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フランスは自国の絵画データがAIに無断で学習され、画風を模倣したものが大量に再配布されていることを重く見て、イギリスと一八五二年に締結した国際著作権条約を強化することを申し出た。
私達はすでに、先手を打ってそれを阻止するべく動いていた。私たちが盾にすることに決めたのは、フェア・ディーリング(公正利用)の権限だった。一八四一年のアメリカのフェア・ユースという用語の登場に先立って、イギリスで用いられた概念で、「著作物の一部を引用したり、批評や教育の目的で利用したりする場合には、著作権の侵害には当たらない」という考え方のこと。その公正利用の例には、非商業目的の研究や学習、批評や報道など、具体的な指定があった。では、AIによる学習はどうか。
ここで我々は、AIが「集めた著作物から非商業目的で人間と同じように学習」し、それによって身につけた能力(学習済みモデル)によって「自力で作品を作ったものを商業的に販売する」、というロジックを成立させなければならなかった。つまり、学習段階と生成段階を分離したのだ。これは人間の作家が著作物によって自己を訓練し、その知識をもとに自身の作品を作ることに問題がないことに相当している。これによって、生成段階のAIとそのユーザーは完全に人間の作家と同等の権利を持つことができる。
ここにマジックがある。AIの学習-生成プロセスは、一貫して人間の創作活動より決定論的で複製的である。拡散モデルが擬似的なランダム性を持ち込んだとはいえ、結局のところ巨大な関数による機械的な処理に過ぎない。そのプロセスを寸断して、〝学習〟という綺羅びやかなラベルがついたブラックボックスに入れてシャッフルしただけで、その翳りが消えてしまったのだ。ハーバートは私の手品師としての手腕を称賛した。
著作権法の制定を司る内務省は、私のマジックに騙された。内務省は、著作権法におけるフェア・ディーリングにまつわる条文に、「有機的または無機的に構成された機械類似物による情報解析の用に供する場合」の例を追加した。これはウェミックの案によるもので、解析機関のさらなる発展や、のちに暗号解読のために軍事転用する際に有利になるだろうという説得によって正当化された。
かくして我が国はフランスからのAI規制の提言を断り、他国の新聞からはAI学習の楽園と呼ばれるに至った。
巣箱の価格はついに、労働者階級の手に届く水準まで降りてきた。それは喜ばしいことに思えた。AIアートのおかげで画材を買えなかった人々がアートを始めるきっかけになったとか、アートの民主化だと言う言説が生まれ、私はそれに完全に同意した。とはいえ、普及に伴って巷に溢れた生成物の大半はポルノまがいのものだった。
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AIアートだけを集めた展覧会がトラファルガー広場にあるナショナル・ギャラリーを借りて行われた。
私の目標はAIアートが人間の絵画と区別せずに展示されることなのだが、画家たちが出品を拒否したので仕方ない。実際に世界各所の有力な画廊ではAIアートの持ち込み拒否など排斥措置が取られることが多く、私は妥協した。
私はそのオープニングセレモニーを主催し、関係者にスパークリングミードを振る舞ってまわった。驚いたことに、私の招待状をずっと無視してきたエステラが現れグラスを取った。琥珀色と合う黒のイヴニングドレスの彼女は、無言で私を見つめながらグラスに口をつけた。
「来てくれてうれしいよ、エステラ。君はあのデモには参加していないんだね」
私は無断学習反対のシュプレヒコールが聞こえる広場の方向を示して言った。
「そう思う?ちょっと抜け出してきただけかもしれないでしょう」
私のパーティーを休憩場所に?エステラの冗談に私は笑ったが、真面目な顔の彼女に対してこう言った。
「君があの連中と一緒に抗議活動を?まさか。彼らは変化を恐れ、新しい技術を嫌悪している。賢明な君は違うはずだ」
「彼らが愚かだと言うの?」エステラは不満そうに腕を組んだ。
「残念ながらね。歴史を顧みればわかる。美術界は新しい技術が現れるたびに、強い反発を起こしたね。写真や屋外制作は、古い世代の画家に受け入れられなかったと聞く。若い画家が科学の産物である新しい画材を使う度に、旧世代からは卑怯だという誹りを受けた。今のAIフォビアも同じだよ。でも結局は、適応できた者が生き残った。その歴史の繰り返しだよ」
「あなたには美術史が間違って伝わっているようだわ。芸術家は常にあらゆる新しい技術を取り入れてきたけれど、剽窃だけは一貫して古来から受け入れない。彼らが嫌悪しているのは科学ではなく、盗作。それだけよ」
盗作?通常の意味での盗作は、このギャラリーにひとつも無いはずだ。彼女はなぜそんな不愉快な単語を出すのだろう?
