第九話 初恋

『小谷たすけて〜 明日の国語の課題、どこまでか教えてください。ペコリ』


 隣に「ペコリ」という感じで謝っているキャラの絵文字。


『ワーク、P七十二〜七十三。古文のアレ、六が提出必須。問七は飛ばしていい。以上』


『小谷は神です。ありがとう。お礼に、小谷に似てる犬の写真あげます』


 添付ファイルには澄まし顔のボルゾイの画像。


『どこが似てんだよ?』


『横顔がしゅーんって長いところ。あと、髪型。また小谷に似てる犬を見つけたら、送るね!』


 昨日のやりとりを見返す。もはや話題と関係なくなった件名の隣に、Reの字が連なっている。受信ボックスにはだんだん川中のメールが増え、古いもは知らないうちに消えてしまっている。使い古したスライド式の携帯電話を小さくすると、暗い画面にボルゾイに似ているらしい自分の顔が写った。

 横顔が……長い……?

 洗面所で、出来る限り横を向こうとしているところを母に見られた。あえて遅刻寸前まで支度をせず、食パンを咥えながら駆け足で登校するスタイルは、秋からやめていた。

 十月。乾いた枯葉のどこか寂しげな香りが、制服に包まれた身体を少し、急かす。


 教室に入れば、俺と川中はただのクラスメイトで、互いに関心のない他人だ。相変わらず隣の席で微動だにせず授業を聞いて、たまにノートの隅っこに落書きしている姿を、俺は眺めていた記憶もないのに憶えているけれど……。

 漢字の小テストがあり、みんな隣の席の生徒と答案を交換し、丸つけをし始めた。恒例となっているこの時間にも、川中との会話はない。けれど、無言で手渡された満点の答案をよく見ると、点数を書く枠におめでたく国旗が突き刺さっている。昨日は確か花丸だった。

 後ろから集められた答案と一緒に、それを前の席の米澤に渡す。一瞬、米澤の目の下がひくついた気がして、もう一度彼の方を見直した。米澤は曖昧な表情のまま前を向いてしまった。


 今月の中旬から、午後の授業は全て文化祭の準備にあてられた。俺も川中も学級新聞を作るグループに入っていて、その中で俺は取材班、川中は題字をレタリングする班に振り分けられていた。

 教室の後ろで、背中に蹴りを入れられている男がいる。米澤だ。神経質そうな顔に汗を滲ませ、それでもまるでこれが「悪ふざけ」であると周りに主張するかのように、へらへら笑っている。夏休みが開けてからいじめの主なターゲットは米澤に変わった。俺が川中へ何かをするのをやめると、急にみんな米澤の行動に鼻白むようになり、手のひらを返したのだ。


「お前、早くレタリングの見本持って来いよ」


 大量の水性ペンを運ばされたばかりだというのに、また使い走りにされるのか、と呆れる。米澤は角が立たないよう注意しながら、「きつい、それはきつい」と冗談っぽく拒否し続けている。


「それなら、手伝ってもらえばいいじゃねえか。例えば川中とか」


 数人の生徒が笑いだす。もういじめられてはいないとはいえ、教室で川中の立場はまだ低かった。こうした奴らの中では、米澤も川中も似たようなもので、二人は同じ空間にいると、男女であるのをいいことに幼稚な冷やかされ方をする時もあった。

 けれど俺は、この瞬間に、いつも寒気を感じる。それまで大人しかった米澤が急に目の色を変えて、


「ふざっけんなよ、誰がこんな不吉な女と! 気持ち悪い、汚ぇな、冗談でもやめろよ」


 必死の形相に、笑い声は余計厚くなった。川中は聞こえないふりをしている。焦げつくような感情がせり上がって、俺は取材班のかたまりから教室中に響く声で叫んだ。


「じゃあ一人でさっさとやれよ、米澤。ごちゃごちゃ文句垂れやがって。……なーにボケっとしてんだ、おい」


「…………!」


「状況、分かってねえの? 早く借りてこいっつってんだよ!」


 椅子を蹴りながら米澤は立ち上がる。周囲にいた女子が少し怯んだ。拳を震わせ、肩を怒らせ、今にも飛びかかりそうな表情だけれど、俺には確信があった。こいつは、俺には何も出来ない。


