第八話 カノン

 母の車に戻れば、何もかも元通りだ。病院の匂い。優しい責め苦のような死の香り。新しい病衣。夢の中の兄。どんなに季節が変わっても、死の気配を排除した忙しない町にそれらを持ち込むことは許されない。病院は遠のいて、俺は昼間でも薄暗い灰色の市街地に吸い込まれる。

 力なく運転席の母が呟く。「もう、秋ね」


「ああ。うん……」


 ついこの間まで、こうした母の感傷的な言葉に不快感を感じていたのに、今はなんてことのない作業のように返事が出来た。クリーニングした学生服から、ふいに冷めた大人の匂いがする。母の諦めたような瞳がルームミラーに反射する。


「寂しくなるわ。あんたが出て行っちゃうなんてねえ」


 景色は記憶の濃い家並みに変わり、一番奥にラベンダー色の自宅がゆっくりと顔を出した。三輪車が消え、朝顔が消え、鯉のぼりが消え、サッカーボールが消え、ついには兄が消えた、家。

 ──この家で、俺は何度も兄の幹緒を転ばせた。母の平手打ちが痛かった。突き指したらどうするの、が決まってそれに続いた。二階の、隣の部屋で兄のセレナーデが聴こえていた。兄と同じピアノ教室から帰って食べる胡麻プリンが美味かった。俺だけピアノもサッカーもやめさせられた。この子には期待していないんですと笑われた。悔しくて父を突き飛ばした。父も母も少し優しくなった。階段を降りてすぐのところに、夜な夜なこっそり兄と触ったパソコンがあった。


 この家は、家族の愛憎も諦観も抱きしめながら、ひそやかに佇んでいる。その健気な、愚直な生あたたかい空間を自ら捨ててしまいたい、という、反抗心とはまた別の気持ちを抱いたのは、何も最近のことではない。


 学校でこんなことを考える人間は、意外と少ないようだった。地元で生きて死ぬのを当たり前と思っているクラスメイトに自分のことを話すと、すげえなあ、都会で暮らすなんて、と、夢でも見るような目で言われる。その度に俺は、どうしようもなく常識外れのことを言っているようで不安になる。


 それは、自発的な選択のはずだった。

 けれど俺には、不自然な被害者意識のようなものがあった。近頃はこの変な気分を引き連れたまま、部室へ行く。もう、兄の幹緒に何があったのか、だいたいのことは分かっているのに。ここに来ては、まだ戸惑っていてもいい、と甘やかされて帰る。今の部室にはそうやって甘やかしてくる奴がいる。


 柔らかい風が前髪に触れて、顔を上げる。緩やかな二つ結びに、新調したばかりの、ピンクの細い眼鏡。最近、川中の匂いが少し変わった気がする。……洗剤とか人工的なものでなく、季節のように、纏う雰囲気そのものが……。やっぱり気のせいかもな、と思うほど、微かではあるけれど。


「部長。進路希望調査書いた?」


「あ、え、書いてない! 小谷は? スイカ泥棒になるんだっけ」


 川中は変なクリアファイルを片手にぎくっとする。確かに、そんなことを春に書いて提出した記憶がある。俺は過去の自分にげんなりしながら、


「まあでも、それだと夏しか稼げねーからなあ」


「じゃあ、どこに行くの? 当ててあげるね。小谷は成績がいいから……」


 次々とあがる高校名は、どれも地元の学校だ。まるで相手を騙しているような気分になって、俺は目線を落とす。


「俺、この町から出るよ」


 その時、美術室の前を、川中が言うところの『通過列車』が走って行った。廊下はよく、体育館やグラウンドが使えない運動部の練習の場にされる。

 俺の声はいかずちのような足音にかき消され、川中の耳に届いていなかった。あの不安が蘇って、俺は話を切り替える。


「……部長は? 高校、どうすんの」


「私、は……どこにも行けない」


 え、と気の毒そうな顔をする俺に、川中は「そういう意味じゃないよ」と慌てて首を振る。


「ここで進学したって、就職したって、私は地元の人間になんてなれないよ。どこかに行かなきゃ。でも、うち、母子家庭だから……」


 手に持っていた変なクリアファイルを机の上に手放す。女優かアイドルか、芸能人の写真の隣に、『一人で悩まないで。大人に相談しよう。』の書き文字。川中の俯く顔には諦めの色が滲んでいた。


「お金も、親戚も、行くあてもないのに、お前の居場所はここじゃない、って言われてるみたい。卒業したらクラスのみんなはきっと庭でバーベキューするよ。ショッピングモールに集まるし、近くの居酒屋で、同級生の話をするんだよ。でも、その中に私はいない」


 そう言うと白紙の進路希望調査用紙を取り出し、〇・二ミリの製図用ペンで『美術室、できれば、ずっと』と書いてしまった。


「私がどこか行けるとすれば、そこは……こんな町じゃなくて、遠い都会でもなくて、誰かの、永遠みたいな、記憶みたいな、そういう、時間の流れない場所だといい。そこには、こんなクリアファイルを渡してくる先生も、子供を女として見る親も、いないの」


