第十一話 雨に打たれて

 月曜日、俺と川中は昼休み中に空き教室へ呼び出され、多田から「昨日、ビルに侵入したのは本当か」と聞かれた。黙り込む二人に対して多田は早々に諦め、待ってなさい、と命じて教室からいなくなった。


「小谷……」不安そうに川中が呟いた。俺は横目で彼女を見て、大丈夫だ、と言う風に頷く。


 程なくして現れたのは、合羽だった。美術部の顧問というだけでなく、自分のクラスの副担任でもある彼が多田に代わることは、想像に難くなかった。けれど、実際に合羽と対面してみると、予想以上に緊張が走る。俺はなんてことのないような顔を作って、少しだらしない座り方をする。


「せっかく比奈田が準備してくれたのにな。あいつ、がっかりしてたぞ。気の毒だったよ」


 合羽は心にも思っていなさそうな口調で言った。


「まず、確認だけどな。今朝、ビルの管理会社から連絡が来た。昨日、うちの制服を着た男女二人が、ビルの屋上へ上がったのを目撃したそうだ。男の方は髪が長かったとも言っていた。状況と時間帯から考えて、俺はこの二人がお前らで間違いないと考えている。どうだ、何か、事実と違うところはあるか?」


「……まあ、間違ってないです」


 ぶっきらぼうに言い放つ俺に腹が立ったようで、合羽はわざと威圧的なため息をついた。視線を俺から川中へ移し、まるで俺のことなど相手にしないと言うように、


「拍子抜けしたよ。特に川中は、ずっと真面目に部長をやってきたのにな。最後の最後に、こんな形で周囲の信頼を裏切るとは思わなかった」


「……すみません」


「俺は心配なんだ。こういう時期に魔が差して、成績を下げたり、道を踏み外す生徒も時々いるからな。そのきっかけも様々だ。まあ、特に……」


 蔑むようにこちらを一瞥する。こめかみの辺りに何かがぴりっと来て、睨み返すと、相手に一瞬だけ嗜虐的な反応が見えた気がした。


「俺にはな、お前らの行動の理由を聞く義務があるんだ。だけど、お前らはきっと自分たちの行動の、その根源が何かを上手く説明できないだろう。簡単なのにな。親御さんに伝える前に、言語化しておこう。これはな、川中、小谷。逃避って言うんだ」


 眉根を寄せる俺と、無表情のままの川中を無視して、合羽は普遍的な誰かに向けて語り始める。


「受験でも人間関係でも、乗り越えるべき壁と、適切に向き合えない人間がいる。失敗する奴じゃない、乗り越えようともしない奴のことだ。でもそいつらにその自覚はない。別の、全く必要のないことに夢中になっているからな。そして何かが過剰で、足りない人間になる。思春期というのは、その分かれ道なんだよ」


 目の前の教師という生き物の、自分たちを勝手に独自の基準で分類し、疑いもせず断定する傲慢さに寒気がしてくる。お構いなしに、なおも合羽の説教は続く。


「お前らが大切だと思って行ったことは、この先、なんの役にも立たないぞ。逃げて怠けて得られるものなんて、一つもない」


「……なんも知らねえくせに、よくそんな喋れますね」


「分かるんだよ」合羽は間髪入れず返した。「お前らみたいなのは何人も見てきたからな」


 どこを見ているか分からない、表情のない、張り合うことを忘れた空虚な大人の顔だった。一体誰が怠惰で軽蔑されるべきなのか、目の前の男は自分を疑ったことすらないようだった。


「見てきただけで分かるんですか。それ、先生の想像じゃないっすか? 何も経験してないから逃避だのなんだの、チンケな言葉に代えられるんですよ」


「お前なあ。自分が、そんなに大層なことをしたと思ってんのか」


 呆れたように合羽が笑う。俺の片頬は少しずつ吊り上がる。


「別に。先生みたいなつまんねー男が、馬鹿にするぐらいしか出来ないようなことではあるかもしんないすけど。何事も要る・要らないで判断する自分をかっけぇって思ってて、無気力なのを冷静と勘違いして、その小学生みたいな見た目と顔つきでクソしょぼい仕事に美学を見出してる、絵の下手くそな美術教師が経験できなかったことを、俺は知ってるだけです」