「……この女のこと、庇ったつもりかよ。お、お前、この女が……」


「あん?」


「今度はこの汚物みてえな女に好かれるつもりかよ、お前はっ」


 わっ……と、その声の余韻が聞こえるほど、教室は静まり返っていた。一人、二人と、米澤から目を離して、黒板の方に視線を移す。……そこには、合羽が立っていた。少し顔を青くして、怒りとも困惑ともつかない表情で口を半開きにしている。

 俺は合羽と米澤の他に、もう一人この場を支配している人間がいることに気がついた。その目は確かに俺に囁いていた、いや、命じていた。あの美術室にしかない幻想が一時的に蘇っていた。

 やれ、やれ、やれ!


「……先生。米澤くんが」何かが噛み合う感触に突き動かされて、俺は告げる。「米澤くんが、川中さんのこといじめてます」


 合羽は俺の言葉にがっくりして、頭を掻きながら「……米澤。ちょっと来い」と米澤へ手招きした。通り過ぎる米澤の、真の裏切り者に殺される、その直前のような顔が、頭の中で繰り返し再生される。川中はそそくさとリュックサックに道具を詰め、「じゃあ……部活での仕事があるので」と教室を抜け出した。


 この頃はつきだした嘘も当たり前に信じられ、俺と川中だけ早めに文化祭準備を切り上げて、部室でずる休みするようになっていた。誰もいない美術室はどこか荒んだ空気があり、今の自分には心地がいい。


「今日のこと、きっと揉み消されるよ。合羽先生だもの」


「……ああ」


 二人とも、眩しそうに窓の外を眺めた。薄い雲に隠れた夕陽がより白く輝き、家並みへ落ちようとしている。

 部室のスピーカーから、二年くらい前に流行した有名アイドルグループの楽曲が流れ始める。今年の文化祭のテーマソングとして選ばれたこの曲は、夕方になると、しつこく文化祭準備期間の学校に響き渡った。潔いほど大人のエゴに満ちたこの激励を、俺たちはもはや馬鹿馬鹿しいとも思わず、ただ、時間が過ぎることへの憂いに換える。

 続いて、聞き慣れた生徒会役員の声がテキストを読み上げる。俺は彼より先にその内容を諳んじながら、ゆっくり目を瞑った。


『四時になりました。みなさん、文化祭準備は順調に進んでいますか? 文化祭まであと一週間です。合唱コンクールや作品の出来栄えを向上させるために、…………』


 どうしてこんなに苛立つのだろう。黒板の色相環も、イーゼルも、石膏のメディチも安らかに見守る美術室は、心地よくて、どことなく不穏で、川中の一部のようだった。俺は時々、嵐の中からやって来て、卵の殻を割るように、優しいものを破壊して回る鬼になりたくなる。残酷で荒々しい鬼に。


「……どっか、消えようぜ」


 窓に背を向け、ポケットに手を突っ込んだまま、川中に問いかけた。自分の暗い影が彼女の足元まで伸びている。どこに? と川中が聞くので、どこにでも、お前の好きなところ、と言ってやろう、と思っていた。けれど川中は躊躇わず「いいよ」と答える。


「私も、消えちゃいたい」


「……本当に?」


「うん。消えよう、一緒に」


 ──思わず相手の首を絞めたくなるような、激しい衝動に駆られる。それは自分でも正気を疑うくらい強烈な感情だった。そしてこの欲望が、驚くほど情欲と似ていることに気がついて、あっ……と、自身に戸惑いと恐怖心を抱いた。

 川中はそんな俺を見て薄く笑っていた。後ろめたい希望に似たものが、透き通った白い顔に見え隠れしている。


「ねえ、小谷……。私、同じようなことを繰り返してるの。心の中に渦みたいなものがあって、その渦で一緒に繰り返すんだよ」


「……繰り返すって、誰と……」


『彼女は、悪魔だ……』


 突然、夜の風がやって来て、フラッシュのように兄の横顔が明滅しだした。記憶よりも鮮明で美しい兄は、唇を歪めて何度も同じことを言う。彼女は悪魔だ、と。払っても払っても取り憑く兄の姿は、まるで明け方の悪夢だった……たちまち、なぜこんなことを思ったのか、自分に酷く失望する。俺は自罰的な気持ちでもう一度、確認した。


