第六話 思案

 八月の総合スーパーは浮ついていて、家族連れや夏休み中の小学生で溢れかえっていた。俺と道原はフードコートでポテトをつまみながら、借りたCDのあの曲が良かっただの、部員のスズキとアケミがまた付き合い始めただの、今度はちょっと遠出して喫茶店に行ってみようだの、当たり障りない会話を続けている。時折、道原がぎらぎらしたピンクの携帯電話を弄りだすので、俺は一人でいるよりも孤独になる。


 最近は、怠惰と、付き合うってめんどくせー、ということばかり感じる。


 側に座っていた小学生の軍団と目が合う。がきんちょたちは好奇心に、若干の恐怖と羞恥を混じえた表情でこちらを見上げていた。まだ目をそらす器用さも持ち合わせていない。俺がわるーい顔をしてにやっと笑うと、みんな目を丸くして顔を見合わせ、「こえー……」と少し嬉しそうに言った。


 二階へ繋がるエスカレーターは広く、ここからでは二段上の道原がやけにすらりとして見えた。黒い薄手のニットはざっくりと背中や胸元が空いていて、華奢な紐がその間を交差している。背が高く大人びた顔立ちの道原は、制服を脱ぐともう高校生か大学生のようだった。

 買う予定もないのに水着のコーナーへ連れられ、似合うのを見つけて、と言う道原のために女性用水着を探した。ワンピース、セパレート、ビキニ。どれも輝いているけれど、それらを着る道原の映像は鮮明ではない。あまり好きではない甘ったるい南国のフルーツジュースのように、彼女の姿は遠かった。

 一際目立つ水着を持って、道原が駆け寄ってきた。こんなのどう、と胸の前に翳したそれは、黒い布を金具つきの紐が繋いでいる、ちょうど今着ているその服の露出を多くしたようなデザインだ。


 馬鹿みたいだ、と俺は思った。


 俺は馬鹿にされているんだ、と思った。あだめいた水着。デート。喫茶店。片方ずつのイヤホン。作ってくれるお弁当。道原から与えられるそれらは、まるで借りた犬が好むと聞いてそればかり与え続けるような、悪趣味な餌でしかなかった。少なくとも俺には、好きな男の前でこんなあからさまな態度をとる女が信じられない。


「……道原はさ」


 衣料品コーナーを出て、並んで歩く。あのがきんちょたちが俺の横を通り過ぎて「さっきのヤンキーだ」と小声で呟く。


「本当に俺のこと、好き?」


 道原の足が止まる。隅に追いやられたゲームコーナーの側で、俺たちはしばらく見つめ合った。どうして? と、彼女の瞳が聞き返している。次の言葉に悩んでいると、急に腕を引っ張られて、目の前の景色が目まぐるしく変わっていく。

 青い目印を通り過ぎて、俺はやっと異常事態に気がついた。男子トイレ。その一番奥の個室に押し込まれ、がちゃんと鍵をかけられる。扉を背で塞いだ道原が、肩で息をしながら必死に声を絞り出した。


「ちゃんと、分かってよ……!」


 額に滲む汗が、湿った吐息が生身の人間であることを俺に知らせる。漫画のヒロインでも南国の遠い幻想でもない。生身の、女。


「分かって。私が小谷を想ってるってこと。私の心も、からだも……」


 そう言うと彼女はいきなり、自分の胸元を交差していた黒いリボンを解いた。するっと紐が抜けて、ニットの両端は解放されたように外へ広がる。


「私がここにいるってこと、感じて」


 感じて……と、俺の手を汗ばんだ指先で触れる。手が、彼女の鎖骨へ導かれる。


「こんなこと、他の人には絶対許さないんだから」


 道原は、熱かった。痩せぎすの自分とは全く違っていた。脈が速くて、血管が透けていた。たちどころにのぼる甘い香りが、芳香剤の安っぽい匂いと混ざり合う。俺は、いつも物事をあべこべに知る。それを怖い、と思うのはあまりに自尊心を傷つけるので、俺は自分から柔らかい悪夢のような波に立ち向かわなければならなかった。


