第十話 回演
つめてー、とぼやきながら、百田と絞った雑巾を教室に干していく。これは乾燥対策として、保健委員の俺たちに任せられた毎日の仕事だけれど、実際の効果は微々たるものだろう。
教室は文化祭を終えてから、いっそうひりついた。学校に来なくなった米澤を気にかける暇もなく、みんな自分の将来と向き合い始め、教師も呑気に居眠りする生徒などは無視して授業を進めた。
「そういえば、美術部はまだ引退しないのか?」ぼろ雑巾を広げながら百田が聞いた。
「そろそろなんじゃね? 多分。来週とか」
「自分のことなのに、適当だなー。川中はまだ、生徒会誌の挿絵描いてるみたいだけどな」
「あー……」顔が強ばるのを悟られないよう、俺は少し俯く。「あれ、美術部じゃなくて別の仕事でやってんだよ。あいつ編集委員だから」
「へえ。じゃあもう、部活は何もしてないのか」
「元からなんもしてねーよ。漫画喫茶部だもん」
「ふーん……」
雑巾を干し終えて、二人は手を洗いに行く。昼休みの廊下はまだ給食の匂いが残り、穏やかな空気が流れていた。
「けどさ、お前はサッカー部に入ると思ってたよ。結構、勧誘されただろ」
「された。でもまあ、一度やめちゃったし。やり直せるんなら中一から入るけどな」
スポーツブランドのタオルで手を拭く百田は、サッカー部を引退しても肌が小麦色で、逞しい。俺は彼を尊敬しているけれど、いつしかすっかり別の道を歩んでいた旧友に、どこか後ろめたい気持ちを抱えていた。
自分だけが堕落した時の、寂しい憧憬。
「……お前が、美術部に入ったのってさ」
百田の声がやけに静かな、大人っぽい調子になる。
「もしかして、川中が好きだったからなのか?」
慌てて言い返そうとする俺に百田は「待った」をかけ、二人は変に口を開けたまま、しばし身構えた。
「いや、あのな、もう分かる。今のお前が好きだってのは分かる。それはそれとして……」
「何? なんなんお前? えっ……」
「ああ、うん。お前、割と顔に出るタイプだからな。結構前から気づいてた」
「…………」
蛇口を逆さまにして、溢れ出る水に口をつける。冷えていく口内に反して頭の方は処理が追いつかず、熱を持ち始める。
「ただ、……夏休みぐらいまで、お前も荒れてただろ。だから気になってたんだ。好きな子をいじめてたんだとしたら、俺は止めるべきだった」
「……別に」
顔を上げると、自責の念に駆られた真っ直ぐな視線にぶつかって、胸がずきりと痛んだ。もう、自分は相手から対等な友人として見られていないのだ、と、その時初めて気がついた。
「最初から好きだった訳じゃない。でも、馬鹿なことしたと思うわ。今は、普通に接してもらってるけど」
「そうか。ならよかった。……で、お前はこのまま卒業する気なのか?」
「えっ……」
それまでの態度から一変し、百田はいかにも少年らしい笑みを湛えて、
「どうせなら玉砕しろ!」
ばん! と、心臓が飛び出るくらいの勢いで背中を叩かれる。去り際に、小さくて柔らかいものを俺に押しつけて、彼は軽快な足取りで廊下を駆けて行った。なんだよ、ちくしょう、と小言を言いつつ手のひらに残されたものを見る。安産祈願のお守りだった。
「百田!」俺はもう誰もいない廊下に向けて叫ぶ。「さすがに気が早ぇだろ!」
結局、三年生の引退は十一月の初旬に決まったけれど、比奈田の提案で、その次の日曜日にお別れ会を開くことになった。部長の役職についた比奈田は美術室を飾り立てたり、後輩と軽食を用意しながら、もう今から泣きそう、と目を潤ませていた。女子の不思議なところだ、と思った。それとも、これは彼女にとって何か不吉なものを封じ込めるための、儀式なのだろうか。
ところが時間になり、他の部員が揃っても、美術室に川中は来なかった。予定時刻を三十分ほど過ぎたところで、合羽が「もう始めるか」と言ったけれど、比奈田は、部長がいないのにまだ出来ません、と粘る。送ったメールにも返事はない。
俺は教室を出て、川中に電話した。何か重要なことを忘れているような、自分しか感じていない胸騒ぎがあった。ただの思い過ごしであって欲しい、と願いながら川中の応答を待っていると、四コールで川中の携帯電話に繋がった。スピーカーから、風の音が聞こえてきた。
