4,5
4
私とジョーは、ハヴィシャムの神経巣(ニューラルネスト)理論に従い、これまでは単一だった巣板を、巣箱の空きスロット全てに増設して実験を再開した。これで女王の座の模式図における中間層を深くしたことになる。
理論によれば、層が深いほどより高次のパターン認識が出来るはずだったが、現状では巣板は十枚が限界だった。
巣箱の改造を黙々とこなすジョーは、持ち前の職人気質によって、不思議とこの状況に適応しているように見えた。その様子は木で出来たエンジンの中の、熱素ではなく蜂の動きの法則を熟知する機関士(エンジニア)のようだった。私は自分の中で、ジョーと、養蜂家という職業に対する尊敬の念が少し蘇るのを感じた。
「もしもの話なんだが」作業の途中で、ジョーが疑わしげに言った。「この訓練データの量が決定的に足りなかったら?仮に、ミス・ハヴィシャムの理論が正しく、おれたちの向かう方向が合っていたとしよう。でも実は、この蜂が絵画を理解するようになるには、例えば数百万枚の数の絵画を読み取らせることが必要なのだとしたら?数十億枚だったら?事実上、この世界では実現不可能だ」
たしかにそうだと私は思った。要求される絵画の数が、そもそもこの世に存在しなかったら。あと百年か千年、世界に絵画が増えるのを待たなければならないのだとしたら。
「それは十分ありえます、ミスター・ガージェリー」
ミス・ハヴィシャムもジョーの懸念を、慧眼だと言うように肯定した。
「もしそうだとするなら、我々は蜂自身にそなわる統覚をあてにするしかないでしょう。それが、学習素材の量的不足を補うことを。彼らが世界の部分的な理解をその本能のうちに、すでに備えていることを期待しましょう」
その仮説は私を心配にさせた。昆虫の本能が絵画生成に貢献するというなら、悪影響もあるのでは?たとえば、天敵のスズメバチを認識する機能だけが優れていて、そこら中にその恐怖を幻視してしまうとか。
その頃エステラはといえば、こういった作業の騒音を嫌ってアトリエの隅で絵画の練習をしていたが、時折作業場を見に来た。まるで敵情を視察するかのように。
実験は難航した。訓練と修復を繰り返しても、曖昧さは解消されない。その都度別のぼんやりした形が現れるだけで、眼や鼻とは言い難い。
「やはり層が浅すぎるのだろう」ジョーが言った。「さらに深い層の巣板が必要だ」
「でも、巣箱はこれ以上拡張できないよ」と私。
「その必要はない。逆行させるんだよ。通常は入力層から女王に向かって、フェロモンを使って蜂は情報を伝える。だがこうしたらどうだ?女王に集約された情報を、もう一度入力層に戻すんだ。そうすれば疑似的に層を長く、深くできる。何度も経路を再利用することでな」
ジョーはそれを誤差逆伝播法と名付けた。私達はそのアイデアに従い巣箱を少し改造した。蜂が逆行する通路を作るのは、一八五一年にアメリカのラングストロスによって発明された、巣板と巣箱の間に隙間がある新型の巣箱だからできることだった。私達は四基の巣箱を深層営巣が可能な形にすることができた。
改造が終わると、蜂たちは作業を始めた。
翌週、私達は結果を確認しに中庭に集まった。
「さあ皆さん、御開帳です。聖アンブロジウスの御加護があらんことを」
ジョーは冗談めかして養蜂家の守護聖人に成功を祈ってから、四基の巣箱を開けて成果物を取り出していった。しかし、すべての絵画をイーゼルに架け終わるころには彼の表情は凍りついていた。
「これはなんとしたこと!」ミス・ハヴィシャムは、ドレスの裾を地面に引き摺りながら、驚愕の表情で歩み寄った。
