第二部 ロンドン編

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 四頭立ての駅馬車に見知らぬ人々と乗り合って、私は故郷からロンドンはチープサイドのウッドストリートにあるクロスキーズ亭に到着した。

 乗り継いだ辻馬車をロンドン中心部のリトルブリテンにて降りた私は、あくせくと歩く人々を避けるのに苦労しながらジャガーズ氏の事務所へ向かった。

 ジャガーズ氏は、謎の後援者からの支援金を私が浪費しないように預かっておき、月ごとに支給するとだけ告げた。私はどこか巣箱を設置するのに良い場所が無いか聞いたが、自分で探すことを勧められた。この石と煤煙と喧騒だけの土地に、蜂たちにとって良い場所があるだろうか?

 私はそれを探す間に一時的に、事務所の西にあるホルボーン地区のバーナーズ・インという宿屋に泊まった。そこではハーバートという名の、私と同年代の若者が部屋まで案内してくれた。出会った当初から気が合う彼は趣味で絵画を嗜むこともあり、その後の研究につきあってくれる友人となった。

 探索の末、私はストランド街のエセックス・ストリートの南にある建物に居を構え、その屋上に巣箱を設置することに決めた。部屋からはテムズ川のゆったりとした流れを望むことができる。蜜蜂は都会でも半径3km以内の緑地から問題なく蜜を集めることができ、これは都市養蜂と呼ばれる。


 私はまず、〝大いなる遺産〟がどんなものか知ることから始めた。〝遺産〟から自由に絵画を呼び出せるようになるには、まず蜂の〝言葉〟について整理しておかねばならない。

 人間は蜂のフェロモンや遺産を読むことが出来ない。だから、それを8の字ダンスに翻訳してもらう。私は四年間の空白期間中、一人でこれを解読し、フェロモンとの対応関係を調べていた。ワーズワースの詩の中では、金雀枝の葉蔭で囁きあうと描写された蜂たちが、実際にどのようなコミュニケーションを取るか定かではなかった時代に。

 ダンスは主に巣から蜜源に対する方向と距離を表すもので、長さの情報を含む矢印のように表される。現実では三次元空間の場所を示すものだが、これを絵具の種類や混合比、それらをキャンバス上のどの座標に塗布するか、という情報に置き換えたものが、絵画生成においても使われているらしい。これらの膨大な情報を座標空間に布置すると、蜜蜂は千の存在しない方向を進んだ後のどこかに存在する蜜源を探索することができることになる。


「それはベクトルと呼んではどうです?」

 ウェミックが言った。彼はジャガーズの事務所で働く会計士の男性で、これが私と交わした最初の私語だった。私が今月分の資金を受け取りに事務所を訪れ、ジャガーズに進捗について説明して帰るときのことだった。

「呼び名があるのは良いですが、なぜです?私は〝蜜源への道標〟と呼んでいますが」

「それは面白く詩的ですが、定量的でありません。とはいえ、ベクトルというのは、一八四三年に四元数を表すためにハミルトンによって使われた言葉で、まだ一般に普及していないので無理もありませんが」

 ウェミックの語彙を借りて言うなら、蜂は絵画やテキストに関する印象を、同じ空間上のベクトル、つまり量と方向の情報を持つ矢印のようなもの、として記憶していると言う。では、これらの二種類のベクトル群を関連付ける方法はないだろうか。私はそのための巣箱をフェロモンエンコーダーと名付けた。この巣箱は絵画を生成することはなく、絵画とテキストの紐づけのみを行う。

 このとき、ベクトル同士を合成するための巣箱によって二つ以上の絵画の合成が可能になった。これは大きな進展だった。

 蜂の個体数が増えたのでニューラルネストを深くした巨大な巣箱を稼働させた。巣板を九十枚まで増設した。屋上に入り切るようにするために、連結部に角度をつけて曲がりくねらせている。また、大型のキャンバスに対応するために入力層と出力層の高さも相当なものになっている。

 合成して出来た風景画はぼんやりしていたが、ハーバートはターナーの《雨、蒸気、スピード》に似ていると言う。これはのちのクロード・モネが印象と名付けた風景画に影響を与えたものだった。ハーバートはそれに加筆して、マチエールを足してそれらしくし、公募展に出品したが、評価は芳しくなかった。もちろん自作としてではなく、AI.というイニシャルの謎の新人画家として。