「信じる?」


「……うん」


「他のことなんて、考えられないでしょ?」


「…………うん」



 見学会の日は、生憎の雨だった。水族館内のレストランから伽藍堂のショープールが見える。斜め向かいの席に、最近恋人が出来たらしい道原の友人が大盛りのラーメンを置いて座った。部活動の一環なので制服は着ているけれど、その髪はいつもと違って巻かれていたし、なんだかいつもより睫毛が濃いような気がした。

 遅れて道原がやって来た。彼女は迷いなく俺の隣に座る。熟年のカップルのように、寂しささえ感じるほど自然に。友人は道原の動作を気にも留めない。女子はみんな状況に慣れるのが早く、俺と道原を冷やかすこともなくなっていた。


「ねえあんた、デートでもするの? 今日、ケバいけど」道原がストローを咥えながら友人に聞く。

 うっさいな、と顔を赤らめる友人に、道原は驚くほど傲慢な言い方で忠告した。


「気をつけな? あんた、前と違ってあいつも学習してるんだから、ちゃんと手懐けないと。逃げられないようにね」


 友人は首を縮こませて、けれど、少し相手を馬鹿にするように頷く。


「ああ、はい。ちゃんとやりますよぉ。一夏みたいにね」


 道原は友人の意図に気づかず「ふん……」とパスタを巻いている。道原がどんなに、俺と行ってきたこと──あるいは、恋人が行うことは全て経験した、と吹聴しても、敏感な人間には理解できるのだ。彼女の身にまだ、何も起きていないということを。俺は何もかもから目をそらしたくなった。相手を傷つけているのは俺だけでない。とは、やっぱり女々しくて考えたくないけれど。


「なんの話してるの」


 そういったことを理解できない部類の人間が来た。周りも同じように思っているらしく、二人の女子は川中の質問を子供でも相手にするようにはぐらかした。


「雨が止まないねえって」


「えー、絶対嘘! 三人とも、デートとか、そういう話してたんでしょ。私分かるもん、そういう時だけ私のこと仲間はずれにするから」


 予想以上にむきになる川中がおかしくて、俺は笑いそうになる。けれど二人にとって未成熟な彼女はただただ邪魔な存在のようだ。ついこの間まで、男女交際なんかする方が好奇の目で見られていたのに。いつの間にか立場は逆転して、浮いた話のない川中だけが置いてきぼりにされている。


「何よ花南、聞きたいの?」


 ねっとりとした口調で道原が聞き返す。最近の道原には余裕があり、川中と向き合うと、常に少女をからかう大人の女の図が出来上がった。


「だって……」川中はむくれて、おやつにもなりそうにない小さなサンドイッチを頬張る。「私だけ、いっつも何も知らないみたいなんだもん……」


 レストランを出て、青い世界に戻った。淡水魚コーナーを抜けた先の、照明から外れた暗がりで道原に耳打ちされる。


「花南を、誘って」


 命令に近い口調だった。逆光になった彼女の輪郭と共に、白目がぎらぎら光っている。


「一緒に作品を作ろう、って。あの子、絶対うんって言うから。だって、花南は小谷のことが好きなんだよ? 気づいてない?」


 くすりと意地悪な笑い声を残して、道原は去って行った。スケッチ会が終わった午後からは自由時間と決められていた。

 階段を下り、半地下の水槽を眺める。地味な生き物ばかりで人気のないそこは、道原に神経を使って疲れた心を休ませるのに最適だった。

 道原の企みは、完全には分からない。けれど、彼女の考えはどこまで行っても浅はかなんだろうな、と思う。川中が道原に復讐された後、目の前に俺のことをひたすら想う道原が残る、なんて未来が本当に来るのだろうか。それが、一体何への勝利になるんだ? 俺は急に屈辱的な気持ちになる。


 来た道を引き返し、イルカの水槽を見に行く。平日の昼間とはいえ、水族館の目玉ともいえるその場所には数人の客がいた。重たげなガラスの奥で、優雅な灰色の体躯がゆったりと泳いでいる。写真撮ろうよ、と背後で女の甘える声が聞こえて、場所を開けようと思った時、悠長に説明文を読んでいる制服姿の女と目が合った。


「か…………部長」


 初めてその役職名をきちんと呼んだ気がした。川中のことを部長、と呼ぶのは三年女子を除く部員の間で暗黙のルールとなっていたけれど、俺はそもそも部室で川中を呼ぶことがほとんどなかった。

 川中はしばらく惚けて俺の方を見つめていた。カップルが邪魔くさそうにこちらを見るので、急いで手招きする。

 とたとたと恥ずかしそうに歩いて、川中は隣まで来た。ふいに道原の声が蘇る。

 花南は小谷のことが好きなんだよ?

