第十二話 裁き

 翳りゆく町を抜け、バスは俺たちを隔絶された場所へ連れて行く。薄暗い車内で止まりますボタンだけが火花のように赤く輝いている。祈る気持ちを半分ずつ分け合うように、二人は固く、互い違いに指を絡ませた。俺の節くれだつ白い指の間で、川中の華奢な爪が、うっすら塗られたマニキュアできらきら輝いていた。頬には、これに気づいた母親に平手打ちされたであろう痕。

 胸がぎゅうっと締めつけられる。彼女を連れ去り、所有しようとした責任を感じて眉を寄せていると、不機嫌と捉えたのか、川中が不安そうに俺を覗き込んだ。俺は年少の子供を安心させるように、今日は少しだけ内側に巻いている栗毛色の髪へ、そっと自分の額を寄せる。次は終点、終点──たとえどこに辿り着けなくとも、目的地はもう自分たちの中にある気がしてくる。


 入館の受付が終了する直前で、水族館へ滑り込んだ。二人でいられる場所ならどこでもよかったけれど、陽は瞬く間に落ちて、しかも外は風が酷く冷たくてとても落ち着かなかった。冬の、閉館間際の館内はどこも空いていて、展示された生き物たちの虚しく泳ぐ姿だけがある。形を保たず揺れる水の影を、二人の足が静かに踏みしめる。やがて、どちらもイルカの水槽の前で立ち止まった。あの揺蕩う灰色の巨体が、こちらに興味を示したように奥からやって来る。


「夏休みだったね。小谷とここでイルカを見たの」


「うん……」


「これ、バンドウイルカじゃないんだよね。バンドウイルカはもっと鼻がしゅっとしてて、…………」


 両手で、しゅ、という仕草をする川中が愛おしくて、笑みが零れてしまう。あの時の苛立ちや、もどかしさや、罪悪感が遥か遠くからさあっとやって来て、白い波と共に過ぎ去った。


「見に行く? バンドウイルカ」


 川中はゆっくり首を横に振る。


「ううん、いい。私、あの時にきっと見ていたの。違う種類のイルカを見ながら、小谷が教えてくれた想像上のイルカを。だから、本物なんて分からなくていい」


 とろりと何かが溶けだすのを感じた。それは磯の香りと混じり合いながら、均一だった青色を、時に薄く、時に濃く変幻させ、けれどその青さだけは損なわずに保ち続ける。


「ここで、初めて部長って呼んだな」


「そうだね。嬉しかった。あの時は、部長って肩書きが何より大事だったから」


 いつしか、清潔な青は、さらに清らかな白に溶け込んで、春の空のように霞みだした。そうすると、白はもう完全な白でなくなってしまう。


「でもね、不思議だけどね、そんな大事なことすらどうでもいいと思っちゃうの。なんにもない、今の私だけがいればいいって思う。ねえ。どうして、かな」


 川中の顔は確かに、ただ一瞬を危うげに生きる人間の顔だった。彼女が俺に何を聞いている訳でもないのが分かった。どうして、という拙い嘆息から、大人でも子供でもない、もう一つの顔をした生き物の奥底を感じた。

 俺は手を伸ばす。もこもこしたダッフルコートに対して、あまりに滑らかな、小さい顎先に触れる。その肌は白く冷たげなのに、実際は燃えるように熱かった。俺のなすがままに、瞼が、緩やかな動きで閉じられる。


 今だけがあればいい。唇に仮初の熱が移った時、切に願った。ここに閉じ込めて欲しい、イルカや海月や小魚の群れと共に、瞬間というものを……二人は一度離れて、まだ惜しがった。けれど、館内にはもう、閉館を知らせるアナウンスが流れている。


 並木の電飾が輝きだす頃、俺たちは手を繋いで銀色の街を彷徨っていた。肩を寄せて歩くと川中は普段より小さくなって、前髪ときっかり分けて耳にかけた後ろ髪の流れがよく見えた。


「ねえ小谷、背伸びた?」


「え、分かんない。春に測った時は百七十二センチだったけど」


「今、絶対にそれ以上あるよ。普通の大人と変わらないもん」


 こうした会話が、行き詰まった今では最後の蝋燭のように手放しがたく、あたたかく感じられた。カフェに寄り、本屋に寄り、雑貨屋に寄り、それでもう、留まる場所がなくなると、最後は遊具も何もない広い公園に行き着いた。時刻は八時を過ぎて、花弁のような雪がはらはらと降り始める。

 急に強い風が吹いて、マフラーにしまっていた長い髪がひと房、ふた房、夜風にさらされた。遠くの街灯に照らされただけの二人の顔は、きっとどちらからも曖昧に映っているだろう。


