3
3
「この絵はあの沼地の一体どこから湧いて出たの、フィル?」
ミス・ハヴィシャムは私を詰問した。私がアトリエに持ち込んだ一枚の絵を見てのことだった。
それは暗い背景に浮かぶ、青白い顔の紳士の肖像画だった。一年間の練習の卒業試験のようなものとして、彼女が私に与えた油彩用のキャンバスが、誰が見ても不釣り合いな完成度で提出されたのだ。
「知らずに描いたのかもしれないけれどね、フィル、これはレンブラントよ。作家の自画像。昨年盗まれたと聞いたけれど、これは私が与えたキャンバスだし、明らかに模造品だから、そこについてはよいでしょう」
早くも致命的な指摘がなされたとき、私の心に訪れたのは奇妙なことに、泥棒との約束を破ったことがもたらす痛みだった。
ミス・ハヴィシャムは穏やかに続けた。「フィル、わたしは怒っているわけではありませんよ。興味があるだけなの。こんな精度の贋作を、いったい誰が、どのように描いたのか」
エステラも冷ややかな目で、しかし興味深そうに見ていた。私はその目はごまかせないと思い、白状することにした。私がどのように絵画の意図的な複製を行ったかを。
私は複製品を一年もの間保管していた。蜜蜂が管理する巣箱は蜜蝋によって黴から守られているので、その木枠は腐ったりしていなかった。
泥棒がやってきたときの位置関係を思い出して、肖像画を新しいキャンバスで隠すように設置した。白いキャンバスが巣の最外層であるように蜂たちに思わせるのが重要だった。つまり、蜂達が自分の巣の迷彩が脆弱であると思わせるのだ。それに気付くまで私が試行錯誤を繰り返した後、複製が開始された。
蜂が普通に入手できる植物由来の有機物ではなく、絵の具を使うことは大きな障害に思えたが、やってみるとあっさり上手くいった。単に蜂が調達しやすい場所であろう巣箱の近くに、絵の具を出しておくだけで済んだ。様々な鉱物の染み出すインドの岩窟にいた彼らは、喜んでその新しい顔料で自らの建築物のファサードを飾り付けた。彼らが分泌する蜜蝋はテレピンオイルと合わせて実際に油絵で使われることがあるもので、メディウムとして申し分なかった。
「面白いわ」
私の説明を聞いたミス・ハヴィシャムは言った。
「この子の言うことを信じるのですか?」とエステラ。
「ええ」婦人は断言した。「私はこの絵を知っているけれど、この複製の精度は人間業ではない。だとしたら、人間が描いたものではないのよ。例えば、御覧なさい、あの燭台に巣を張る蜘蛛を。あの小さな生き物は神話の時代に、女神アテナとの機織り競争で勝ったこともあるのです。彼女の種族(her kind)の持つ技能を侮るものではありません」
「でも、これはただの贋作ですよ」エステラは非難した。
「このままではそう。でも、使いようがあるかもしれない。例えば古い宗教画の修復とか。あるいは……」
ミス・ハヴィシャムは慎重に、手にしたパイプが鋭利なナイフであるかのように閃かせ、煙に目を細めて言った。
「……レンブラントの〝新作〟はどう?」
「できるかもしれませんが、わかりません」私は正直に言った。
「その蜂を見ることは?」ミス・ハヴィシャムは目を見開いた。
「今度お見せします。馬車に巣箱を積んでいいのなら」と私。
「あなたの親方、ジョー・ガージェリーと言ったかしら?彼と一緒に来なさい。あなたは彼の徒弟になるのだったわね。年季奉公の契約書を持ってきなさい」
次の週に、私はジョーと一緒に領主館を訪れた。
ジョーは奇抜な部屋に住む上流階級の貴婦人相手に恐縮してまともに喋れず、なおかつ服装や仕草が卑屈なので、私は恥ずかしく思った。その上、長い間私がジョーに絵画蜂のことを隠していたことが、彼の困惑に輪をかけた。
ミス・ハヴィシャムは言った。
「あなたの所有する蜂が、絵画の修復に使えるかもしれないと言っているのです。ミスター・ガージェリー」
「絵画?いやはや、おれはその手のことには疎いものでして」
帽子を胸に抱えたまま緊張しきったジョーは言った。
今ジョーは、養蜂業と絵画という結びつくことがない二つの言葉による超社交界的ジョークに愛想笑いしていたが、やがて誰も冗談を言っていないことに気づいて青ざめた。
「あなた方の、いわゆる特殊な〝養蜂業〟のために、私からは最低限の支援をします。ですがその前に、あなた方にひと仕事してもらいます」
