第七話 ひみつの処刑場
雨が上がると夏は瞬く間に色褪せて、秋を待つ凪のような日が続いた。美術室の机には合羽が現像した海の生き物の写真と、図鑑と、スケッチブックが広がっている。合羽の指示する通り、グループ制作の話し合いが行われていた。
と、言えども、誰と誰が同じグループになるかは、みんな心の中で決めていたらしい。話し合いはすんなり行われた。最後に道原が手を挙げる。
「じゃあ、私は小谷と描くから」
部員のほとんどが、当たり前だ、というような表情を浮かべた。俺と川中だけ取り残されているこの場を、道原が無理やりまとめようとする。それから見計らったように川中を一瞥して、
「あれ、そういえば、花南は?」
その声は冷酷だった。川中は動揺を隠しきれず、あの、と口ごもる。
「私、こ、小谷と描こうって、……思ってたんだけど……」
俺が助け舟を出そうとした時、ぎらっと光るものが視界に入った。道原の瞳だった。その目に制止されているうちに、川中には次々と非難の視線が集まる。
「ええ……花南、小谷と作品を作りたいと思ってたの? じゃあ、私は誰と組むのよ」
「え、そうだけど、でも……」
「ちょっとぉ、今さら変なこと言わないでよ、おっかしい」
見かねた道原の友人が「うちのグループ、入る?」と聞いたけれど、川中は俯いたまま何も言わない。俺が口を開こうとする度に、道原の手が俺のシャツをぐん、と引っ張る。状況はどんどん悪化していく。
「花南って、ちょっと空気読めないとこあるよね。それとも、わざと? なんだか、小谷と私のことになるとしょっちゅう突っかかって来るけど」
「そうじゃ、ないよ」
「実際そうじゃない。小谷が入部してから、こういうことばっか。みんなもう、結構呆れてるよ? またかー、って感じで」
ねえ? と道原は周囲を見渡す。数人の部員が忍び笑いで応じた。
「なあ道原」ようやく声を絞り出して、俺は彼女の暴走を止めようとする。「そんな……そういうのはやめろよ。俺が川中と約束したのは事実だし」
けれど、彼女はあくまで素知らぬ風を貫く。
「ああ、そうなのね。こうやって一人になることを見越して、誘ってあげてたのね。じゃあいいよ、一緒に描こうよ花南。三人で」
背筋がぞっとした。目の前の女に、いや、もっと言えば、目の前の女が自分の恋人であるという事実に失望する。突然、今まで自分が道原としてきたことが真っ黒な生き恥に思えてくる。本能めいたものが、もう無理だ、と囁く。その声は胸のむかつきとなって残り、しばらく治まることがなかった。
嫌悪が伝わったのか、道原の俺に対する態度もそっけなくなった。時々向けられる道端の小石でも見るような冷たい目には、それはそれで困惑させられる。
作品制作は険悪なムードで進められた。テーマも構図もそのほとんどを道原が勝手に決めて、俺と川中は従うのみだった。そうして三人の作品は、次のような形で完成した。
正方形のキャンバスが三枚。一番上の絵は俺が描いたもので、崖の上から男が一人、海藻のような長い紐を真下に向けて垂らしている。
一番下の絵は道原の作品。海の中の人魚が、上へ引き上げられようとしているのか、男を海へ引き込もうとしているのか、とにかくその紐を懸命に引っ張っている。
そして真ん中の絵。崖と海の狭間で、それは紐に括りつけた籠の中に閉じ込められていた。川中によく似たもう一人の人魚。酷く傷つけられ、ぐったりと檻に身体を預けている。
道原はこの三枚の絵に、『復唱』と名前をつけた。他の作品と共に美術室の外の壁に展示されるのを待つそれは、今にも道原の確信した声で叫びだしそうだった。私こそ、あの女に勝ったのだ、と。
九月初旬に作品は展示された。昼休み、俺はその日初めて展示される作品を確認しに美術室へ向かった。初日とあって、壁の前には作品を見に来た多くの生徒が集まっている。遠くに道原の後ろ姿を見つけて、少し憂鬱になった。けれど、すぐに目を見張った。彼女の隣でうっすら微笑む男。
米澤だ。
気づかれないよう、人混みをかき分けて道原へ近づく。道原は最近まるで聞かなくなった甘い声で、米澤に話しかけている。
「あのね、見せたいものがあるの。驚かないでね、私……」
ぱっ、と道原の指が俺たちの作品を指した。
そして異変に気がついた、道原も、俺も……
三枚の絵、その真ん中が、全く別のものに差し替えられていた。一番上は海藻を引く男の絵。一番下は人魚の絵。けれど、真ん中には、囚われの人魚でなく、縛りつけられた二匹のイルカがいる。俺はこのイルカを見たことがある。夏休み中、比奈田と絵の整理をしていた時に見かけた──道原と米澤のイルカだ。色も形もタッチも、そっくり似せて描いてある。二匹のイルカは身体から血を流し、互いを抱きしめる体勢のまま息絶えている。
道原の方から、耳を劈くような声がした。
「てめえっ……」
周囲にいた数人がそっちを向く。米澤は急に首を掴まれたような、後ろから刺されたような恐ろしい顔をして、めちゃくちゃな怒鳴り声をあげた。
「どこまで悪趣味なんだよ、お前は! お前……お前があいつと付き合ってることぐらい、知ってんだよ! 何が目的でこんな、見せしめみたいな真似すんだ! 舐めやがって、この……この……」
阿婆擦れが!