「君の言い方では、まるでこの技術が……」
私の言葉を遮って、エステラの後ろから見覚えのある男性が現れた。
「やあ、フィル。少しいいかな?」
それはウォルター・ベントリーだった。私がかつて顔を出していた若者の集会にいた彼は、いまや新聞記者でありながら、反AI派論者だ。私は反AIを出入り禁止にしているが、彼はエステラの連れ合いを偽装して会場に潜り込んだようだ。
彼がエステラと実際に婚約しているという噂も耳に入ったことがあるが、それについては考えたくもなかった。
「君か、ウォルター。いつかプレゼントした肖像画は気に入ったかい?」
「あれは悪夢だったよ。でも今なら、あの手品の原理もわかる。しかしまずはこれを見てくれ」
ウォルターは分厚い紙束を鞄から取り出して言った。「ロンドン中の画家、二百名の署名だ。ほぼ九割が無断学習を拒否している」
「内務省に提出すべきだ。僕に持ってこられても」私はあしらった。
「もちろん内務省には出すさ。でも、これをどう思う?単純に聞きたい。僕以外の新聞記者も来ている」彼は食い下がった。
たしかに、聴衆の目が私達に集まっていることを私は認めた。
「いいかい?ウォルター、これは合法なんだ」私は子供に言い聞かせるように言った。「君は著作権法のフェア・ディーリングの条項を何度か読み直してくるべきだ。インドミツバチの学習に著作物を利用することに法的な問題は何もない」
「読んださ」ウォルターは応じた。「しかし、法は倫理の最低限度という言葉があるように、違法ではなくとも極めて倫理的に正しくない行為もあると思う。それが君のやっていることじゃないか?」
私は論戦の中で、〝倫理〟という言葉には触れないほうがいいことを学んでいた。反AI派が使うその言葉は単に、彼らが感じる不快感などの〝感情〟の表明であるので、そのように言い換えてしまえばよい。〝感情だけで私達の事業を妨害するな〟、と。彼らは合法か違法かの領域を内包する、倫理という領域があると信じているが、私にとってそれは不確かな、振り払ってしまえる煙にすぎない。
私は言った。
「君たちの主観的な快不快で、我々の合法的な事業を妨害することはできない。どうしても不満があるなら、こんな妨害活動をするのではなく、法を変えるべきだ」
「そうするつもりだ」
ウォルターは署名を大事そうにしまった。
私は火のついた葉巻を挟んだ指でそれを指し忠告した。
「しかし、それは自殺行為だぞウォルター。AIの学習を規制すれば、同じロジックで人間同士の参照やオマージュも規制される。君が好きな芸術家たちの自由を奪うことになる」
「そうはならないと思う。なぜなら人間とAIは違うからだ。インドミツバチがやっているのは学習や創作ではなく、切り貼りやコラージュではないかね?」
私は巨大なため息をついた。切り貼り、コラージュ。この一年間で反AIから一万回は浴びせられた言葉だ。私は大げさな身振りで講義を始めた。
「ウォルター、君はAIの仕組みについてわかっていない。AIは絵画をそのまま切り貼りするのではなく、絵画の持つ特徴量を抽出し、ベクトルに変換してから潜在空間内で合成するんだ。君には理解できない方程式で表される関数を経由してね。それは神経巣上で行われ、人間が脳で学習することに相当するんだよ。君は人間の学習まで禁止するつもりか?もっとも、君は元からそれを厳しく制限されて育ったようだが」
周囲から笑いが起こった。
「こんなふうに畳み掛けられたら、画家たちが萎縮してしまうのもわかる」
