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沼地での恐ろしい体験から数か月後のある日の午前、私はミス・ハヴィシャムの屋敷の鉄格子で出来た門の前に立っていた。
ミス・ハヴィシャムは大金持ちの独り身の婦人で、結婚式当日に相手に去られたことで、発狂してしまったのだと町では噂されている。
屋敷の敷地内には、中世の荘園領主が残した、ワインやミードの醸造所があったが、旦那に裏切られ逃亡されたあと、醸造所は稼働していないという。
その御婦人が何故か今になって、少量の蜂蜜酒(ミード)を作りたいと言い出した。そこで一度義兄ジョーが私を連れて訪れたところ、私だけが見初められて、この二度目の訪問に名指しで呼び出されたのだった。
ジョーと姉は貴婦人からのお小遣いを期待して、私にくれぐれも粗相をしないことと、相手には常に敬語を使うよう言い含めた。
植物のツタに覆われた正門に備え付けられた呼び鈴を鳴らすと、錆びついた機構が鈴自体よりも大きく耳障りな音をたてた。私は門が開けられるのを待つ間、屋敷の外観を眺めた。屋敷は、門だけではなくあらゆる場所がつると葉と枯れた枝で覆われていた。剪定されずに茂る樹木の枝にまとわりついて、猫の尻尾のように垂れ下がる灰色の綿毛の房ようなものは、スパニッシュモスと呼ばれる新大陸産の寄生植物らしい。私にはこの庭園が、この国に存在してよい場所とは思えなかった。
異国の植物の隙間を縫ってこちらに歩いてくる人影があった。その若い女性の背は私より少し高い程度で、こちらを見定めるその眼がはるか天上から葡萄の房のように枝垂れた植物に隠されたり現れたりする間に、それまでに見たこともないほど美しく、冷たいことに私は気づいた。それは私と同い年くらいの少女だった。
「なんだ。養蜂家の子ね。入って」
門が開けられた。若い案内人によって私は屋敷の玄関へ進んだ。
「領主館(マナー・ハウス)、あるいはサティス・ハウスへようこそ。養蜂家のぼうや」
少女は得意げに言って玄関を開け、屋敷の中に入った。
「この床のデザインはスペインのアルハンブラ宮殿から取られているの。天井には金箔。ちょうどヴェニスのアカデミア美術館みたいに」
彼女はそう解説しながら、大広間を先導した。つまりここは植物相だけではなく実際に屋敷全体がヴンダーカンマーであるらしかった。
「ここよ」
ある部屋の前で立ち止まった案内人がそう言うので、私は入らざるを得なかった。おそらくここがミス・ハヴィシャムの部屋なのだろう。少なくとも馬車代はもらわなくては。
その広間の床には異様なことに、あらゆる色彩が野放図にぶち撒けられ、散乱していた。固まった絵の具がこびりついたパレット、空のイーゼル、破れたキャンバス。そういった画材が、化粧台や椅子といったあらゆる家具と混然となって、暗く沈んでいた。
「マアム、いらっしゃいますか?」
私は敬語で断りを入れながら、絵の具が靴につかないように恐る恐る足を踏み入れた。「動かないで」突然、暗がりから声がした。「その場所が最適なの」
声の主は、石膏像と見紛う純白の高価そうなドレスを絵の具で汚し、顔には作業中についてしまったと思われる白い絵の具が道化の白粉のようにまとわりついた、私が人生において見た中で最も奇矯な姿の婦人だった。それが、ミス・ハヴィシャムなのだった。
彼女は十五分程度、一心不乱に私とキャンバスを交互に見つめて何やら描いた。そして突然、我に返ったように目を丸くして言った。
「あなたは誰?」
彼女はきょとんとした顔をしていた。画布に向かっているときのしかめっ面とは別人のようだった。
「フィルです、マアム」
「私のアトリエで何を?」
「蜂蜜を届けに。その後で、あなたのところへ伺うように言われてきました」
「ああ、ミード。その色で思い出したわ。エステラを呼んできて」
私が部屋の外に出てエステラという名前を呼ぶと、さきほどの少女が現れたので、それが彼女の名前らしかった。色というのは、髪の毛のそれのことだろうか?ミス・ハヴィシャムは彼女が作業していた丸椅子にエステラを、部屋の中央の椅子に私を座らせた。
「動かないでね」
今度は、エステラが私を描くという状況らしかった。
ミス・ハヴィシャムはエステラの後ろから両肩に手を置いて、囁いた。
「さあ、エステラ。見るのよ。観察する側にまわることに慣れておきなさい。彼らのように欲望の視線を向けるのではなく、監視するの。あなたの眼差しはフクロウの目」
エステラはあの冷たい目で私を捉えて、画用紙に木炭でクロッキーをし始めた。
それは私の直近の行い、暗室の奥までを見透かすような目だったが、私は遊び盛りの男の子にはおよそ不可能な忍耐力でポーズを保った。
エステラの絵のモデルとなることは、私の週に一度の仕事となった。
彼女は私をあの冷徹な目で見つめてデッサンをし、ときには素早くクロッキーをし、その何枚かを油絵として完成させた。婦人が言うには描く毎に上手くなっていったが、私の目にもそれはわかる気がした。
私も描いてみたいと言うとミス・ハヴィシャムは役割の交代を認め、エステラの休憩時間に私が彼女を描いたことがあった。
