第五話 連鎖

「こえーな、って思ってさ」


 陽は高くのぼって、いつの間にか夏の青空が最初からいたような顔で窓枠にはまっている。騒がしかった足音が遠のく。川中も俺も額に汗をかいている。

 少しずつ川中との距離を詰めると、身の危険を感じたのか、相手の足も半歩、一歩と下がっていく。俺は煮詰めた憎悪に身を任せよう、と理性の手綱から手を離す。


「そのまるで何も考えてないって面で、何人の人間に地獄を見せてきたのか気になってさ、夜も眠れねーよ。お前、美術部のこと安全地帯だと思って好き勝手やってっけど、ここが学校の一部で、お前はちっぽけないじめられっ子だってこと、忘れてねえよな? いや忘れてんなら仕方ねえから思い出させてやるわ」


 ところが、美術室の真ん中まで来ると川中は動かなくなり、動揺を見せることもなくなった。あくまでここは自分が絶対的な権力を持つ場所だ、と思っている。その態度がまた癪に障って思いきり机を蹴り飛ばしたけれど、川中の肩を動かすことすら叶わなかった。

 焦りが生じる。一対一になれば、相手は流石に降参するだろうと思っていた。誤算だったかもしれない。この女は多分、俺にぶん殴られてもこの態度を崩さない。死んでも自分の美術部部長を守るつもりだ。


「なんか言ったらどうなんだよ?」出来るだけ低い声で脅しをかける。「自分こそ女王様ですって顔しやがって……」


 川中に口を開く気配はない。蔑んだようにこちらを見上げるばかりで、いつまでも俺を相手にしない。引くに引けなくなって、俺はめちゃくちゃな罵倒の仕方をする。


「だいたい、お前みたいなのが部長ってのがおかしいだろ! 教室じゃ闇市クソメガネって呼ばれてるくせに! 眼鏡のくせに全っ然勉強できねえし……運動もできねえし……字が下手くそで読めねえし、授業中シャーペンの塗装剥がすし、クリアファイルの厚さが辞書だし……」


 もはや川中は呆れ返っていた。罵倒はすっかり着地点を失う。


「……そんな奴が部長とか終わってんだよ、花居中の恥が! つーか、兄貴もよくこんな奴を指名したよな。どんだけ猫かぶってたらお前が兄貴に可愛がられんだ……よ……?」


 まさか、と思って焦点を相手に合わせた。それまで悠々としていた川中の瞳の下が、ゆらっと光り始めたのだ。


「……兄貴が」と試しに続けてみる。たちまち川中の下瞼に雫が溜まる。「……お前のせいで、兄貴は…………」思わず言葉を止める。

 川中は静かに泣き始めた。俺の罵声が止まっても、何かのスイッチが入ったように、涙は次々と溢れて止まらない。そのうち静かにしゃくりあげる音が、勢いを弱めた蝉の鳴き声に混じって聞こえ始めた。


「だって、」


 何か言いかけて、込み上げるものにまた黙る。音がしなくなったと思ったら、いきなりびっくりするほど悲痛な声で、ふぅあぁ、と喚きだした。誰もいない部室でその声は響き、校舎中に届いているのではないかと錯覚させられる。

 俺は焦るあまり、足を踏み出して彼女の腕を掴んでしまっていた。口を塞ぐことはおろか、うるせえと怒鳴ることも出来ないのに、俺の行動はどこまでも中途半端だ。小さく悲鳴があがる。川中は目をぎゅっと閉じて、


「だって約束したんだもん! 幹緒先輩と同じ部長になるって! 二人のために、どんなこともやらなきゃならなかったんだもん!」


 手を緩める。川中の手首に赤く細長い痕が出来て、すぐに消える。川中は子供のような無力さで泣いていた。鮮やかな快晴の空と、のぼせた頬の色が対照的だった。


 湿った風に前髪が靡く。十二時二十三分。下校予定の時間はとうに過ぎている。俺は机に頬杖をついて外の家並みを眺める。隣ではまだ、川中が鼻をかんでいた。視線を移した時、川中の薄くなったポケットティッシュに『キャスト募集中』の毒々しい文字を見つけてしまい、また目をそらす。


「……私ね」


 すんと鼻を鳴らしながら、川中は途切れ途切れに語りだした。


「去年、三年生の作品に細工して、その犯人が米澤になるように、仕向けたの。それ以来、米澤も一夏も私のこと、恨んでる」


「ああ、道原から聞いたよ」道原を抱きしめた夜の空き教室が蘇る。「お前の行動がきっかけで、米澤はいじめられるようになったんだろ?」


「……やっぱり、都合のいいことしか言ってないんだね」


 川中の目が冷たく伏せられる。


「いじめはその時に始まったんじゃない。私が入部した時から、ずっとあった。ただ、ターゲットが変わっただけ。米澤だって、前のターゲットのことをいじめてたんだよ。私はそれを交代させるために、米澤を陥れたの」