ミス・ハヴィシャムはそう言って、アトリエの奥の倉庫に私達を案内した。そこには額装されたままの大小様々の絵画が、立てかけられたまま所狭しと折り重なっていた。
「私の顔が利く美術館から借りてこられる絵画で、著作権上問題がないものは、今のところこれが全てです。ちょうど休館中のところがあって幸運でしたが」
この隠遁した婦人はまだこんな権力を持っていたのだ。
「ひとまずは、これらをすべて複製しなさい。複製権(コピー・ライト)については心配しなくてよろしい。アン法――一七〇九年の著作権法に準じ、著作者の死後十分な年数が経ち、権利が失効したものだけを置いています」
「でも、作者の遺族の許諾を得ていない」エステラが言った。
「それは重要な指摘ですよ、エステラ。我々は墓荒らしでも、贋作師でもない。ですから、これらは研究が終われば破棄します」
「研究?」私はその意外な言葉を繰り返した。
「ええ、フィル。それは、あなたの蜂に何ができうるかを調べるということです。ただ、もし指針が必要というのなら、そうですね……」ハヴィシャムは少し思案して、「当面の最終目標は、レンブラントの『夜警』の修復とでもしておきましょう。しかし、あのような大作の修復は難しいでしょうから、小さな肖像画で試験をします。顔だけの修復技術でも、教会のイコンに応用できるでしょう」
「待ってください」私は口を挟んだ。「僕はたしかに、蜂は巣の模様の小さな欠損を埋めることができると言いました。さらに彼らが、絵画の複写もできることも我々は知っています。だからぼくは、少々の汚れや傷を複製の過程で消せるかなと思ったんです。でも、『夜警』にあるような、人物丸ごとが消えた大きな部分の欠落を埋めるなんて、できそうにありませんよ」
「蜂は模様という単純なパターンを理解したのでしょう」ハヴィシャムは言った。「ではなぜ、人間の顔という複雑なパターンを理解できないと言える?さらに、もっと高次のパターンをも」
私とジョーが黙っていると、彼女は二度手を叩いた。
「さあ、動きなさい男たち。ロンドン中の美術館を空にしたままにするつもり?」
巣箱は屋敷の庭に置かれ、ジョーと私は倉庫から絵画を運搬し、一枚ずつ複製していった。重労働は一週間続き、レンブラントだけではなくイギリスの有名な肖像画家の絵画の複製が完了した。
次に私たちは、単純な複製以上のことを蜂にさせるための試験の段階に入った。最初は単なる複製しか出力できなかったが、〝ノイズ〟を発見したことで状況が変わった。このノイズ模様の正体が明らかになるのは、何年も先のことだ。この時点ではそれは単に、穴の空いたキャンバスを複製元としたときに、出力先の無傷のキャンバスにおいて蜂がその部分を埋めるランダムな模様だった。そのノイズつきの絵画をさらに複製元とすると、出力先の絵画ではその部分は周囲と溶け込むようになっていた。修復の兆しが見え始めたのだ。
しかし、その結果を見たジョーは渋い顔をして言った。
「教会の聖人のイコンに、修復と称してこんなことをしてみろ、笑いものになるだけじゃすまない。おれたちは地獄行きだ」
ジョーの評価通り、修復の精度は低く、顔のパーツとしての造形は一切再現できていなかった。眼や鼻のあるべきところはのっぺりした肌として、なんの構造もなく塗りつぶされていた。教会以外の依頼だとしても、祖先をこんな無貌の怪人にされてしまっては、肖像画の所有者に激怒されるだろう。
行き詰まったと感じた私はある日、何かを調べるために書斎に籠もったミス・ハヴィシャムを訪れた。散らばる床のガラクタにはいまや、所有しているたくさんの書物が加わっていた。ミス・ハヴィシャムは化粧台の上で書き物をしていた。それは、たくさんの小さな円形とそれをつなぐ枝からなる網目の図だった。
私の報告を聞いた彼女は言った。
「つまり蜂たちはまだ、眼や鼻というものを……人の顔というものを認識できていないのね」
さらに黙考してから、ハヴィシャムは私に続けた。
「私たちが何かを認識するとき、何が起きている?私達が人の顔を人の顔と、猫を猫と認識するとき。それには先立って、複雑な物事を抽象化して単純にしたものを記憶している必要がある。私達は人の顔や猫の細部まで記録しているわけではない。単なるスキャンのように、対象の完全な複製を私達の脳の中に持っているわけではない」