 一方、データセットから作家名を名指しで呼び出した単純な複製は、安価な複製品として売れた。この状態は数か月続いたが、私達はまだ楽観的でいた。何らかのブレークスルーが訪れて、事態が変わるだろう。


 研究の合間に、私はロンドンという街にふさわしい紳士としての振舞いを、ハーバートから学ぶ必要があった。私は田舎の訛りやクセを一つずつ消していった。謂わば私は偽物の紳士ということになるのだが、私は贋作が通用することを知っていた。

 紳士のふるまいの学習の一環として、私はハーバートの紹介で、フィンチズ・オブ・ザ・グローヴと呼ばれる会員制のクラブに顔を出すようになった。そこで若い紳士が集まってやることといえば、夜な夜なコヴェント・ガーデンのホテルに集まって飲み食いし、彼らが高尚と信じる事柄について夜通し、喧々諤々と議論することだけだった。

 私はそこでA.I.氏の奇抜な作品を披露して笑いを取った。機関車の下半身を持つ淑女や、パスタと手が融合したものを貪る紳士などを見て若者たちは笑い転げた。

 ウォルター・ベントリーという若者が、私の絵画のひとつが既存の絵画の盗作ではないかと指摘し、私達は言い争いになった。私はレンブラントの呪いを復活させることにした。翌日、私は相手の顔の各部に吐き気を催す渦巻き模様と、そこから浮き上がる目玉や犬の顔を出現させた肖像画をホテルの壁中に掛けた。一人の人間が単なる嫌がらせに到底傾注しえない労力で描かれたと思しき絵画に相手は震え上がって、二度と話しかけてこなくなった。私はアートの持つ力に感動した。


 私はそのような放蕩の中で、ジャガーズ氏が設定する月ごとの支援金以上の出費をしてしまい、借金すらするようになった。

 支援金の振込を前倒ししてくれないかとジャガーズ氏に交渉に行くところで、ウェミックに出会い、並んで歩くことになった。彼は挨拶の後で言った。

「ときに、あなたの〝優良動産 (hot property)〟の調子はどうですか?」

 ウェミックが養蜂設備のことを言っていることはすぐにわかった。ミツバチの発生させる熱は相当なもので、そのおかげで越冬することができる。トウヨウミツバチの中には、侵入したスズメバチを蜂球で取り囲み、その熱で殺してしまう技を使うものもいる。わがインドミツバチがその東洋の秘技を使うかどうかは定かではない。

 私は答えた。「残念ながら、優良とは言いがたいです。それに、増設しすぎて移動できず、もはや不動産(real property)に近くなってきています。いっそ、滑稽な見世物として馬車に積んで実演することも考えているのですが、こうも巨大では」

「私が思うに、あなたはその熱い動産――もとい、不動産を活用できていない。よろしければ一度、ウォルワースにある私の城へと足をお運びください。私の冷たい動産をお見せしますよ」


 ウェミックの自宅は彼が趣味で建築した小さな一戸建てで、各所に実際の城のような意匠がこらしてあった。玄関に入るには地面に掘られた小さな溝の上に架けられた跳ね橋を渡らなければならないなどと徹底されており、遊び心が伺える。

 部屋に通された私は、奥の壁のくぼみに奇妙な機械が埋め込まれているのを見た。まるで壁龕に鉄の巨人が横たえられているようだった。

「これは階差機関というものです。見様見真似で作ったレプリカですが」

「というと、計算をするための機械ですか?」

「いかにも」

「AIと計算機に何の関係が?」私は真顔で訊いた。

「関係しかありませんが……いえ、その疑問はごもっともです。脳を自然が作り出した複雑な計算機と定義するなら、蜂の脳を計算機と比べることは先祖返りに相当するのですから」

「先祖返り?それはまるで、昆虫の祖先が鼠と言っているようなものです。ダーウィンの描く枝はそのようには分かれていない。そうでしたよね?インドミツバチはアートを理解する知的生物であって、機械ではありません。その系統樹の根本にネイピア棒は無い」

「私はその擬人化を正すためにあなたを呼んだのです」

 ウェミックは現実のあらゆるデータを座標やベクトルといった数値に変換して理解する蜂の脳の挙動は、将来的には万能計算機で再現可能だと断言した。現状の計算速度は蜂に遠く及ばないというだけだということらしい。

 彼はウォルワースの城では、法律事務所では封印していた数学者としての意見を披露した。元はケンブリッジ大学でチャールズ・バベッジに師事していたという彼が、なぜ一線を退いて今の職についたのかはわからない。彼は、ジャガーズに恩があるのだとだけ言った。