 でも、と躊躇うように、川中は小声で付け足した。


「小谷は、そこにいてもいいよ」


 見えない手のひらに、ぎゅうっ、と心臓を握られる。俺は逃げたいのかもしれない。どこかで、俺も川中と同じようにこの町に嫌われていて、こちらが捨ててやらないと、自分がこの町に捨てられるのだ、と思っていたのかもしれない。川中の優しい声に苦しくなる。顧問の仕事をさぼっていた合羽が、急に教師の面をして、時間だぞ、と部室へ顔を出した。

 ふと、合羽は眉根を寄せる。俺と川中を交互に見て、くだらないものを蔑むような、大人の嫌らしい目つきになり、俺が警戒して睨み返すと、すぐに元の仏頂面に戻った。


「川中ぁ。お前、準備室からコピー用紙取ってきてくれ。一人で大変なら、そこの奴と行ってもいい」


 そこの奴だぁ? 舌打ちをしかけた。こんな、同じ歳なら、確実にいじめていたであろうしょぼい大人に馬鹿にされるのは心外だった。川中が「どうする?」と聞くので、聞こえるように「カッパ先生がそう言うならそうすっかあ」と答える。

 合羽の敵意を含んだ視線を受けながら、美術室に隣接する小部屋に入った。


 閉め切った準備室はほとんど物置の状態になっていた。画材や資料だけでなく、どこからか押しつけられた革のソファや、空の水槽まで置いてある。コピー用紙を探す川中をよそに、俺はその奥で布を被っている板状のものへ近づく。

 電子キーボードだ。鍵盤は日に焼けて黄ばんでいるけれど、布を取ると状態はそれほど悪くないように見える。記載されている内蔵曲のリストが少し古くさい。


「ああ、それ、まだ動くよ」


 用紙を置いて、後ろから川中が覗いてきた。綺麗に束ねてあったケーブルを解いて、手際よく差し込み口に挿す。キーボードの画面がぼんやりと青く光った。


「ねっ」じゃん、と鍵盤を鳴らして川中は得意げだ。そうしてピアノ未経験者特有の、人差し指で鍵盤を押す弾き方で、何かをたどたどしく演奏し始めた。


 らん、らららん、らららん、らら、らららら


 パッヘルベルのカノンだ──俺は下手くそなそれを、川中の口ずさむ声つきでようやく理解できた。けれど、カノンは二小節を過ぎると同じ旋律を繰り返し、次に進むことがない。

 ここしか分からないの、と川中ははにかむ。遠くを眺めるような目の中に、またあの幻想が蠢いている。俺は今度こそその正体を掴もうとして、目を見開いて川中の瞳を覗き込んだ。

 …………川中の大きな瞳孔の奥、そこに……あと少しで……けれど、まだ届かない。


 手を伸ばして、カノンの続きを弾いた。もうピアノをやめて何年も経つのに、まるでプログラムされたように運指は指先に染みついていた。上手とは言えないものの、音楽として成り立っていた音の連続は、やがて低い音に差し掛かると、こけたように取り乱してばらばらになってしまう。

 鍵盤に置きっぱなしの細い人差し指が、演奏を妨げている。彼女のしなやかな指に対して、自分の手は呆れるほどに無骨で男性的で、どこか凶暴なものに思えた。

 外から、おーい、と男の声がした。

 合羽の顔を思い出すと、薄暗い感情が芽生える。俺は川中の指を跨いで、正しいカノンを演奏し直した。可憐なメロディを奏でているのに、俺の手はまるで川中を嬲っているようだった。重たい汗で鍵盤が引っかかる。


「……わかった?」


 俺のちょっと偉そうな言い方に、川中は口をぱくぱくさせて「……わからないよ」といじけた。一人で分厚いコピー用紙を全て持っていこうとするので、止めると、俺に半分だけ持たせて、少し離れたところから俺を見つめた。


「……なに?」不安になって、顔色を伺う。

 川中は用紙を抱きしめながら、心から嬉しそうに微笑んだ。


「幹緒先輩に、そっくり」


「…………」


「幹緒先輩も、カノンを弾いてくれたの。ここで」


 えへへ、と照れてから、逃げるように準備室を出て行く。取り残された俺はしばらく立ち尽くすよりほかはなかった。

 埃っぽい部屋に僅かに残る彼女の匂いを嗅いで、俺は、やっぱり変わったんだ、と実感する。川中だけでない。鏡に写る姿が少しずつ見慣れた人間に似ていくのは気のせいでなかった。自分が彼女からどんな風に見えているか想像して、頬をそっと覆う。

 一瞬、危うい陶酔に浸りそうになったけれど、とても虚しいことだと気づいて、やめた。なぜなら、それは、自分が川中の慕う人間に似ているという理由で、彼女に甘えるのを許されていると認めることになるからだ。

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