 合羽の目が鋭く光ったかと思えば、俺は強制的に立たせられていた。掴み上げられた学生服が、ぶちっ、と音をたてる。そのまま壁際まで追い込まれ、逆光になった合羽の額にうっすら青筋が立っているのを見て、あ、やっちった、と思った。


 小谷、と凄むその声は、けれど静かだった。


「いいのかお前。この町を出て進学校に行くんだろう? 自分の行動には責任を持てよ。俺だってお前らの幼稚な真似に付き合わされたくはないんだ」


 ぎりっと噛み合わせた歯が鳴る。合羽の腕を掴み返すと、相手の瞳にいっそう憎悪が増して、どす黒い熱気が眉間と眉間との間に生じる。


「何度でも言おう、お前がやっているのは特別でもなんでもない、よくある逃避行動だ。今は分からなくても、後で絶対に気がつく。後悔するのはお前なんだぞ」


「逃げてんのはお前だろ。今まで揉み消したいじめの数を言ってみろ。その自分勝手な言い分で再起不能にした生徒の名前を言ってみろ。昨日の俺が入ったビルで、一年前に何が起きたのか言ってみろ!」


 合羽の顔がふいに曇った。「一年前……?」


 考えを巡らせている。合羽は、本当に、兄が飛び降りた場所を憶えていないようだった。ぞわ、と背筋が粟立った。相手が気を抜いた瞬間に胸元から手を引き剥がし、小柄な体躯を突き飛ばす。


「俺は、お前みたいな大人にはならない」


 呆然とする川中を連れて教室を飛び出した。おい、と怒声が響いたけれど、合羽は追いかけようとしない。廊下のかさついた冷気が、ボタンの飛んで開いた胸元に突き刺さる。

 あんな大人にはならない。人の情動を嗤い、日常の些細な感動から人生を揺るがす決断まで、雨宿りでもするように自分だけ一歩引いたところから見つめる、あの、小狡い目をした大人には。俺は雨ざらしになっていてもいい。


 そう思っていたら、今度は嵐が訪れた。

 あの日から一か月後、俺は階段下で、川中から今週末もデートは出来なさそうだ、と告げられ落胆していた。

 先月のことで双方の親へ連絡が行ってからというもの、川中の母親はすっかり厳しくなり、娘の週末の行動を制限し、学校がある日も、寄り道して帰るのを一切許さなくなった。保護者ではない、女の執念だ、と川中は嘲る。ともかくそんな状態なので、まだ、俺たちは一度も二人で出かけられていない。


「どうしよ、私。母親のこと、殺しちゃいそう」


「まあ、ほとぼりが冷めるまでもう少し待とうぜ。でも……」


 周囲の目があるので、みだりに触れることは出来ない。帰り道でもそうだ。たまに、人気のない路地で手を繋ぐくらいで、あとは付き合う前と何も変わっていないのだった。焦れったい気持ちで川中を見ると、彼女も、同じように俺を見つめ返した。


「俺も結構、我慢してる。限界近いかも」


 絡まる視線に温度を感じ始めた時──何かが滑り落ちる音がした。教科書とバインダーファイルが、開いたり閉じたりしながら次々と階段の上から降ってくる。危険を感じて二人とも下がると、落ちたそれらの後を追うように、大の男がめちゃくちゃな体勢で転がり落ちてきた。

 その背格好を見て、誰もが絶句する。落ちてきたのは合羽だった。手足を変な方向に曲げたまま、床の上で、少しも動かない。やがて踊り場の方から、場違いなほどゆっくりとした足音が聞こえて、俺たちは現れた一人の生徒を見上げる。


 米澤だ。窓の淡い光を背に受けて、彼の顔は微笑んでいるようにも見えた。おぼつかない足取りで一段、一段降りながら、静かになった合羽を穏やかに見下ろし、…………

 サッカーボールでも蹴るように、横たわる男の頭へ蹴りを入れた。女子の甲高い悲鳴が一斉にあがる。合羽の顔の辺りから、どばっ、と血が吹き出て、血溜まりとなっては床に伸びる。廊下はいつしか騒がしくなり、野次馬が出来上がっていた。喧騒の中、必死に呼ぶ声がする。「米澤が」「米澤が」に混じって、一人だけ違う呼び方をする女の声が。


「健!」


 人だかりを抜けて、真っ直ぐ米澤の方へ向かった女、……一瞬、誰だか分からないほど大人っぽくなっていた……道原は、米澤へ飛びつくと、細い身体で荒ぶる米澤を必死に押さえ込もうとした。