「こうして見ると、雪女みたいだね」


 川中はそんな冗談を、うっとりしながら言う。俺と川中は水族館を出てから、こんな話しかしていなかったのだった。つとめて明るく過ごし、時間を延ばしてきたつもりだけれど、最終的にそれがとてつもない悲愴となって自分たちへ襲いかかった。公園に天と地の境目はない。濃紺が広がるだけだ。

 俺は吸い込むようにして口を開いた。声となるのが、随分と遅かった。


「……もし、兄貴が目覚めたら……」


 喉が締まって、上手く制御できなくなる。


「犯した罪を、どうやって償おう。目覚めた時に何もかも失っていた兄貴に、何を言うことが…………」


 どんなに見つめても、川中の顔はぼんやりしていた。川中はにわかに生気を失って、色味のない顔で互いが見えないくらいまで近づくと、死に場所を見つけた時のように、くたっと俺の胸に頭を預けた。


「そうだね。それじゃあ、殺しちゃわない?」


 目も合わせず、俯いたままこちらの喉元を、さらに頬を探り当てて、不気味な仕草で撫でさする。


「でも、なんて言わないで。そんな情けないこと。私、小谷のことが好き。幹緒先輩の真似をしてくれる小谷じゃなくて、今の小谷が好きなの。明日には元の私たちに戻っちゃうなんて、考えたくないよ」


 体勢を変えて、一度この胸に顔を深く埋めて、ようやく川中は俺を見上げた。さっきまでの薄ぼけた顔が嘘のように、肌は月より白く、唇は血の色が冴え冴えとしている。粒の大きい雪が眼鏡の内側へ入っては、睫毛を濃く濡らしていく。雪は彼女の頭を、ヴェールのように絶え間なく滑り落ちる。


「あの人を殺そう、小谷。自由になろうよ」


 目眩のせいか暗くなった視界で、毒々しくも艶やかな姿に殴りつけられ、少し首筋が震えた。積み重ねてきた行動の極限に今があるなら、この時この場所において、彼女の提案は終着点に違いない。これは自分たちの世界を破壊し、作り直すことと一緒だ。今は雪で白んだ景色がぼうっと広がっているだけだけれど、夜が明けたら空は刃のように硬く澄んで、俺たちに選択を迫ることだろう。

 もしその時まで、二人がいられたのなら……


 その時、川中の身体から小さな振動を感じた。くぐもった音楽が続いて、彼女はそっとポケットへ手を伸ばす。


「母親だ……」


 恨みがましく握りしめられた携帯電話は、安っぽい打ち込みの電子音で──いつまでも、カノンを奏でていた。

 ふいに届いた過去からの呼び声に、俺はふらっと脱力する。そのまま身を屈めて、雪の上に膝をついて、くつくつと笑い始めた。それだけでは足りなくなって、今度は腹を抱え、地面に伏せるくらい低い体勢で、自分でも呆れるほど笑い続けた。

 犠牲者の名前でも石に刻むように、次々と浮かぶ顔を回顧する。


 道原一夏。いじめられ、無実の罪を着せられた幼なじみのため、痴態を晒してまで得たものは、幼なじみの深い憎悪だけだった。それでもまだ一心に彼を想い続けている。

 米澤健。小心者で、人をいじめ、いじめられ、いじめの主犯格にされて、またいじめられた。そして自分を二度も犯人扱いした教師へ復讐し、闇へと消えていった。

 合羽一登。事なかれ主義からいじめを隠蔽し、面倒事を避けるために事実も他人の人生も平気で歪め、狡猾に立ち回ってきた。その代償は重たいギプスとなって、今も彼の腕をきつく縛っている。


 川中花南。それからこれは、自分の顔だ。道原を陥れ、米澤を罪人にし、彼に合羽へ暴行する決意を与えた。そして今は大切だった想い人を、家族を、自分たちのために殺してしまおうなどと考える。


 そのうち頭の血管でも切れるんじゃないか、と心配になる。ひとしきり笑って顔を上げると、降り積もった雪と共に、マフラーから抜けた全ての髪が空へ高く舞い上がった。ここはもうどこでもない。この世の果てですらない。なんにも、見当たらない。そこに俺と川中だけがいる。ただ在る。

 俺は半ば狂ったように叫びだした。


「裁けるもんなら、裁いてみろ」


 遠吠えのようにリフレインするはずの声は、この無限の場所では少しも反響しなかった。頭の後ろを自分の声に殴られた気分で、なおも繰り返す。裁けるものなら裁いてみろ。誰が加害者で被害者だ。何が罪で、悪なんだ。みんな放埓の地帯に解き放たれて、罪状を一つ一つ読み上げる暇もなく他者と傷つけ合っている。この状況を、一体、誰が正確に物語ることが出来るんだ?