そこには悪夢的事態が顕現していた。それらの肖像画は、レンブラント自身の自画像であるはずだった。しかし、その顔の至る所に無数の目玉が浮き出て、それら犇めく腫瘍は渦巻く文様となって皮膚全てを覆いつくし、顔貌を変形させていた。その眩暈を引き起こす渦巻きは顔だけではなく、背景や服にもおよび、そこかしこで目や顔を繁殖させていた。肖像の耳はそれ自体が目と鼻と唇をもった小型の顔に寄生されており、鼻も同様に自前の目によってこちらを見ていた。四枚すべてがその病にかかっていた。
「気持ち悪い」
エステラは嫌悪感を顕わにした。
「これは……なぜこんなことに?」ジョーはうろたえた。
「呪いよ」それは、ミス・ハヴィシャムの焦燥しきった声だった。「レンブラントの呪いよ!」
「そんな、落ち着いてください」私は言った。「呪いだなんて、あなたらしくないですよ」
ジョーも慌てたように、「そうです、ただの失敗です。ちょっとばかり肝を冷やしましたが、すぐに改良できますよ」
「パレイドリア現象みたいね」エステラが言った。
彼女は、情けない姿で自分の背中に隠れた育ての親には何の同情も見せずに続けた。「壁のしみが幽霊の顔に見えるようなものでしょう。蜂は絵画を一日中見せられて、全てがレンブラントに見えるようになってしまったのではないかしら」
「その仮説が正しいと思う」ジョーはエステラに同意した。「パターン認識の高次の抽象度ではなく、低次のそれだけを強くしすぎてしまったのだろう。部分的なパターンだけを。しかも、閉じたループにすることで延々と強化を反復してしまった」
ミス・ハヴィシャムは頭を振った。
「いいえ。この偉大な画家は、死後の冒涜を許さなかった。それだけよ」
「ただの蜂の気まぐれですよ、マアム。この箱は冥界への門などではない。神経巣理論はどこへいったんですか、ミス・ハヴィシャム?」
私は責めるように問いかけた。
「中止よ」
「え?」
「この実験は中止。研究は凍結。すべての巣箱を持ち帰っていただけるかしら、ミスター・ガージェリー」彼女はにべもなく宣言した。
「そんな、待ってください」
憤慨するわたしの肩に手を置いたジョーは諦めたように首を横に振っていた。
青ざめて、もはや倒れこみそうな館主に代わって最後通告をするエステラは私には普段よりいっそう高慢に見えた。
「この館は廃れて幽霊屋敷のように不気味かもしれないわ。でも、こんな邪教の崇拝物を置いておくほど落ちぶれてはいない」
翌週、巣箱が消えた領主館に私はいた。何もする気がおきず、庭の醸造所の跡の酒樽の上に座ってスペインゴケを眺めていると、エステラがやってきて、私の隣の樽に座った。結局のところミードが作られなかった醸造所にあるそれらに腰掛けた、まだ大人になりきっていない私達の足は地面から離れて揺れていた。
「ミス・ハヴィシャムの、あの反応には納得できないよ」私は不満を漏らした。「あんなにも論理的な思考ができる方なのに、急に呪いだなんて。迷信を信じる方だとは思わなかった」
「おそらく、彼女の画家に対する敬意がそうさせたのだと思う」エステラはミス・ハヴィシャムを弁護した。「画家たちの間のタブーやオマージュの作法は、外の人にはわかりづらいところがある。彼女は自分が禁忌を犯したことに気づいた」
「オマージュなら画家もやっているでしょ」私は反論した。
「危険度の違いがわかる?あんなに敬意を欠いた、しかも手間のかかるものを一晩で量産することは人間にはできない。する動機もない」
それでも、人間も行いうることなのだ。それは程度問題であって、本質的な問題ではないように思えた。一方で、エステラも初めての事態を批判するにあたって、正確な言葉を用意できていないように見えた。
「でも、ぼくたちがやったことは違法ではない」私は言った。
「ええ。だからこそ、少なくとも画家同士でそれを守る必要があるの。敬意やマナーによって」
