ごう、ごうとうなる

佐藤宇佳子

第1話

 待ち合わせはいつも、新町のうらぶれた三階建てのビルにある小さなバーと決めていた。


 美羽みうはスニーカーに足を突っ込み、靴紐をきゅっと締めなおす。カフェバー、ポポロの入るそのビルにはエレベーターがない。あるのは、うす暗い蛍光灯のともる、二人並ぶことすら難しい、狭くて急勾配な階段だけだ。パンプスで躓いて数段滑り落ちて以来、美羽は必ずスニーカーを履いていくようになった。その不便さから、最上階にあるポポロが大入りになることはほぼなく、バータイムに切り替わった十八時から十九時ごろに行けば、まず間違いなくカウンターのお気に入りの席に座れた。


 新町通しんまちどおりはいわゆる飲み屋街だ。300メートルにわたってほぼ混じりけなしに飲み屋ばかりが立ち並ぶさまは、県下でも他に例がなかった。スナックやバーやパブの袖看板そでかんばんが左右のビルの壁から狭い通りに覆いかぶさるようにせり出している。その数、およそ百基。美羽はこの電飾の輝く通りが大好きだった。


 漁業と造船業の最盛期には二百軒ちかい飲み屋がところ狭しと軒を連ねていたらしい。どげん、きらびやかじゃったんやろう。美羽はうっとりと思いを巡らせる。産業の衰退とともに、飲み屋はじりじりと数を減らし、美羽が高校を卒業するころには、ネオンの数は往時の半数近くにまで減っていた。十八時を五分ほど過ぎた今、まだ時間が早いとはいえ、通りを歩く人影はまばらで、灯りをともしていない看板もめだつ。


 小学生のころ、何度もこっそりと通学路から逸れてはこの通りを通った。そのたび、なしてどのお店も閉まっちょるんやろうと不思議に思っていた。青空の下、回収を待つ、あるいは回収後の薄汚れたゴミ箱がいつも通りにずらりと並んでいたので、どうやら、つぶれているわけではなさそうだった。肩を寄せ合う店舗は日の光にしらじらと照らし出され、のんびりとした海辺の田舎町にあって、この通りだけが異質な雰囲気を漂わせていた。物憂げなまなざしでしどけなく挑発してくるようなその景観に、子供ながら淫靡なかおりをかぎつけ、強烈に引きつけられた。



 ドアを開くと、カラン、というドアベルの音とともに、橙色の薄明りがあふれだす。いつもの場所、十人がけのカウンターの右端から二番目のスツールに座る村居の背中が見えた。カウンター席にも、二人がけの小さなテーブル席にも、まだほかの客の姿は見えない。


「ごめん、お待たせー」


 左手で村居の背中をばしんと叩き、右隣に腰掛ける。ふわりと爽やかな柑橘系の香りがした。村居の手元を見る。


「ん? なん飲んどるん?」


 村居はにやっと笑って小さなグラスを持ち上げた。グラスには、氷を浮かべたつややかな黄色の液体が半分ほど入っている。


「リモンチェッロ」

「なん、それ?」


 カウンターの中から七穂なほがハスキーな声で答える。


「レモンのリキュール。レモンの味が濃いいわ。美羽も飲んでみる?」

「うん、じゃあ、それちょうだい。どこのお酒?」

「イタリア。お店がようやく落ち着いてきたけんね、この前、現地に行って仕入れてきたんよ。今日はお試しで出してみちょるん」

「へえ、どこ行ったん?」

「ミラノとローマとナポリ」

「イタリアだけ?」

「うん。ああ、遊びやないけんね、仕入れの旅よ、半分はな」


 笑ってそう言いながら、クラッシュアイスをたっぷり入れた小ぶりなグラスにリモンチェッロを注いで差し出した。美羽が口を付け、とたんに顔をしかめる。


「あまっ! あ、しかもすっぱあ!」


 村居が声をたてて笑う。笑うとたれ目の目じりにしわがよる。しかめっ面でもう一口飲みながら、その横顔を盗み見る。


「美羽、おまえ日本酒好きなんやけ、甘い酒はいけるやろ?」

 美羽が顔をしかめたまま返す。

「私が好きなんは、日本酒でも辛口。うん、七穂、これはかなり濃いわ」


 七穂が整った顔に非の打ちどころのない笑顔を浮かべる。


「それ、その味の濃さで、さらにアルコールもきついけん、要注意な。四十度近いよ。まあ美羽なら問題ないと思うけど」

「うん、度数はいいんやけどさ、甘味と酸味がここまで強いんは、私にはきつい。この味の濃さやと、お店でで出すんは無理やな? クラッシュアイスに注いだんも好き嫌いがありそうや。ソーダ割りなら、爽やかさを生かしたまま、穏やかめのカクテル風になるんかな?」