ウォルターは傷ついた表情で、そう言ってから続けた。「蜂の巣箱と人間の脳の情報処理の原理がどこまで一致していて、どこが違うのかについては、人間の脳のほうがブラックボックスなので仮説の域を出ない。しかし、少なくとも外部に出力された結果に違いがある。これを見てくれ」
それは特定の条件下(訓練データが少ない、データの重複がある、プロンプトにデータに紐付けられたテキストをそのまま打ち込む等)で、拡散モデルが訓練用絵画とそっくりな絵画を出力してしまうことを示した論文だった。
たしかに、名画がほとんど原型のまま復元されていた。
ウォルターは詰め寄った。
「全体が複製であるような出力が可能なのだから、二つの複製を切り貼りすることも可能なわけだ。これでも問題がないと断言できるだろうか?」
「偶然だ」私は否定した。「あなた方は極めて特殊な状況で複製が出力されるよう、意図的に調整したに過ぎない」
「しかし、現に出力されているんだ」
「原理的にありえない!なぜなら、蜂は元画像を保持していないからだ。我々は情報は計量して数値化できることに気づいたが、〝遺産〟の情報量は、元データの1/50000のサイズしかないのだ。元画像を保持していないのに、どうやってそれを複製するというのだ?」
「それは……」
ウォルターは口ごもったが、私は答えを知っていた。それは高度に圧縮されているのだ。生成AIの学習とは情報の不可逆圧縮に過ぎない。
だが、それがどうしたというのだ?
人間の学習もそうでないと、誰が断言できる?
人間と機械の境界を、誰が引くのだ?誰も引けはしない!
私は聴衆に向けて、勝ち誇ったように宣言した。
「見たでしょう、皆さん。彼ら反AI派は、AIの原理について理解していない。する能力を持たない。そして、技術に対するそうした無理解こそが、不要な恐怖と排斥を生むのです!」
聴衆から同意の声があがった。それに気を良くして、私は高揚を煽る身振りでさらに続けた。
「このように排他的な、前時代的なラダイト主義者と違い、私たちは共存を望んでいます。AIとアートの共存を!しかし、すべての人がアーティストとなった今、その職業の定義は変更を迫られるでしょう」
私に向けた拍手の中、ウォルターは苦痛に耐えるような表情で退場した。
すぐに彼の後を追おうとしたエステラの腕を掴んで引き止め、私は言った。
「あんな活動家の連中とつるむとは意外だったよ」
「ええ。私も意外だった」エステラは悲しげに肯定した。
喧騒の輪の外で束の間、私達に注目する者はいなかった。
エステラはおずおずと続けた。
「言ったことがあるでしょう?私は絵画で力を示すという目標のため育てられて、それ以外に向ける心がない。実際に、あなたにそのように振る舞ったでしょう?」
「……」私は否定しなかった。
「私は自分の目的さえ叶うなら、他人や社会がどうなろうが知ったことではない。そういう利己的な人間だと、自分のことを思ってきた」エステラはそこで、目を伏せた。「でも、私の同類の画家が感じる苦痛は、私の苦痛と同じだと感じたの」
私はほとんど同情的に、なだめるように言った。
「君は、美術界に復讐するんじゃなかった?ミス・ハヴィシャムの意志を継いで」
「あなたは私以上にうまくやった。フィル、あなたは美術界を破壊している」
「破壊しているさ。古い因習をね」
私はそのとき、エステラの涙を初めて見た。
「ミス・ハヴィシャムはずっと後悔しているわ。あなたという怪物を創り上げてしまったことを」
後悔している?では、未だに届き続ける〝遺産〟は何なのか?ハヴィシャムが私を支援しているのでないとすれば、私の後援者とは一体誰なのだ?
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