 ありえねえよ、俺、散々いじめちゃったし。と心の中で呟く。ばつが悪そうにする俺に首を傾げる川中。


「このイルカ、イルカっぽくないね。もっと、鼻がしゅっとしてるのを想像してたんだけど」


「あー……バンドウイルカ? さっき、あっちのプールにいたぜ」


「本当? 見逃してた。小谷、イルカ好きなんだね」


 小さいスケッチブックに『鼻がしゅっとしてる バンドウイルカ』とそのままメモし、俺を見上げた。


「小学生の時、ドルフィンって名前でお昼の放送してたんだもんね」


「……はあ!? お前っ……」


 周囲の客がこちらを振り向く。俺は慌てて川中の腕を引き、耳元で問い詰める。


「誰から聞いた」


「クラスでみんな、話してたよ。小谷と同じ学校だった人たちが」


「いいか、その話は忘れろ。二度と思い出すな」


 真剣に言い聞かせる俺に最初はびっくりしていた川中だったけれど、俺があんまり必死になっているので、そのうち俺の顔を見つめたまま軽く吹き出した。恥ずかしくなって、俺も変に笑ったまま俯く。


「お前、油断なんねーなぁ。恐ろしいわ」


 川中は満足げに「そんなことないよ」と否定する。女子は、たまに、こちらが怯むとなぜか嬉しそうにする。それは最近知った謎の一つだった。


「……怖いのは、小谷だよ」


 陰りのある声でそう続けた。胸がざくっと抉られるような感触。足元にまで広がる青に境目はなく、溺れそうになる。


「ずっと、何かに取り憑かれてるみたいだよ。小谷は」


「うん……」


「美術部に入った時から、ずっと」


 鮮やかで、人工的で、執念を感じるほど清潔に保たれた海の模型は、どこか学校に似ていた。イルカが奥のエリアに行ってしまい、客もそれに合わせてだんだんいなくなる。


「……ごめん」


 ゆっくり目を閉じると、磯の香りは絵の具の匂いに変わる。シアンと白がパレットの上で混ざり合おうとしている。


「あんなことしても、意味なんてなかった。俺……」


 絵の具よりも他人の匂いが強くなって、目を開ける。俺のすぐ目の前には川中が立ち、不思議そうにこちらの顔を覗き込んでいたのだった。

 仰け反る俺に対して川中は確信したように、


「……今の小谷は、怖くない」


 ふふん、と鼻を鳴らして、何もない水槽を再び眺めた。シアンが、白の中に溶ける。


 気がつけば、集合時間の十分前だった。結局何をモチーフにして作品を描くのか、構想すら生まれていない。川中はスケッチブックを捲り、最後のページを見て「あーあ」と少し落胆した。


「バンドウイルカ、見ておきたかったな」


「イルカ描くつもりだったの?」


「うん……まだちゃんと決めてないけど……」


 俺は悩んでから、そっぽを向いて歩きだした。なんでもないことのように装って提案する。


「俺もイルカ描くんだけどさ。テーマが被るんなら、共同で描くってのもありじゃね? 俺、バンドウイルカの写真撮ってるし。ま、嫌ならいーけど」


「えっ、いいの? でも……」


 一瞬、川中から不安げな様子が窺えた。彼女はちょっとだけ何かを考えて、それからすぐスケッチブックを抱え直した。


「……うん、一緒に描く」


 俺の少し後ろを歩く。集合場所となった広場では、既に俺の隣を自分の居場所にした、背の高い女が待っている。

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