 そう言いながら早くもリモンチェッロを飲み干す美羽に、村居もつられてグラスを傾けながら問う。


「で、今日は何の呼び出し?」

 美羽がグラスを置く。

「そうそう、裕佳っちと川野の話」

「もう『川野』じゃねえけどな」

「あのふたり、もうすぐ子供生まれるやろ? お祝いどうしようかっち思ってさ」


 村居がそうなあと考える。


「結衣ちゃんと矢野っちのときは、四人で白木の木馬を贈ったんやったよな、同じのじゃ、駄目なもん?」


 その言葉に美羽は顔をしかめてカバンを探り、スマホを取り出す。


「いくら良いもんでも、同じっちゅうのはなあ……。たぶん裕佳っちは気にせんけど、川野はなんか文句つけてきそうじゃね?」

「もう『川野』じゃねえけどな」

「うるさい」


 美羽が反射的にそう返して、スマホを操作していると、村居の声が少しだけ低くなった。


「美羽さん」


 真面目な表情で美羽の顔をのぞき込む。


「あいつの前でいつまでも『川野』って呼ぶなよ? あいつ、本気で気にするで」

「だって、なあ、『﨑里くん』なんち雰囲気やないんやもん」

「『﨑里くん』っち呼べんのなら、せめて『章』って呼んであげ」

「――うん」


 スマホから目を上げず、それでもおとなしく相槌をうつ。絵本のセット、名前入りカトラリー、ベビー服、布のおもちゃのセット。


「あ、この布のおもちゃのセットって、どう? ほら、いい感じやない? ぬいぐるみみたいやけど、簡単に洗濯できるっち書いとるし、カラフルやし、布の絵本もセットになっちょる」


 村居はもう目尻を下げて美羽のスマホをのぞき込む。


「へえ、赤ちゃんがなめても安全で、ぶつかっても大丈夫、投げても引っ張っても壊れない……うん。いいんじゃねえ?」


 じゃあ結衣ちゃんたちにも聞いてみるわと、美羽はさっそくメッセージを送っている。村居はそんな美羽を見ながらリモンチェッロを飲み干した。


「美羽、明日仕事あるん?」


 スマホを見ながら答える。


「ないよ。ないけん、飲みに誘ったんやん」

「おっしゃ、じゃあ遠慮なく飲むわ。七穂ちゃん、俺、ジンをソーダ割りで!」


 はいよっと七穂が答え、美羽がちらりと村居に目をやる。


「ジンなんち飲むようになったん?」

「うん。最初はさ、何となくチャラいイメージやっち敬遠しちょったけど、意外といける」

「チャラいイメージなら、あんたにぴったりやん」


 村居が苦笑する。


「美羽、ひでえな。おまえ、なん飲む?」

「私もそれにする。私は昔からチャラいイメージで売っちょるけんな」

「なんじゃ、そりゃ」


 七穂が差し出すグラスを受け取るとさっそく口を付け、おいしいと頬を緩めながら美羽が言う。


「それにしてもさ、びっくりしたよね。まさか、おめでた婚だとは思わんかったわ」

 村居がジンを一口のんで息をつく。

「そうか?」

「だって、あのしっかりもんの裕佳っちにそげなイメージなかったやろ? お調子者の川野のうっかりか?」


 ちらりと美羽を見て、村居はもう一口ジンを飲む。


「『章』はうっかりしたりなんかせんよ」

「ええ、そうかあ? あんなちゃらんぽらんやのに?」


 グラスを置いた。


「あいつ、ちゃらんぽらんに見えて、実はすげえ臆病もんやもん。たぶん、自分からは手を出すことすらできんかったんやないかな」


 美羽は村居を見ながらジンを飲んでいる。


「美羽は高校んときの章しか知らんやろ? 中学んとき、あいつ、ちょっと暗かったんで」

「ふうん、高校でいきなりはっちゃけたっちこと? なんか思うところがあったんかな?」

「わからんけどな。でも、中味はたぶん中学んときからそげん変わっちょらんよ。やけん、﨑里ちゃんが妊娠しちょるって聞いたとき、誰ん子? っち思ったもん」


 美羽が顔をしかめる。


「ちょっと、村居っち、それはひどすぎ!」


 村居はジンを飲み干す。


「むしろ、﨑里ちゃんのほうがけしかけたんじゃねえかな?」

「はあ? 何のために」

「それは――わからんけど」


 美羽もジンを飲み干す。空になったグラスをしばらく見つめ、目を上げる。


「味わう間がなかったわ、もったいな。――もう一杯、飲もう。七穂、濃いめでお願い!」


 村居がごめんなと笑った。

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