……一瞬、凍りつくような静寂が訪れ、状況を察した生徒が二人を冷やかし始めた。地獄絵図。道原は放心していたけれど、やがて我に返ると、狂ったように米澤へ縋りついた。
「違う! 私……こんなはずじゃなかった! これも花南の仕業なの! 花南がやったの、全部花南のせいなの! 信じて! 私、復讐したの。あんたがされたことをやり返したの。だから……言わないで、そんな……」
彼女の言葉尻が、涙に崩れて聞き取れなくなっていく。それでも、俺の耳にははっきりと最後の一言が残された。
「私がずっと好きなのは……健だけなの…………」
ずる、と道原の身体が床に倒れて、取り残される。俺は思わず来た道を引き返した。途中、何度も目眩と吐き気に襲われてしゃがみ込んだけれど、悪夢から逃げるように、這ってでも自分の教室へ戻ろうとした。結局、俺は半端な場所で蹲ってしまい、一時間だけ保健室で休まされた。
小学生たちが騒がしく自転車のベルを鳴らしながら、公園に入ろうとする。時刻は五時半を過ぎていた。彼らは奥のベンチで項垂れる道原と、その前に立っている俺を目にすると、そろそろと自転車をバックさせてどこかへと消えて行った。
道原の肩は悲哀と、僅かな怒りを携えている。被害者ぶるなよ、と叱るように、俺は彼女を低い声で責めようとした。
「……騙してたんだな」
けれど俺の声はあまりに湿っていて、弱々しい。相手の嘲笑う気配がする。道原はゆっくりと顔を上げる。
「騙したのは、あんたのお兄さんでしょ」
こちらの顔を見て、あは、と邪悪な顔つきで笑いだした。
「幹緒先輩と花南が嘘をつかなければ、健がいじめられることもなかった。知ってた? 健が最後どうなったか」
彼女の目は狂気に満ちていた。自暴自棄な、それでいて一つの信念に燃えているような、ドラマでしか見たことのない表情。
「合羽先生にいじめの相談をした時、花南は私たちの前でなんて言ったと思う? 幹緒先輩がいじめられてるって言ったんだよ。狡い三年がそれに便乗して、米澤が幹緒をいじめだした、俺たちは米澤を叱っただけだって騒いで、……結局、いじめの主犯にされたのは被害者の健だった」
「でも、兄貴がいじめられてたのは事実なんだろ」
「それは知らない。とにかくあの二人が、健に罪を擦りつけた」
「知らないじゃねえよ」俺は驚いて声を張りあげた。
二人は睨み合う。乾いた空気が小さな稲妻のように肌をひりつかせる。
「だいたい、お前の復讐ってあれかよ。川中に恥かかせて、変な絵描いて、それで勝ったつもりなのかよ」
「私は健がされたことを再現しただけ。あの子も嫉妬に狂った人間に仕立て上げられて、孤立する苦しみを味わえばよかった」
「それだけのために俺を利用して、…………」
責められているというのに、道原の態度は依然として偉そうだ。本当に、この女は自分のことが微塵も好きでなかったのだと分かり、込み上げる憎悪で苦しくなる。
「よく、あんな演技したな。そうやって、男を騙してろくでもない生き方していくんだろ。なあ、こえぇなあ、悪女って」
「ふっ」道原は一瞬だけこちらを慈しむような顔になった。「あんた、本当の本当に本気だったの? 意外と可愛いね」
「……最低だな」
「可哀想に」
詰れば詰るほど自分の方が傷ついている俺とは裏腹に、道原は俺に憎まれて自信をつけていくようだった。元から大人っぽかったその顔が、夜の世界の女のようにあやしく輝いて、近い将来の姿としてありありと街灯の下に浮かび上がる。
「なんにも出来なかったくせに……」
勝ち誇る道原の携帯電話に、一通のメールが届く。ふと、その顔が曇る。
花南からだ……。
