枚の絵画を並べた。後から取り出したほうが本物で、もうひとつは巣板の表面が変化したもののようだった。

「お前には一夜にして仕事を終える贋作師の友達がいるのか?そいつとおれをからかっているのか?」

 男が激昂したので、私は強引な仮説を口に出した。「蜂がやったのだと思います」

「蜂が?」

「この蜂は、巣の外壁が壊されたとき、模様ごときれいに直すんです。まるで聖堂の左官工みたいに。これはそういう、異国のミツバチなんです」

 嘘ではなかった。巣に石を投げても、一夜にして跡がわからないように修復する。この特殊な性質を持った蜂は、普通の養蜂で使われるセイヨウミツバチ(Apis mellifera)ではない。珍しいもの好きの義兄が港から来た業者から買い付けた、インドミツバチ(Apis indica)なのだった。こんなことが出来るとは信じられなかったが。

「ほら、偽物のほうは絵の具じゃなくて、蜜蝋や黒い土か何かで描かれてるでしょ」

 私は男が怒り狂うのを覚悟したが、彼は黙り込んでしまった。そして黙考の末言った。

「小僧、これはインドのミツバチか?」

「なぜわかるんです?」

「俺はインドに兵役に行っていたことがある。北部の山奥のある村に出向いたとき、やたらと模様が複雑な巣を作る蜂がいると聞いた。あのあたりの岩山には奇妙な岩窟があって、鉱物が長い年月の反応と変成を受けて、岩壁に色とりどりの縞模様を描く。その蜂が作る巣はその壁に張り付いていて、地元民でも見分けられないほど溶け込んでいやがるんだ、天敵の目を欺くために」

 私はジョーさえ知らなかったその蜂の自然状態での生態と、過剰なまでの擬態能力の起源を知って、恐怖を忘れて聞き入った。しかし、それを遮ったのは朝の霧を震わせる大砲の轟音だった。警官隊はもうすでにそこまで来ているかもしれない。

「俺はもうここから去る。わかっているだろうが、このことを誰にも話すんじゃない」

「このことって?どこまでを?」

「全部だ、馬鹿者。この〝複製〟は破壊しろ。お前が疑われる」

 泥棒は港の方向へ歩いていった。盗品を海外に持ち出すつもりだろう。彼は最後に一度だけ振り返ったが、その眼は私に対する脅迫や監視のそれではなかった。もちろん、優しさや哀れみでもない。それは共犯者への目配せだった。

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