「……部長? 今、どこにいる?」
『…………ビル』
激しい雑音混じりに、川中の声が繰り返す。今度は、その具体的な名前も付け足して。俺は耳から携帯電話を離す。通話が切れて、待ち受け画面に今日の日付が表示された。
──彼女の意図に気がついた時、俺は何も持たず学校を飛び出していた。住宅街を駆け抜け、通行人を突き飛ばし、信号なんか全て無視して、ある場所をひたすら目指した。車の劈くようなクラクションも、怒声も、喧騒も、途中から何もかも聞こえなくなり、肺からのぼる血の匂いにむせて、それでもあの場所は蜃気楼のように遠かった。やっと、二つ前の交差点。公園。古いアパート。少しずつ近づいている。近づくと同時に逆流しだす。時間が、兄の飛び降りた、一年前に。
ビルの周辺は寒気立っていた。俺は七階建てのそれの屋上を眺める。薄曇りの空の下、ちょうど白んでいる太陽の位置に、制服を着た女が立っていた。胸が張り裂けるほどの苦しさで、思わず悲鳴に似た声が出る。
「川中ッ」
けれど川中の耳には届かなかった。迷うことなく、学生服を脱ぎながらビルの階段を駆け上がる。頭をよぎったのは後悔だ。泥水で汚してしまった川中の制服は、水族館の有限の青によく似ていた。次に、多分、少しだけ川中を意識し始めた、夏のあの日を思い出した。玉のような涙。冷酷で子供みたいに清らかな女。そして、まんまと引っかかった準備室。きっとあの時、俺は既に恋に落ちていた。最後に文化祭前の美術室で、激情を覚えた。血の海に溺れて、恋することの絶望を知った。
今はもう、川中の言う心の渦の犠牲者になっても構わない。俺が、この道を選んだ。兄のように、渦へ触れた代償を払い続けることを……。
屋上の重たい扉が開いて、突き刺すような冷たい風が吹き込んだ。寂しく飛び立つカラスの群れの前で、長い藍色のスカートがゆったりと靡いている。
川中は、まだそこにいた。酷く息を切らして現れた俺に、驚いたような、懐かしむような不思議な目を向ける。
「この馬鹿ッ」
俺は学生服で川中を包み込むようにして、その身体を引き寄せた。離すまいと固く抱きしめたつもりだったけれど、この腕は川中の存在を確かめると、急に力が抜けて、抱きしめるというより、彼女に縋りついている状態に近くなる。
ずり落ちる俺に合わせて川中は屈み、俺の腕をもう一度、自分の身体へ巻きつけた。耳と耳が触れ、呼吸もままならないというのに、彼女の空気をやっぱり柔らかい、と感じる。
「待ってた」と、川中は言った。胸を圧迫するくらい強く俺を抱いて、「ずっと」聞いたことのない甘い声で、夢見るように囁く。
「幹緒先輩……」
雲の割れ目から、光の筋がいくつも降り始めた。きっと、兄もこの日、こんな優しい景色を見ていたのだろう。穏やかで、生と死と愛の境目がなくて、慈しみの光が無条件に注がれる世界。幹緒先輩、みきお先輩、と呼ばれる度、自分の見ているものが夢か現か分からなくなっていく。
「幹緒先輩。ごめんなさい……」
「……うん……」
「ごめんなさい。後悔してたの。あなたが思い詰めるくらいどうしようもなく愛されていた私が、どうして、最後に抵抗しちゃったんだろうって……」
風も音も、時間すら感じず、二人は抱き合っていた。天の光はいつしか消え、黒々としたカラスの大群が頭上を飛び交い始めても……。
けれどある瞬間、ふ、と川中の空気が変わった。
か細い蝋燭の火が消えるように、彼女の肩から特殊な情念が降りて、二つの身体は簡単に離れていく。
「……なんてね。小谷は、小谷だよ」
川中は顔を歪めたまま、つらそうに微笑んだ。いつものあの冷たげで無邪気な態度は、実は全くの演技で、彼女を守る仮面だったのではないか。そう思わせるほど、その笑みには普段の面影と道化の悲しみが混在していた。
「ずっと、辿ってきたんだよね。部室でいじめられて、米澤に罪を着せて、準備室でカノンを弾いてくれて、今、ここで抱きしめてくれて……。全部、私が仕組んだの。小谷にも、幹緒先輩と同じ場所で同じことを繰り返して、同じ気持ちになって欲しかった。それが、私の渦。……病気みたいな、心の癖」