 それ以来、私はハーバートと連れ立って〝城〟を訪れ、ウェミックから講義と助言を受けた。城ではウェミックの婚約者であるイライザという女性がお茶とハニートーストを出してくれた。

 一人で蜂のダンスを見つめた四年間に比べて、秘密の要塞での議論は知的興奮の雰囲気を味わえるものだった。結論から言えば、この城での研究が、AIの絵画生成に重要なブレークスルーをもたらした。

 私達は最新の科学理論をモチーフに、蜂の隠された機能を解放していった。暗号理論からVAE、自然淘汰からGAN、非平衡熱力学から拡散モデルと呼ばれる巣箱の構成を発見した。 特にGAN(敵対的生成巣)は、最新の理論である進化論から私が発想したものだった。蜂のコロニーを二つに分け、それぞれに生成と識別、つまり反対の仕事を割り振ったのだ。いわば、巣の迷彩を見分けようとする捕食者の眼に相当するものを蜂の分隊にやらせるもので、その淘汰圧によって生成の精度は格段に上がった。


 拡散モデルの実装は、ある日のウェミックの類まれな洞察によって可能になった。

 私はその日、ウェミックを研究所の屋上に呼んできて巣箱を見せた。巣板(グラフィックボード)の増設を繰り返した巣箱は、そのころには屋上を埋めつくすほどに肥大化していた。

 私はロンドンの街を見渡して言った。

「ここは眺めも悪くないでしょう。南にはテムズ川、北にはロンドン中の煙突から出た煤煙が空に溶け込んでいくのが見えます」

 しばらく目を細めて黙考したウェミックは言った。

「あの煙をもう一度石炭の大きさにまで集めて捨てることができれば、肺を病む人も減る。そう思いませんか?フィル」

「そんな方法があるのですか?」防護服をつけながら私は訊いた。

「無いのです。宇宙のどこにも。ニュートン力学は時間反転に対して対称性があるはずなのに、煤の分子は宇宙が終わるまで試行を繰り返しても一点に収束することはない。そして煤煙はこの都市を覆う停滞した空気だまりに囚われて、その中においてはやがて均一になります。それがロンドンの煙霧というものです」

 私は巣箱を開けて、以前ジョーと発見したランダムなノイズ模様の巣板を取り出した。

「やはりガウシアンノイズか」ウェミックは言った。

 ウェミックは非平衡熱力学と養蜂を結びつける洞察について以下のことを話した。

 街に少しずつ煙霧を加えていくと、最終的には煙霧以外何も見えなくなってしまう。このプロセスを逆にすると、霧を晴らし、完全なロンドンの景色を得ることができる。

 煙霧がかかることは、正規分布と等しい確率密度関数を持つガウシアンノイズを少しずつ段階に分けてかけていくことだと定義する。これを拡散過程と呼ぶ。これを逆回しした場合、ある瞬間の煙霧の前の瞬間の煙霧の状態は正規分布で近似させることができる。これを逆拡散過程と呼ぶ。煤煙を石炭に戻す魔法の鍵とは、数学者ガウスの名を冠した確率分布なのだという。このノイズ除去のプロセスを神経巣上でモデル化、つまり関数として扱い、そのパラメータを最適化するような学習をさせることで、完全なノイズから絵画を生成させることができる。

 

 私達は拡散モデルを実装した。拡散モデルによる絵画生成は当初、ノイズ追加と除去の過程が多段階であるために非常に時間がかかったが、中間層の巣枠のサイズをVAEによって圧縮することで、短縮できるようになった。これは画家がいきなりキャンバス全体にではなく、小さな紙にエスキースを描くことに相当するだろう。

 VAEとGANと拡散モデルが統合され、巣箱群の配置は完成した。最大で千枚の巣板を格納した、様々な種類の複数の巣箱が連絡通路によって入り組み、絡み合い、巨大な人造生物のはらわたの様相を呈した。

 我々はこれを、Spiracle Diffusion (Ver.1.0)と名付けた。一八六一年のことだった。Spiracleは文字通りの意味では、蜂の腹にあいた気門のこと。名付けた当時は、巣箱自体の排熱効率を高めるために開けた通気孔やヒートシンクを意味しているだけだったが、語源であるラテン語の spiritus(呼吸、神の息吹、霊感、生命そのもの)が持つイメージを喚起させるものとなった。

 そしてこの巣箱は我々に成功をもたらした。


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