「誰と、繰り返すんだよ……?」


 けれど川中は、もう分かっているはずだ、と言う風に目を細めるだけだ。テーマソングはいつの間にか止んで、生命力に満ちた弦楽器の音が音楽室から溢れ出した。途端に息苦しくなる。文化祭が終われば、部活動も引退となる。泡のように時間は消えていく。それなのに、まだ、美術室の隅で溺れている自分がいた。



 今日の活動を終え、校門を出たところで、忘れ物に気がついた。面倒なのでそのまま帰ろうかとも思ったけれど、明日の朝に取りに行くのはさらに億劫だと考え直して、校舎へ戻った。

 熱心な吹奏楽部の練習はまだ続いていた。野球部もグラウンドで走り回っている。三階に上がると、夕闇に沈んだはずの美術室から灯りが漏れていて、まだ合羽が残っていたのか、と少しうんざりする。

 と、その時──仄かに焦げたような匂いがした。暖房器具の燃焼などとは違う、軽い匂いだ。そっとドアを開ける。奥に、同じ制服を着て佇む男の背中があった。焦げくささが一気に増した。


「……米澤……」


 ゆっくりと、米澤が振り向く。虚ろな目をしていて、流し台の上で何かを炙っていた痕跡がある。右手にはライター。そして左手には……

 俺はそれが何か確認するや否や、相手に掴みかかっていた。流し台にライターと、燃やされて半分ほどなくなった川中の絵が滑り落ちる。


「何やってんだ、てめえ」


 米澤は目を見開いたまま、けれどどこを見ているか分からない表情で、抵抗する素振りも見せず俺に揺すられていた。……放心状態になっている。話にならねえ、俺は呆れて相手を軽く突き飛ばす。明日、憶えてろよ、と吐き捨てて後ろを向いた瞬間、背中に死に際のような怒声が飛んで来た。


「あの女に絆されたのか。兄弟揃って、腐ってやがる」


 踵を返し、振り向いた勢いに任せて腕を振り上げる。


 かっきぃ……ん! と、甲高い金属音が響いた。おそらく、グラウンドの野球部員が空高くボールを打った音で、男たちの野太い歓喜の声がそれに続いた。

 米澤の身体は流し台に打ちつけられ、軽く跳ね返って床に倒れ込んだ。握り直した拳がまた米澤の頬を打つ。鈍い音と共に硬い肉がぐにゃっと曲がり、眼鏡のフレームも激しく歪む。防御する米澤の胸ぐらを掴んで、無理やりこちらを向かせて、また、拳を入れる。今度は生ぬるいものが手の甲でぬめった。すると、もう止まらなくなって、必死で逃げようとする米澤を捕まえて、何度も執拗に殴り続けた。ここは血潮の世界だった。俺は一人の女のことを思いながら、血肉をかき分けかき分け、呪われたように暴虐の限りを尽くした。


 ひび割れた眼鏡が足元に落ちて、少し回転する。冷たい血の匂い、汗と涙の匂い。米澤は乾燥棚に身を預けたまま、しゃくり上げていた。呻き声の合間に、「お前らが…………」と恨み節を口にするけれど、ずたずたにされたその口では上手く言葉に出来ない。


「次にふざけたこと抜かしたら、川中に変な真似したら、殺す。てめえはせいぜいクソビッチとつるんでろ」


「………………」


 鞄を背負い、美術室を後にした。

 右手が火傷をしたように熱い。歯でも当たったのか、ところどころ皮膚が切れている。俺はその手を庇いながら、痛みが、そこよりもずっと深い場所から来ているのを感じる。この飢えと乾きを伴う痛みは、一人の女にしか癒せない。新たな苦痛を知る度、あの声に囁かれ、あの顔に微笑まれたくて仕方なくなる。両の手のひらで瞳を覆うと、瞼も手と同じくらい熱かった。


 絶望する。

 それは、彼女を好きであることと、同義だった。初めて自覚した、恋、という感情が絶望に等しいなんて、かつての自分がどうやって想像できただろう? 川中花南。俺は狂っていく。お前は、愛しい人間とこんな地獄を味わったのか?

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