「もういいよ、健。健は悪くないよ。私だけは信じてるから。世界中の人間が敵になっても、私は、健の味方でいるから!」


 自暴自棄になった男と、男の背中にしがみつく女の姿は、初冬の冷たい廊下で妙に劇的なものに映った。道原の芝居じみた台詞がそう感じさせたのかもしれない。数人の教師が遅れてやって来て、米澤を両脇から抱えて連れて行く。青白い横顔には、静かな安堵の色が滲んでいた。



 暗闇の中に、仄青い自分の顔がぼんやりと浮かび上がる。棚の置き鏡が写しだす透き通った顔は、時々、自分でもぞくっとするほど幽霊、さらに言えば昔話の妖女めいて、ここではそれが一種の呪いのように感じられた。

 電子ピアノの光を頼りに、一つ一つこの場所にあるものを眺めた。ベッドも、机も、本棚で傾く漫画本も、本当に存在しているのか疑わしい頼りなさで、暗闇に慣れてきた瞳に映った。部屋の主の匂いがしないことはなかったけれど、これも、もはや過去から来た幻に近い。


 兄の部屋で、兄が焦がれた女を想いながら、兄が弾いたのと同じ曲を弾いている。同じ旋律は別の地点から始まって、後の方が先の音を追いかけ続ける。俺は川中の渦で輪唱する。兄の姿が、解像度の下がるように少しずつ形を失い、代わりに、川中の瑞々しい魂の切れ端が記憶の部屋へ詰め込まれていく。ここはもう、兄の部屋ではなかった。

 再び鏡を見た時、いつの間にか、あの幻想が自分の瞳に取り憑いていたことに気づく。


 夜が開けると、すぐに川中へ電話した。十二月も半ばになり、外では既にちらちら雪が降りだしていた。外出を禁じられたのなら、隙を見て抜け出せばいい、と川中は言うけれど、彼女の母親はいつも目ざとく先回りしてその機会を潰してきた。


『ごめん、今日も難しいかも。夕方の四時になったらあの人も出ていくはずだから、その時まで待って。今日のあの人、すごくヒステリック』


 不穏な余韻を残して通話は切れる。乱れる心を落ち着かせて、きちんと着る服を選んで、それからはただ机に向かって時間が過ぎるのを待った。苛立ちにも痛みにも似た感情が、次から次へと押し寄せる。午後三時を過ぎると風が強くなって、雲の厚みもだいぶ増してきた。

 いつものように髪を結ぼうとして、なんとなく今日はやめる。グレーのマフラーに長く伸びた髪をしまい込むと、耳の辺りにすぐ熱が篭った。



「来られそう?」壁に寄りかかったまま、電話の向こうの川中に聞く。物音がしただけで、緊迫した状況にいるのが分かったのはなぜだろう。川中は慌ただしそうに、


『駄目なの、こっちが準備してるのに気づいてから、急に叩いたりしてきて……すっかりおかしくなってる。多分、外に出られても連れ戻しに来ると思う』


「分かった」


 俺は壁から身を離し、振り返った先に向けて少し悪い声を出す。


「じゃあ、靴と上着持って部屋の窓、開けてみ」


 静寂の後に、壁に取りつけられた窓の向こうでどたばたと騒ぐ音がした。一度、どん、と地響きがして、レースのカーテンが激しく揺れだす。

 勢いよく開けられた窓から、ぶわっと髪を靡かせて川中が顔を出した。大きく開いた目をそのうち切なげに細めて、小谷……、しっとりと、俺の名前を呼ぶ。


「どうして」


「攫いに来た!」


 さも悪役のような顔でにやりと笑う俺に、川中は迷うことなく身体を預ける。彼女を抱きとめて靴を履かせ、アパートの敷地を出ようとした時、「花南!」怒りに満ちた声に呼び止められた。振り返ると、窓辺では歳をとっているけれど華やかな見た目をした女の人が、元は端整であろう顔を歪めてこちらを睨みつけていた。

 俺はちょっと悪戯心が芽生えて、その人へ挑発するように微笑んでみせた。すると、般若の形相だった彼女の態度が、あっ、とこわばり、たちまち狐に化かされた時の顔つきになる。


 二人は町を抜け、同じ暗闇を目指す。バスに乗り込んだら、もう、自分たちを邪魔するものは何もない。

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