 顔を顰める俺に対し、川中はどんどん部活動中の思考が読めない顔つきに戻っていく。


「米澤、今は分からないけど一夏と仲がよくって。いじめっ子の三年生の中に、一夏のことを好きな男子がいて、敵視されてたから都合がよかったの。その三年生が一夏の話をしているところを録音して、映像作品に貼りつけて流したりしたら、まずは米澤が疑われるでしょ?」


 淡々と説明される陰湿な内容に俺は、うげ……と若干胸焼けしていた。苦々しい顔の俺を不思議そうに見つめる川中。


「だけど、もう一人疑われた部員がいた。その時にいじめられていた三年生だった。その人こそ、私が米澤を蹴落としてでも救いたい人だったんだよ」


 寂しそうに笑う。慄く俺を憐れむように、包み込むように、それでいて、


「そうだよ、小谷」


 冷酷に突き放すように。


「部室でいじめられていたのは、幹緒先輩だったんだよ」


 再び、蝉が騒ぎ始める。頭の中の黒い渦をぐるぐると巡る。深い傷跡のような渦を。


「……疑われた幹緒先輩ははっきりと否定したよ。それでも犯人扱いされるから、最終的に嘘までついちゃったけど。米澤が、タブレットを使っているところを見た、って」


 俺は何を言う気も起きなかった。脳裏をよぎるのは今までに見た様々な顔だった。涙ぐむ道原の顔。憎悪を口にする米澤の顔。兄の幹緒の──諦めたような、端整だけれど生気のない白い横顔。

 そして、すぐ目の前には春から散々傷つけてきた人間の顔がある。無力感に襲われる。と、その時、見上げた先ではまた大粒の涙が、小さくて円い顔の輪郭を伝っていた。


「え、おい」


「……幹緒先輩、が。幹緒先輩が私にくれたの。部長っていう肩書きを。守りたかったの、幹緒先輩を。守らなきゃならないの、美術部部長、を……」


 川中は本当に苦しそうな顔をして泣く。自分のだけでは足りず俺のティッシュも使って涙と鼻水を拭いて、ぐしゃぐしゃになりながら、制御できない感情が落ち着くのを待った。


「……なんか、食う?」


 俺は思い出して、スクールバッグの中を探る。確か、家からお菓子を持ってきていた。スーパーで売っている、有名な商品によく似たクリームサンドクッキーを川中に手渡す。

 川中は頷いて、個包装のそれを開ける。震える両手で支えながら、さく、さく、とほんの少しずつ齧っていく。まだ時々涙は零れる。真っ赤な頬が、咀嚼の動きに合わせて少し膨れる。

 俺は涙が止まるまで川中の顔を眺める。もうその顔に薄気味悪さは感じなかった。恐怖心の代わりに、同情とも、優しさとも、憂いとも違う変な感情が芽生えた。


 正面玄関を出ると、ふいに川中が声をあげた。


「花に水やるの、忘れてた!」


 涙の跡はすっかり乾き、川中は夕立ちが過ぎたようにけろっとしていた。それは男には決して真似できないことなんじゃないか、と思えた。花壇の側にあるホースを引っ張り出してきて、自分の花がどこにあるかを確認する。


「枯れかけてる。小谷のは?」


 俺は課外活動で花を植えたこと自体を忘れていた。二人で探しても、俺の花の場所は分からず終いだった。川中はホースのノズルを切り替えようとしたけれど、隙間で土でも固まっているのか、なかなか動かない。


「貸してみ」


 川中からホースを受け取った時、玄関を飛び出して来た人物と目が合った。百田だった。彼は俺と川中を見ておやおや、という顔をし、「お前ら、そんな感じなのか」と含みのある言い方をする。


「ちがう、これは」


 ノズルの先を銃口のように川中へ向けて、俺は声を張りあげる。


「……こ、こいつを冷却してやろうと思ってたんだよ!」


 けれども、百田は一切笑わない。つまらない人間の愚行を見たように「そうか」とだけ言って、さっさと自転車置き場まで駆けて行った。遠くでエナメルのバッグがつやつや輝いている。あ、俺、なんか失敗したな、と、いきなり怒られた小学生みたいな気持ちになる。

 ノズルを切り替えて川中に手渡すと、彼女は俺の真似をしてこちらを脅してきた。


「なんだよ、やってみろよ」


 言い終わらないうちに俺はびしょ濡れにされる。絶対零度。視界を覆う真っ白な霧の向こうで、心から楽しそうに笑うその顔だけが、眩しく映った。


「ばーか!」

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