とろりと濁った瞳に、また血のように鮮やかな幻想が浮かび上がる。俺はこの時、そいつを初めてはっきりと掴むことが出来た。一度掴んだら、もう、逃がすことはない。俺に捕まったそれは悲鳴の代わりに、ひたすら同じ台詞を繰り返す。俺は呼応する。
ああそうだ。悪魔だった。川中は、間違いなく俺たちの悪魔だ。自分も惹きつけられて地獄に落とされる寸前だ。けれど俺は、この悪魔を打ちのめそうと思わない。むしろ、この悪魔に、輪郭がなくなるまで自分の心を、魂を与え続けたいと思う。なぜそう思ったかは分からない。ただ、そうしなければ気が済まないのだった。
「きっと俺も、病気なんだと思う」
自分の声は、死を悟った老人のように乾いていた。川中にもう薄い膜のような仮面はなく、羽織った俺の大きな学生服に、素の、物憂げな女の顔を半分ほど埋めている。
「……だから、小谷はずっと苦しんでくれるの」
「そう」
「そっか……。うれしい」
川中はたどたどしく呟いて、少し恥ずかしそうに俯いた。
ビルを出て、とりあえず学校へ向かった。二人ともほとんど話すことはなかった。時々、互いの横顔を眺めては、静かに思い詰めた吐息をつくだけだった。
美術室にはもう誰もいなかった。机は元の位置に戻っていたけれど、比奈田が施した安っぽい装飾はまだ壁から垂れ下がっていた。仄かに洋菓子の匂いがして、少し前まで部員がいたのだと分かる。
いつもの席に座った。平日でも放課後でもない部室で所定の席につくのは空虚で、なんだかおかしかった。俺は前置きもなく、かつて自分が川中を恐れていた話をし始める。ビニール紐で縛られた時の心境を語ると、川中は嬉しそうにくすくすと笑った。今も怖い? と聞くので、全く恐ろしくないと言えば嘘になる、と答えた。川中は不思議そうに微笑んだ。きっと川中も、俺が大事なことを言い出したくて喋っているのだ、と気づいている。それでも彼女は俺の話に耳を傾けた。優しい眼差しをこちらに向けて……
……急に大きな波が押し寄せる。苦しくなって息を吸うと、もう、次にはその言葉以外を吐き出せなくなっていた。
「好き」
風に触れた花のように、川中の身体がぴくっと揺れた。綻んでいた顔に僅かな翳りが生まれ、やがて彼女は、ちょっと傷ついたようにも見える表情で、そろそろと視線を落としていく。
不安になって、どうしようもなく息切れがして、俺は本当に心細い声で川中、と呼んだ。けれども彼女は俯いたまま、ぴったりと口を噤んでいる。
「川中。俺……川中が望むなら、これからも兄貴の代わりを演じたっていい。けど、俺はもっと川中のこと、大事にする。絶対に」
自分でもびっくりするくらい正直な言葉に、喉が震える。川中は弱ったように、限りなく無防備な目の瞑り方をした。困っているのか、嬉しいのかよく分からない顔つきだった。その手を取ると、彼女も自分と同じくらい汗をかいていた。ゆっくりと瞼が開く。
「だから……俺の恋人に、なって」
きっと、崇めるような目をしていた俺を、川中はどんな気持ちで見ただろう。秒針が進むように一つ一つ、心が戻れないところへ突き動かされている。
「…………うん」
川中はぼうっとしながら応えた。瞳に潤いが増した。握り返してきた手を引いて、彼女を抱き寄せると、さあっと窓の方から冷たい音がした。いつからか、雨が降っていたのだった。
二人で、湿っていく鈍色の町を眺めた。町というにはあまりに平たい、不格好な民家の集まりは、いつまで経っても優しく陰鬱だった。
「……雨、止まないね」
「うん」
「傘も持って来てないのに」
どちらからともなく身体を寄せて、けれど、なぜかどちらも目を合わせられずに、視線を窓の外へ彷徨わせる。本当は目に焼きつけておきたいのに。夏に捨てられてしまった絵のことを思い出す。明日からここはもう部室ではなくて、ただの、学校の美術室だ。
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