第3話

 カウンターの左端で三人連れが七穂なほと楽しげに談笑している。やや高調子になったおしゃべりにいくぶん遠慮のなくなった笑い声が絡み、七穂の低い声がその隙間を縫っていく。熱を帯びたおできのようにいつも張りつめていた中津留なかつる委員長が、緩やかにウェーブをかけた茶髪をラインストーンのきらめくバレッタでまとめ、薄明りに映える濃いめの化粧をして、あでやかな笑みを浮かべつつ、男のおしゃべりに相槌をうつようになるなんて。八年間で人はこんなに変わるのか。美羽みうは突然取り残された気分になった。


 時の流れは力強い。今だって、目をつぶれば、恐ろしい速度で流れ去るのが見える。ごう、ごうと巨大なうすのような乾いた音をたてながら、あらゆるものを運び去っている。そのとどろきに耳を澄ましていると、いつしか頭に詰まっていたものは粉々にすりつぶされ、風に乗ってさらさらと消えていく。重たげなうなりに身をゆだねていると、心の中も空っぽになり、ひとつ、ふたつの小花がひょろひょろと揺れるだけのがらんとした空き地になる。ひとりでその空き地に立って、ごう、ごうとうなる音を聞く。空き地に立つ美羽の胸にはぽっかりと穴が開き、そこからかなたの地平線がのぞいている。もしもこの音が突然止まったら? 


 ぽっかりと開いた穴から錫鳴すずなきの音がした。



「なあ、美羽、おまえ、俺のことは好きじゃねえん?」


 ジンをあおり、わずかに赤みのさした顔を寄せて問う村居に、美羽は思わず身を引き、まじまじとその顔を見る。


「好きだよ?」


 それは美羽の嘘偽りのない本心だ。村居を前に、自分の気持ちをごまかしたり否定したりしたことなど、一度もない。なのに、なぜそんなことをいまさら確認するのか。ため息をつく。村居は納得していない。


「好きなんやったらさあ、結婚したっていいやん? なんが嫌なん? うち、親も親戚も、そげんうるさくねえよ? 仕事だって、好きなだけやっていいし、俺、家事なんでもできるよ。料理だって、結構うまくなったで。――そりゃ、結婚せんといけんわけじゃねえけどさ、でも、結婚せんで一緒に住むんって、この町じゃ実際不可能やもん。俺、みんなにきちんと認められた状態で、誰にも恥じることなく、美羽と一緒に暮らしてえ。毎日一緒におれたらさ、もうそれだけでぜんぜん違うと思うんよ、安心感が」


 ――安心感? 美羽のなかでもやもやしていたものが凝集し、ぽとりと落ちた。


「安心、したくない」

「は?」

「安心したら、終わってしまうと思うん」


 村居はきょとんとする。ああ、その顔、可愛いなあと美羽は見惚れる。ぎゅっと抱きしめたくなる。でも、そんな村居の無邪気さに慰められるのと同時に、越えがたい隔たりを感じて苦しくなる。


「なして? 好きやったら、ずっと一緒におりたいっち思うん、自然なんやねえ?」

「私は駄目なん。ずっと一緒におるんは怖い。一緒におられるっちゅうことがもたらす安心感は花火みたいなもんで、そのあと――いや、ほんとうは安心している時からずっと、その裏には孤独ががっちり食いついちょる。安心感の表面の亀裂がぱくりと開くたびに、いっつもそれがこっちをのぞいちょる。なまじ、結婚という幸せの枠組みに入れられてしまったら、埋まることのないひび割れに二十四時間向き合わんといけん。それが辛い。私はあんたが思うより、ずっと寂しがりやけん、多分耐えられん」


 村居が困惑した表情になる。


「よくわからん。わからんけど、でも、俺、美羽を寂しがらせるようなことは、せんよ? おまえがずっと一緒にいたいっち言うんなら、仕事んとき以外は、ほんとにずっと一緒におるよ?」


 そうじゃないん。美羽は視線を落とした。わずかに氷の残ったジンのグラスが汗をかいている。おしぼりで結露を丁寧にぬぐい、グラスを軽く回す。透明な氷水を一口含んだ。薄い酒は水よりまずい。ぐいと飲み干した。


「ごめんな、きっと、私がおかしいんや。わからんかったら気にせんでいいけん。もう今日はこの話は止めよ、な? なあ、まだ飲むやろ? 私、次はラムのロックにしようかな」



 美羽が顔をあげると、三人連れとしゃべっていた七穂がすっとこちらにやってくる。にっこり笑って、こころもち首をかしげる。

「何にする?」


 そのとき、三人連れの奥、トイレにつながる狭い通路の壁に、見慣れぬ小さなポスターが貼られているのに気づいた。目を細めるが、うす暗くて見えにくい。


「なあ、七穂、あのポスター、なん? 前からあったっけ?」

 そう尋ねたとたん、七穂の完璧な笑みが気恥ずかしそうにゆがんだ。

「英会話教室の生徒募集のポスター」


 美羽は驚いた。なんでそんなものが飲み屋に貼られているのか?

「最近さ、このあたりも外国人労働者が増えたん。年配の方で、少しでいいけん英語ができるようになりたいっち人、結構おるらしいんよ。マスターも、昼間のカフェの時間帯に、ここで英会話教室をやってみたらっち言ってくれたけん」


 そう言いながら、口元をわずかにけいれんさせて笑った。


 七穂の立ち居振る舞いは全てが洗練されて、心地よい。でも、その完璧さの陰から、今でも、しかめっ面の中津留委員長が神経質にこちらをにらんでいる。美羽はちょっと嬉しくなった。


「もう、始めちょるん? 生徒、いっぱい来た?」

「今のところ一講座あたり五人くらいかな、三講座で、合計十四人登録してくれとる」

「すごいじゃん。続くといいな」


 彼女は照れくさそうに口元をゆがめて笑い、そして七穂の微笑みに戻った。


「何にする?」

「ラムってなんがある?」

「ええと、マイヤーズのダークとバカルディスペリオールと、あと、国産ラムやな。高知で作っとるやつ」

「へえ、国産ラムも置いとるん。おもしろいやん。でも、今日はオーソドックスにマイヤーズにしちょく。ロック、ダブルでよろしく!」

「はいよ。村居っちも、飲む?」


 ぼんやりしていた村居は、その言葉に顔を上げる。


「あ、そうな、じゃ、おれもそれ。ロックのシングルでお願い」


 七穂は手際よくラムのロックをふたつ作ると、これサービスな、とスモークナッツの小皿を添えた。流しを片付け、さりげなく、賑やかな三人連れの会話に戻る。


 美羽と村居はもう一度ラムで乾杯する。とろりと甘い褐色の酒が、かさかさとめくれ上がりそうになっていた心の壁を潤わせる。



 入口のベルが再びカランと鳴った。控えめに開けられたドアから、わずかに赤らんだ顔の若者が中をうかがっている。その後ろに、男ひとりと女ふたり。みんな興味津々でのぞき込もうとしている。どうやらここは二軒目のようだ。いらっしゃい、お席ありますよ、と七穂が低い声でいざなう。その声を聞きながら、美羽はマイヤーズの茶色いガラスボトルのなだらかな肩を視線でなでた。



 店のドアを出ると、とっぷりと日の暮れた新町は、通りの両側を何十ものカラフルな袖看板そでかんばんと電飾看板の明かりでめかし上げていた。近寄ってみると、どの看板も、雨に打たれ陽にさらされ、いくぶん白けているのがむしろ趣き深い。ああ、やっぱり新町は夜がいい、美羽は満足げに伸びをして歩き始める。穏やかな薫風が通りを吹き抜け、思わず笑みがこぼれそうになったとき、美羽の左手に指がからみつく。暖かくて、ちょっと湿った手。その手に目を走らせ、顔を上げていくと、村居の赤らんだ顔があった。


「――たったあれっぽっち飲んだだけで、顔あこうなるん? 村居っち、弱いわ。ぜんぜん相手にならんな」

「最初っからおまえに勝負を吹っ掛ける気はねえよ。そげな命知らずなこと、できんわ」


 ふふ、と笑って美羽は左手を握り締め、何度か前後に揺らした。からめた親指で村居の親指の付け根をそっとなでる。手のひらが美羽の手の中で湿り気を増す。


「今日、来るやろ?」


 耳元でささやかれた言葉に、村居の顔を見上げる。目じりのしわに、優しさと期待、それに自信が溢れているのを感じ取った。微笑もうとした瞬間、村居の顔はもやもやとかすみ、穴が開いた。顔の代わりにぽっかりと開いた大きな穴から、あの空き地の地平線が見える。ごう、ごうと乾いた音がとどろき、体をかすかに揺り動かす。小さな黄色い花をつけたひょろ長い草が頼りなげに首を振る。


「――なあ、村居っち、次はいつ飲みに行く?」

「いつでも。美羽さんの休みに合わせますよ」

「じゃあ、あとで仕事のスケジュール確認してから、連絡するわ」

「きちんと確認してよ? 前みたいに、ドタキャンは勘弁よ」

「わかっちょる、わかっちょる」


 さわさわと風がスカートを揺らした。もう一度村居の右手を握り締め、その感触をしっかり覚えこませてから、そっとほどく。村居が慌てたような顔をする。くるりと身をひるがえし、じゃあまたね、痺れた左手をひらひらと振る。心もとない気分を踏みしだきながら、美羽は暗い町に向かって歩く。

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ごう、ごうとうなる 佐藤宇佳子 @satoukako

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