単なる画家たちのローカルルールや、彼らの尊厳などという些細なことを理由に、この重要な研究を打ち切っていいものだろうか?子供の私でも、これは世の中を変えうる重大な技術のように思えた。
「ねえ、フィル」エステラは珍しく私を正面から見て言った。
それは彼女が初めて私を、注意を払うべき対象として認めたということだった。それが好意であったとしても、あるいは警戒であったとしても。巣箱付きの私は、もはや彼女にとって無視できない存在なのだった。
「あなたがやっていることは、とても面白いと思う。私のやってることとは違うけれど、誰も見たことのない、新しいアートと呼んでもいいものになり得ると思う」
「ありがとう」私ははにかんだ。
「だから、お願い。〝邪悪にならないで(Don't be evil)〟そうしていてくれたら、私たちはずっと友達よ。たとえ十の百乗(1 googol)ヤード離れていても」
邪悪?そのスローガンや、奇妙な単位の意味することはわからなかったが、おそらくあの巣箱が大きな力をもたらすことを言っているのだろう。それに伴う責任について。
「君は僕を見下しているのかと思っていた」
「ええ、それはそう。私には自分の目標以外の人や物に価値を見出す心がないの。でも、あなたにはそれがあることを知っている。優しさがあることを」
それが私が、パリに留学に行く前のエステラと交わした最後の会話だった。彼女が私に一言も告げず旅立ったことを、翌週ミス・ハヴィシャムから聞かされた。
5
四年が過ぎた。インドミツバチに関する支援が打ち切られ、エステラがいなくなった今や、私が領主館を訪れる意味はなかった。私は驚異の館に行くのをやめ、夢を見るのをやめた。それが画家の呪いによる悪夢であれ、野心を叶えるための発明家の夢であれ、すべての夢を。
所詮、それは一時の熱狂に過ぎなかったのだ。高嶺の花の少女に対する私の熱病も。
その日、私は巣房の塊を手回し式の遠心分離機にかけて、食用の蜂蜜を抽出していた。この機械も、最新の発明品だ。原理はシンプルだが、近代に至るまで誰も考えつかなかった。パーツにブラックボックスが無く原理が明快なのはよいことだ。
私はジョーの徒弟となって、養蜂家として働く日々を送っていた。ハヴィシャムの支援なしで研究は続けられなかった。改良した巣箱は維持できず、インドミツバチの個体数は縮小した。私の興味も薄れていった。
レバーを回す手を止めて一息つこうと汗をぬぐうと、まだ慣性で唸る機械の前にきれいに磨かれた革靴が現れていた。顔を上げると、そこにはスーツケースを提げ、上等なスーツを着た、恰幅のよい紳士が立っていた。
「君がフィルだな。私はジャガーズという者だ。ロンドンのリトル・ブリテン通りに事務所を持つ弁護士だ」
「あの……。今握手はできませんが、サー」
私はグリスまみれの手を汚れた作業着で拭いながら立ち上がった。
「いいんだ、ラクにして聞いてくれ。とても良いニュースだ。君には〝大いなる遺産〟が転がりこむことになった」
私はもっとも養蜂場に不似合いな男と並んで家までの道を歩いた。
小さな我が家の応接間と呼べる領域のテーブルに三人は座った。病弱な姉はこの世を去っており、最愛の妻を失ったジョーの元を、みなしごである私が離れることは考えられなかった。
テーブルの上で、ジャガーズ氏はスーツケースを開けた。そこには私とジョー以外にはジュエルケースに入った琥珀にしか見えないものが複数並んでいた。それは、絵画の訓練データを飽きるほど与えられた女王が吐き戻す特殊なローヤルゼリーで、フェロモンが何らかの構造としてコード化されたうえで結晶化したものだった。私達はこれを女王蜂の〝遺産〟と呼んでいた。
「一体、どれほどの絵画データを食わせたんだ?」
ひと目見て、その数の膨大さを察したジョーが聞いた。