そう呟いて、指を止めた。彼女の携帯電話から大人数が囃し立てる大きな声が響いて、俺は無遠慮に画面を覗き込む。そこに写っていたのは三年二組の教室だった。米澤が川中の鞄にゴミを詰めている、今では日常となった風景が、いつの間にか動画に収められていたのだ。
「なによこれ」道原の声が震える。「脅しのつもり?」
石でもぶつけるように、道原は握りしめていた携帯電話をベンチに叩きつけた。
「あんたが悪いんじゃない」
何度も、何度も、ピンクの携帯電話についていた装飾が破片となってそこらに散らばっても、道原は正気を失って暴れていた。そのうち、携帯電話が機能しなくなると、自身もふらっと脱力して、ベンチに突っ伏したまま動かなくなる。
もう終わりだ、と言う俺の声は相手の耳に届いていない。彼女は、ずっと、壊れたように呻き続けた。
「あんたが、悪いんじゃない……」
「イルカって、遊びで交尾するらしいよ」
どきっとして、油断した顔のまま振り向いてしまう。美術部を辞めた道原も、他の部員もいない美術室は、ちょっとだけ感傷に浸るには丁度いい場所だった。それにしても、完全に気を抜いていた。川中は俺を物珍しそうに見つめ、ゆったりとした微笑みを浮かべた。
「……そんな、泣きそうな顔して」
「……別に」
川中からどんな辱めを受けた時よりも恥ずかしくて、俺は押し黙る。川中の手には展示するはずだった古い人魚の絵が握られている。彼女はそれを木枠から外すと、躊躇いなく真ん中から鋏を入れた。
「復讐するつもりなら、もっと徹底的にやればいいのに。小谷も一夏も情けないよ。特に小谷。女の子に騙されて、振り回されて捨てられて、今なんか大して好きでもなかった子のこと思い出して、泣きそうになってる」
清々しいほどに事実だった。その痛烈さにぐずついた感情も少しずつ洗われていく。
「二人の考えることくらい、分かるよ。でも……水族館で小谷が誘ってくれた時は、本心が見抜けなかったなあ。私、嬉しかったのに」
「いや、それは」
違う、あの時は道原がどんな企みを持っていようと…………必死の釈明が喉から出かかって、やっぱり口を噤んだ。代わりに、川中に正面から向き合い、今出来ることはこれしかない、と目を伏せる。
「ごめ」
「いらないよ。一度そう言って騙した人の謝罪なんて、なんの価値があるの」
川中は絵を置いて椅子に深く座り、ゆっくりと脚を組んだ。
「座って」
椅子の背もたれを引いた瞬間、そうじゃない、 と厳しい声が飛んだ。俺は黙って床に膝をつく。見上げた先で、冷たげな瞳がいっそう意地悪く細められる。
「許して欲しい? それとも、謝ってすっきりしたら、さっさと逃げ出したい? でも、まだだめ」
そう言うと、川中はおもむろに筆箱からマジックを取り出し、太い方のキャップを外した。黒いペン先が不穏に揺らめいて、俺のすぐ近くでぴたりと静止する。
「……部長……」
その役職名を呼ぶと、喉の奥がぎゅっと締まる。川中の清らかな微笑み。その瞳の中に、俺は自分とよく似た懐かしい存在を見つけた。これだ、この幻想が、俺を牙の抜かれた犬っころにする。俺のようで俺でない、けれど他人でもないそれは、部室にいる時にだけ川中の瞳で眠っている。
左頬にぴたりと冷たいものが当たる。油性インキのつんとした強い匂い。顔に染みつく黒い罰。皮膚を通ってそれは心臓を優しく撫でる。俺は目を瞑る、罰せられるのは恐ろしいはずなのに、どこかで川中に救われている自分がいる。
「……ふふ、頬っぺた、真っ赤」
終わると、すぐに駆け出した。川中が耳元でずっと笑っているような気がした。おそるおそるトイレの鏡を見る。
俺はこれからも、あいつからは逃れられないかもしれない。
そんな不安が、大きく不格好な字で『まけいぬ』と書かれた頬をよぎった。
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