決して少なくはない試行回数の末に自分の実力を思い知ることになったその気まずい作業の途中で、私は聞いてみたことがあった。
「どうすればエステラみたいに上手くなれるの?」
「わからない」
「それは、方法を教えられないということ?」
「というよりも、覚えていないの。とても小さいころから絵筆を与えられて、描いていたから。あなたは自分がいつから言葉を話せるようになったか、どのように歩けるようになったか、覚えている?」
ミス・ハヴィシャムがアトリエと呼んでいた寂れた広間は、実際は中世の荘園貴族たちによって、ダンスホールの用途で作られたものだった。絵を描く合間に、実際に私とエステラはそこで踊りさえした。もちろんミス・ハヴィシャムの命令で。汚れとツタで覆われて外が見えない大きな掃き出し窓を背景に、落ち葉が散らばるフロアで踊る二人のシルエットを、婦人はパイプを吹かしながら見ていた。
ダンスが終わるといつも、何の余韻もなくエステラは去っていく。長い髪を翻しながら。ダンスの最中は常に、不快だが重要な任務に耐える衛兵のような表情をしていたのが嘘のように。労働者階級の子供と手を触れるという拷問に耐えきった達成感でもあるかのように。
私の思春期を収めた短い本の表紙は、屋敷の窓枠に這う美しいツタに彩られた。琥珀色、枯れた灰色、緑。色相の離れた二色のグラデーションの中間はスペインゴケの掠れたグレーでなじませられる。なにかの主題であるかのように常に私の画角に映り込む黄金色は、箔押しの装飾として渦巻く葡萄のツタと調和し、付きまとった。それは二人の若者の前途に掲げられた祝杯の色だったし、私の屈辱の色でもありえた。
エステラの仕草の節々に表れる、私に対する小さな蔑みの気配は、最初に会ったその日から、私に自分の家が卑しく貧しいのではないかという疑念を植え付けた。それは私が領主館と自分の家を往復するたびに大きく育ち、明白なものとなっていった。私は自分が思っているよりマナーや物事について知らず、靴は汚れた蜜蝋だらけであることに気づいた。
家に帰っても私はもはやジョーの仕事を尊敬できなくなっていたし、巣箱は聖アンブロジウスの遺物に思えなくなっていた。
それでも私は、ミス・ハヴィシャムが私のことを長い忍耐に免じて、上流階級とまでは言わずとも、その付近に置き続けてくれるのではないかと、心のどこかで期待していた。彼女が、エステラだけではなく、それに見合う紳士をも同時に育成しているのではないかという大それた期待を完全に捨て去る理由は、幼い私には見つからなかった。
ミス・ハヴィシャムが徐々に自分のことを話すようになるにつれて、美術界から爪弾きにされた過去を持つことがわかった。それにつれてエステラの姿は、ミス・ハヴィシャムによって作られた兵士という印象を私に与えるようになった。恨み深い貴婦人が美術界に復讐するために送り込んだとっておきの剣闘士。追放者たちの過ちを証明するための審問官。その規律正しい生活はアスリーテスのそれのように思える――ヘンリー・ロイヤル・レガッタの選手もかくやというくらい、無駄ひとつなく、統制された。それは彼女の身体の内側に、魂の領地に、誰も奪うことが想定されていない動かしがたい財産(estate)として、蓄積されていった。ミードが醸造されるように。私にはそれが見えるようだった。
「あなたはもっと上手くなる。そのうち私を超え、この世のどんな画家たちよりもはるかに。あなたはその玉座から、一時代を見下ろすでしょう」
そうエステラに吹き込むミス・ハヴィシャムは途方もなく遠大な計画を描いていたが、それが可能であることを二人とも知っているようなのだった。
私はエステラと自分の差の正体が、あからさまな階級の違い以外であるとしたら何だろうかと考えた。遺産のように継承される能力について考えた。蒸気機関や商人が栄え、王や貴族のちからは衰えたが、血統や財産以外で人間に固定された何かがまだ存在するようだった。
生まれつきではないが、極めてそれに近い時期に脳に組み込まれた技能。赤ん坊が母国語を無意識に覚えるが、成長してから外国語を学ぶことは困難であるのと似た現象。それは、エステラの美しい顔貌や、声と同じ、肉体的な特徴と言ってもいいものではないか。何らかの才技のエキスパートたちは、それをアイデンティティと呼び、誇る。貴族の振る舞い、文化の形をした資本。それは自分自身の魂と分かちがたく結びついているのだ。
ならば、その紐帯を剥ぎ取る方法はないだろうか?それを守るための蜜蝋のように強固な防壁を、手斧で叩き切る(ハック)方法は?
もし生まれつき与えられたものだというなら、それは家柄や血筋と同じだ。私を苦しめ、嘲笑うその階級という軛と。
私は自分の思いつきに怖気を震った。私が彼女を傷つけるなど、考えるだに恐ろしいことだった。彼女から何かを奪うなど。彼女が間違いなく自身の時間を投資して得た正当な所有物を。
もし万が一、私にそのような落ち度があるとしたら、それはあの盗人を責めるべきだった。
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