「〝沈黙は金〟だ、ミスター・ガージェリー。私が説明しないのは、依頼主が説明を望んでいない事柄だからだ」
ジャガーズが言うには、遺産の出所や、送り主が誰かについては一切の質問や詮索を禁じるとのことだった。その奇妙な条件において、その奇特な贈与者は、私達の〝研究〟に必要な資金も支援してくれるとのこと。
この雲をつかむような話に、ジョーは私よりも乗り気でないようだった。
「フィル、これは美味い話に見えるが、あやしいぜ」
「なぜ?ミス・ハヴィシャムを信頼できないの?」
私はすでにその贈与者がミス・ハヴィシャムであることを確信していた。彼女の気が変わって、再び私達を必要としているのだ。
「彼女というより、訓練データのほうのことだ。何か後ろめたいことがあるから、出所を明かせないんじゃないのか?」ジョーは訝しんだ。
「でも、ぼくらの研究はゴールの近くまで行ってたんだよ、ジョー」
私はこの四年間考えてきたことを熱意たっぷりに訴えた。
「レンブラントの呪いを覚えてる?あれは失敗なんかじゃなかった。もちろん、死者の抗議でもない。あれは成功の兆しだった。蜂はレンブラントの顔というパターンを確かに発見していたんだから」
この熱意は、燃えさしの灰から突然沸き立った炎ではなかった。私は火種を四年間維持していたのだった。私は縮小された設備で出来るかぎりのインドミツバチの研究を自分なりにしていた。機会を与えられたなら、今度はレンブラントの呪いを引き起こさない自信があった。
しかし、ジョーは首を横に振った。
「本当のところはな、フィル、おれはあの仕事は好きじゃなかった。蜂は死ぬし、蜜も色がついて売り物にならない。付近の花粉も採りつくしちまう。これはまっとうな養蜂業じゃない」
「じゃあまっとうな養蜂なんかやめればいい、ジョー。これは世界の誰もやっていない新しいことなんだ。ぼくらは世界を変えるんだ」
「フィル、この世には分相応というものがあるんだ。俺は養蜂家の家に生まれて、美味しい蜂蜜をみんなに届けることを幸せと思って生きてきた。おれにはそれ以上の形で世界に貢献する方法なんて思い浮かばない」
ジョーの意志は固いようだった。そして悪いことに、私はジョーが誰よりも善良であることを知っていた。
しばしの沈黙のあと、ジャガーズが言った。
「これだけは言っておくが、あくまでもこの遺産の受取人の名義はフィル、君のものだ。もしきみが望むなら、君の義兄の意向とは関係なく遺産を受け取る権利がある」
私が選ぶ答えはすでに決まっていた。あの館を訪れてから、あの熱病にあてられてから、私は変わってしまった。
「受け取ります」私は宣言した。
ジョーは言葉を詰まらせた。
「抗議するかね?ジョゼフ・ガージェリー」弁護士は言った。
「いいえ。おれはこの子が、この子自身のためになると信じている決断をしたことに、何も抗議しません」
「よろしい。ではフィル君、きみはこれからロンドンへ向かい、いわゆる新しい絵画のための養蜂の研究をすることになる。そう君の支援者が望んだからだ。なお君の支援者は、君が紳士になることも望んでいる。紳士らしく生活することを」
〝新しい絵画〟?古い絵画の修復ではなく?ミス・ハヴィシャムは私に、研究の次の段階に踏み込むことを求めているようだった。〝紳士になる〟ということについては、エステラに相応しい階級の仲間入りができる、願ってもない条件だった。
そのようにして私は一人で遺産を受け取り、ロンドンへ向かうことになった。野心が急き立てるままに、善良で素朴な田舎での生活を捨てたことに、この時はまだ何の後悔も無かったのだった。
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