 カノンは何度か川中のポケットで彼女を呼んだけれど、ある時から諦めたようにぱったりと鳴らなくなった。寒空の下、夜を明かすことはどうしても叶わなくて、二人はバスターミナルへ向かった。これからは九時台の最終便が一本、こちらに来て町へ戻るだけだ。年季の入った待合室で、プラスチックの椅子についた細かい傷を、蛍光灯がやんわりと照らしている。客はもう、隅の方で眠る生活の分からない爺さんしかいない。自動販売機がやたらと眩しく見える。


 二人は椅子に腰掛けたものの、まだ帰る気にはならなかった。あと二十分もすればバスが来て、あの暗く平べったい町で親に怒られるか呆れられるかして、日常に戻っていく、とはとても考えられない。極地よりも遠い世界の話だ。隣に視線をやると、川中も同じようなことを考えていたのか、その瞳はどんよりと曇っていた。瞬くごとに瞼の影が濃くなって、暗闇は少しずつ濡れていく。

 指の背で、頬を下から撫で上げる。眼鏡のつるを辿って、少し乱れた髪の束を耳にかけなおしてやる。川中はじっとして俺に触れられていた。みるみるうちに頬が赤らんで、物憂げな目をしたまま、足りない、とでも言うようにこちらを見上げてくる。

 顔を傾けて、軽く唇に触れても、全く物足りなかった。もう一度、今度は形が分かるくらい丁寧に、それでも満足しない。俺はもっともっと確信が欲しくて、角度を変えて何度も相手の輪郭を探ったけれど、探れば探るほど、なすればなするほど、合わせ鏡のようにそれは遠ざかっていく。


 ただ欲しい、今手に入れられるものならなんでも欲しい、俺は常識も節度も知らない野蛮人に成り下がった。川中がいつまでも受け入れてくれるので、自分は渇いたまま与え続ける。目の前の唇は今までと違う光り方をして、赤い表面が生々しく糸を引いた。時々、苦しそうな声が聞こえる。吐息まで震えだしたのが気になって、目線を上げると、川中はいつの間にかぐずぐずになって泣いていた。


「……どうしたの」


「あ……明日が来るのが……嫌で……」


 涙が、下がり気味の眼鏡に溜まってぽろっと落ちる。真近で見られるのを恥ずかしがり、背けようとする川中の顔を掴んで、やや強引に顎を伝う涙を唇で拾った。ひゃっ、と小さな声があがる。そのまま涙の跡を遡っていけば、やがて熱い瞼に辿り着く。けれどその前に鼻に引っかかるものがあった。俺の鼻先で、川中の眼鏡はくいっと持ち上げられた。

 涙は塩辛くなくて、ほとんど水のようだった。ごくっと喉を鳴らした時、少しだけ、川中が笑ったような気がする。こちらがあんまりしつこいからだろうか。


「明日になったって、何も変わんねーよ」


 からっとした口調で川中をなだめた。けれど、これは、本当は相手よりも自身に言い聞かせるための言葉だった。未来のことなんて数秒先すら分からない。きっと自分が一番、過ぎていく時間に怯えている。


「だってさ、こんな気持ちでいたのを、いつか忘れられると思う?」


「……ううん」


「な。もう戻りたくても戻れないだろ。俺、変わんないからさ。お前のことずっと好きだし、これからもっと好きになってくだろうから」


 そうした中で、怯えながらも彼女と生き延びる覚悟が、自分には出来ているはずだった。どうにかして、どんな手段をとってでも、川中に隣にいてもらう……定刻にバスが来て、永遠ではなく、特別でもない夜に帰されたところで、不可能になる話ではない。きっと大丈夫だ。俺はさっきまでの絶望が不思議に感じられるほど、冷静になっていた。


 闇の中で一際輝く車体が窓の外に見えて、俺たちは立ち上がった。バスターミナルを出ると外は凍てつく寒さで、思わず川中の手をぎゅっと握りしめた。川中は悲しげに微笑む。アナウンスと共に、俺たちの住む地域を示したバスの扉がゆっくりと開く。ポケットが震えて、俺は何度目かである家族からの着信を拒否するため、空いた手で携帯電話を取り出した。


「どうしたの?」


 バスに乗りかけた川中が振り向いて首を傾げる。俺は画面に表示された名前を何度も読み返した。何度読み返しても、そこには現れるはずのない名前があった。携帯電話は手のひらで震え続ける。やがてその振動のほとんどが、自分の身体から伝わっていることに気がついた。


「兄貴…………」

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回演 崎川忍 @sonyatsukimi

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