言葉を切ると、淡黄色のグラスを掲げて見つめてから彼女は続けた。
「この芳醇なミードのように、エッセンスを抽出している。この世界が持つたくさんの、抱えきれないほどの情報を、処理できる程度の単純さに削減して、圧縮する。巣箱の中で、たくさんの葡萄を犠牲にして抽出された貴腐ワインを振る舞われるのは誰?」
その比喩の指示物は、子供の私にとっても明白だった。
「女王蜂です」
「そう」ハヴィシャムは、書いていた模式図の頂点の円にペンを突き立てた。「情報の流れの終端である女王に、圧縮された情報が集約されていると考えられる。では、流れの始まりは?」
「この図のたくさんの円、つまり、個々の働き蜂?」
「いいえ。答えは彼らの複眼」ハヴィシャムは広げてあった昆虫図鑑を指して言った。「複眼は、数千の個眼が密集した入力装置。それはこの網目構造において最初に外界と接する大量の入力ノードとなる。ミツバチの個体は絵の一部を複眼によって最小単位に分解し、それを自身の内部で統合している。ノードの数は次に、蜂の個体単位にまで削減され、絞り込まれていく」
網目の図はよく見ると三層からなっており、底辺が複眼、中間が蜂の個体、頂点が女王に対応しているらしかった。それは木の根のように、下部で取り入れた何かを上部で集約する形をしていた。
「複眼自体を〝入力層〟、複眼から蜂個体の脳までを〝畳み込み層〟と呼びましょう。蜂の個体単位にまで集約された情報は、蜂の脳から伝達物質にコード化されて書き込まれる際にさらに圧縮され、よりコンパクトになる。最後に〝全結合層〟としての女王蜂があり、その指令で〝出力層〟の絵画が描かれる」
私は感銘を受けた。私が巣箱の中での蜂の動きについて報告したことはあったが、彼女はそれを昆虫解剖学的な見地も含めた洞察によって、情報の移動と加工にまで抽象化し、模式図にしてしまった。沼地の魔女は、私に秘術を授けようとしていた。
私はその日から連日、ミス・ハヴィシャムが作り上げた《神経巣(ニューラルネスト)理論》について教わるために、暖炉と化粧台の前に座った。
ハヴィシャムは蜘蛛の巣から得た網のイメージにこだわった。美術解剖学の本を読み漁って得た、脳が神経繊維の稠密な網であるという今世紀最新の知見は、蜂の巣のハニカム構造の上に、物理空間には存在しないが、蜂の脳とそれらを繋いだ位相空間上に存在する網状構造を幻視させた。
ゴルジが言うように神経細胞同士が癒着して網を作っているわけではなく、カハールが言うように神経細胞それぞれは独立したニューロンと呼ばれる単位を持つことが明らかになるのは世紀の変わり目のことだが、それが網状構造であることは間違っていなかった。
要するに、神経巣説が言っているのは、魂の最小単位の布置のされ方だった。ハヴィシャムはまず魂を分割不能なものではなく原子論のように粒子状に分割できると考えた。それでいて、それは物質ではないので脳そのものとは異なるが、ふるまいは脳神経の位相的形状に束縛されると考えた。それはシュヴルールの色彩理論を熟知したドラクロワの筆触分割という絵画の手法に着想を得たものだった。あらゆるものを最小単位まで分割する要素還元主義的手法は物理学から美術を経て養蜂業においても徹底されたのだった。
後にロンドンのとある数学者との出会いを経た私が思うに、ハヴィシャムが媒体としての計算機の存在を丸ごと迂回して、蜂のコロニーというシステムをニューラルネットワークとして扱うに至ったのは奇跡としか言いようがない。
奇跡でないならあるいは、類まれな比喩と、抑制された擬人化のスキル。宇宙が数学を文法とする物理学の言語で書かれた本であることを人類が発見して久しい。それらの学問があまりにも強力なツールだからだ。では、なぜアナロジーは時にそれと同じくらい強力に見えるのだろう?時に、というのはそれが誤謬を生む場合があるからだ。もし何かと何かの形状が似ているというだけで、それらの機能まで同じだと考えてしまっては、単なる類感呪術に堕してしまう。そのツールを使い続ける際に重要なのは、単なる表面の類似だけではなく根源的なパターンの類似を抽象することだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます