第2話

 七穂なほがジンのおかわりをふたりの前に置いたとき、ドアベルがカランと音を立て、スーツ姿の男性客が三人連れで入ってきた。七穂が定規と分度器で測ったような完璧な笑顔で、いらっしゃい、お久しぶりですねと微笑む。


 平成の大合併で面積だけはやたらと大きくなったものの、人口は減少の一途をたどるこの町で、客商売を続けていくのは並大抵のことではない。人口不相応に数の多い歓楽街の飲み屋は、目まぐるしく入れ替わりつつ、数を減らしている。ママやマスターは何とか顧客をつなごうとあの手この手でアピールする。気まぐれを起こした客が同じ店にもう一度足を運ぼうものなら、もう常連さまに格上げだ。もしもその時、店がまだあったなら。


 末端とは言え、そんな生き馬の目を抜くような夜の世界で、あの七穂がようやっちょるもんやわ、美羽はつくづくそう思う。


 七穂は高校では学級委員を歴任する優等生だった。高校二年生の時には生徒会にも名を連ねていた。福岡の大学に進学し、在学中にフランス語とイタリア語を習得して、二年ほどフランスに留学しちょったんよ――そう聞かされたのは、半年ほど前、村居とふたりでぶらりと入ったポポロで、カウンターの中に見知った顔を見つけて驚愕した夜のことだった。帰国後、福岡で通訳と語学講師の仕事を探したものの、コネを駆使しオンライン講座を活用しても食えるだけの仕事を集めきれんかったん。やけん、地元に戻って、週に三日、このカフェバーで働きよるん。かつての委員長はカウンター席と小さな三つのテーブル席をマスターと二人で切り盛りしつつ、接客の合間にさばさばと語ってくれた。


 高校生の頃は常にぴりぴりとして、真っ向から正論を振りかざしてくる子だった。もちろん、美羽は苦手だった。いつも髪の毛をポニーテールにひっつめ、口元を引きつらせるように笑った。ハスキーな声を気にして、口数は少なかった。それがいまや、おっとりとしゃべりながらきびきびと動き、カフェバーを見事に切り回している。彼女が入ってからは、いかにも立地に恵まれないこの店の経営状態も何とか持ち直し、オーナーから可愛がられているようだ。それでも、客が引けたときにふと彼女の顔に落ちる翳りに、ぺたりと貼りついてはがせない焦燥感のようなものを感じ取り、美羽は切なくなるのだった。



「なあ、美羽……」


 村居がジンのグラスをぼんやりと眺めながら口を開いた。


「なん?」

 口ごもる。

「おまえ……」

「なん?」

「……おまえ、結婚せんの?」


 美羽がわずかに眉を寄せた。


「なんし、そげなこと急に聞くん?」

「急に、じゃねえよ。……俺、何回か、プロポーズしたつもりじゃったんやけど?」

「そうなん?」


 そのことばに村居が口をとがらせる。


「そうなん、はないやろ、美羽ちゃん! 俺、顔から火が出る思いで言いよったんよ?」


 答えず、グラスに口を付けた。見つめる村居の頬がわずかにこわばる。


「なあ、美羽さん、俺、本気で言っちょるんやけど」


 答えず、無表情のままグラスを置いた。軽く握った右手から人差し指を伸ばし、腹でテーブルをとん、とんとはじく。じっと見ていた村居は小さなため息をついた。


「気づかんかったっちゅうなら、いいわ。改めて、はっきり言うわ――」


 緊張した面持ちで美羽のほうに身を寄せる。


「――美羽ちゃん、俺と結婚してくれませんか?」


 右手を握りしめる。下唇を噛む。小さな声でつぶやく。


「……なんし、そうなるんかな」


 村居が戸惑って美羽を見る。


「え……なんしって? どげんこと――」



 そのときカウンターから七穂の低い声がした。


「美羽、良かったら、これも試してもらえん?」


 ボトルを手にふたりの前に立っている。


「それは?」

「グラッパ。リモンチェッロと一緒にイタリアで仕入れてきたん」

「グラッパ?」

「うん。ワインを作るときに出るブドウの搾りかすで作った蒸留酒。樽で熟成させた褐色のタイプもあるんやけど、それやとブランデーに近いん。今回は若いものを買い付けてきたけん、無色で、さっぱりした口当たりやと思うよ。冷凍庫で冷やしとったけん、ストレートで飲んでみて」


 そう言うと、ショットグラスに注ぎ、美羽と村居の前に置いた。美羽が香りを確かめ、口を付け、笑う。


「ああ、これはいい。甘い香りと、アルコールのすっきり感が、私好みやわ。七穂、これはストレートがいいわ。ぐいぐい飲めそう」

 七穂が苦笑する。

「美羽、それもかなりアルコール度数高いけん、ぐいぐいは危険やけんな」


 三人連れから七穂を呼ぶ声があがる。七穂は美羽に目くばせすると、奥に向かった。


 村居が黙ってグラッパをあおり、顔をしかめる。


「きっつ。たしかにすっきりしてあとくされない味やけど、口ん中が燃え上がりそうやな」


 美羽が嬉しそうに笑う。


「いかにもイタリアの酒って感じやん?」


「なあ、美羽――」


 浮かない顔で再び村居が切り出し、美羽が身構える。


「俺、ずっとおまえのことが好きやったし、おまえだって、いつもこうやってふたりで飯食ったり、差しで飲んだりするん、嫌がっちょらんっち思っちょったんやけど……違った?」


「違わん」


 そのあとに続く言葉を村居は待つが、美羽は口を開かない。


「美羽ちゃん? なあ、これまでと同じように付き合っていくんやったらさ、結婚しても変わらんやん? ふたりとも仕事続けてさ、交代で飯作ってさ。ときどきは一緒に飯食いに行ったり、飲みに行ったりするん、地味に楽しいと思わん? そんで、いいころ合いに子供が作れたら――」


「止めて」


 美羽が押し殺した声で言った。村居が戸惑ったように眉を寄せる。


「美羽?」


 あいまいな笑みを浮かべて答える。


「ごめんな、村居っち。私、結婚はせん。村居っちが結婚したいんやったら、誰かほかんひと、見つけて」

「え?――どげんこと? 美羽はほかにだれか好きなやつがおるっちこと?」


 美羽が苛立たし気に首を振る。


「じゃあ、なんし……」

「逆に、なんし結婚せんといけんの? ご飯食べるのもお酒飲むのも、さらに言えば、子供を育てるんだって、結婚してなくったっちできるやろ? やのに結婚するんっち、なんし?」


 村居がくちごもる。


「なんしって。だって、それが普通やと思っちょったけん。違う? 社会に出て、仕事に慣れたら、次はプライベートの番やろ? ひとりより、ふたりで生活する方が経済的やし、融通がきくよな。第一、病気のときとか、助け合えるやん? 子供を育てるんだって、ふたりは手がないと厳しいやん? そういうことやないん?」


「それなら、共同生活でいいやん」


「ああ、そうか。ええっと、結婚したら少し税金が安くなるやろ? なんかあったときに保証人になれるし、親や親戚や近所の人にも一人前として認めてもらえる。最悪のときんことを考えても、言い方は悪いけどさ、社会が認める契約があるほうが絶対心強いっち思うよ?」


 村居がそう言って微笑んで見せる。おもねるような表情に、美羽はため息をついた。


「なんしかわからんの。なんしかわからんのやけど、結婚ってことば、気持ち悪いん」


 ぽつりと放った言葉に、村居が黙りこんだ。

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