第二話 繰り返しの始まり

 一年前の、宿泊研修の時だった。研修を終えた生徒たちが広場で遊んでいる中、一人スケッチブックに絵を描いている川中を見つけた。別のクラスで話したこともなかったけれど、その時の俺はたまたま彼女と会話するための話題をいくつか思いついて、いたずらに披露してみたくなった。

 周囲に仲の良いクラスメイトがいないのを確認してから、俺はそっと川中に近づいてスケッチブックを覗き込んだ。


「うまいね」


 川中は驚きもせず、ゆっくり顔を上げた。下がり気味の眼鏡のレンズが緑色に反射していて、目の形が曖昧に見える。


「俺の名前、分かる?」


「小谷くん」


「正解! 川中さんってさ、美術部だろ?」


 こくん、と川中は頷いた。「なんで知ってるの」


「文化祭で、展示してたじゃん。それに……小谷幹緒ってオタク、そっちで部長してない?」


 その瞬間、川中の顔が真っ赤に染まって、スケッチブックがぎゅっと抱きしめられた。あれれ、と思い、俺の口調はだんだん乱暴になる。


「俺、弟なんだけど。兄貴、たまに川中さんの話してたぜ。まああの人ネクラであんまり友達いないから、仲良くしてやって?」


「う、ん……」


 顔を紅潮させて狼狽える横顔はあどけなく、まるで入学したばかりの一年生のようだった。同じ学年というだけで、こんな、子供じみた女と対等に喋ることが出来る状況に、快さを伴う擽ったい感覚を覚える。

 けれども、それで終わりではなかった。川中はこちらを眩しそうな目で見た。今度こそ、レンズ越しにはっきりと吊った目尻の形を捉えた。


「似てるね」と、川中が言ったのはそれだけだった。


 俺は最近になって兄を意識し始めたことをその一言で見破られた気がして、急に目の前の女子が怖くなった。耳の高さで一つに結ぶ自分の長髪すら、知らずうちに行っていた模倣に思えてきて恥ずかしくなった。


 その年は、川中とはそれきりだった。

 秋が深まり、兄の幹緒は日に日にやつれていった。そしてある日曜の日、ふらっとどこかへ消えたと思ったら、寂れたビルの屋上に靴を残していた。遺書はなかった。学校に問題が起きた形跡も残されていなかった。ただ、その前夜に兄が発した一人の名前と、それを形容する言葉が秋の夜を綴じ、俺の不明瞭な道を微かに照らしだした。


『川中花南。彼女は、悪魔だ』


 兄は一命を取り留めたけれど、半年以上経った今も目を覚まさない。清潔な死の匂いがする白い病室で夢を見続けている。



 修学旅行に二日の休みがついても、心理的な倦怠感はまだ残っていた。顔を水だけで洗って薄汚い鏡を覗き込む。二重瞼が一時的に三重になっている。眉根を寄せてきりっとした顔を作ると、なるほど、百田に次ぐ美男子だ。顎まで伸ばした前髪を右に寄せて、後ろ髪を全て左耳の後ろへ持っていく。ヘアゴムを通った髪は、鎖骨の上でゆるやかなカーブを描く。


「それ、誰かの真似なの」


 食パンを焼いていた母が、洗面所から出てきた俺に問いかける。俺はテーブルのサラダからトマトを引っこ抜いて「別に?」と頬張る。朝早く出て行った父の昨日の服が床に落ちていて、きたねー、と思った。


「俺は誰の真似もしねーし」


 受け取ったパンを咥え、スクールバッグをリュックのように背負う。塗ったばかりのマーガリンの塊が溶けて色を失っていく。


「南々緒! あんた、上は? ほら学ラン!」


「今日から夏服でいいの!」


 靴紐を結んで玄関を飛び出す。一年前に撮った家族写真では、髪を伸ばした兄と俺がいつまでもぎこちなく微笑んでいる。



 部活は相変わらず退屈だった。男子部員の話はゲームかアニメでくだらないし、女子部員の話はBLと運動部の悪口でつまらない。最近起きた変化といえば、道原が親しげに話しかけてくるようになったことくらいだ。


「また寝てる」


 アニメソングの間奏で不自然な声がして、イヤホンを外す。俺の机に両手をつき、体重をかけたり、戻したりしている。真ん中できっかり分けた黒髪に、彫りが深く大人びた顔立ち。道原は俺をひとしきり眺めた後、音楽プレーヤーに表示された曲名を読み取ろうと、顔を傾けてこちら側へ身を寄せてきた。


「残念ながら、知らない曲だなあ」


「だろうな。俺も知らねえし」


 音楽を止めると、途端に相手の存在が近く感じられる。ふいに視線が交わった。道原の瞳は大きくて、時々どこを見ているのか不安になる。


「小谷が入れた曲じゃないの?」


「これ、兄貴のだから」


 瞳孔が急に広がり、少しずつ虹彩に吸収されていく。

 目の前の椅子を引いて逆向きに座り、道原は顔を曇らせながら背もたれを抱きしめた。粗暴なのか、却って女らしいのか分からないこの態度には、他の女子とは違うどこか不埒な雰囲気がある。


「小谷はさ、どうして美術部に入ったの? 本当に絵を描きたいから?」


「まあ……」


 勝手に俺の枕代わりにしていたクロッキー帳をぱらぱら捲り、そのほとんどが白紙であることを再確認させてくる。


「花南がどうやって部長になったか知ってる? っていうか、うちの部長を決めるシステムって説明したっけ」


「え、いや、されてない」


「次期部長を決める権限があるのって、基本的に現在の部長なんだよ」


 二人とも顔を顰める。この場合、彼女の言葉が何を意味するのか理解するよりも、どの程度まで理解することを要求されているのかおしはかる方が、難しい。


「私ね、悔しい」道原は空白を見つめながら寂しげな声で零した。「幹緒先輩を、友達をあんな風にした花南に、なんにも出来ない自分が……」


「一夏ぁ」


 遠くの席から彼女の友人が呼ぶ。なによ、と不快感を露わにする道原に対し、友人はあっけらかんとして「その体勢、パンツ見えね?」と続ける。

 無邪気な周囲の笑い声。その中心にはやっぱり、みんなの部長がいる。嗜虐的な顔つき。道原は顔を真っ赤にし、友人ではなく、友人を仕向けた川中の方を鋭く睨みつけた。


 部室ではからかわれるので、部員の目を盗んで空き教室へと場所を変えた。木材と、去年の文化祭で見た壁画と、世界の芸術家シリーズみたいな本が乱雑に積み重ねられている。やる気のない美術部と違い、グラウンドの運動部は暗くなっても練習を続けていた。

 彼らに背を向けて、道原は語り始める。時々言葉を詰まらせながら。


「花南はね、悪戯をしたの。去年、男子の先輩たちがアニメーション作品を作ったんだけど、その音声が、その……先輩たちの聞かれたくない会話に差し替えられてて、誰がそんなことをしたのか、犯人探しになった。でも、結局証拠になるものは見つからなくて……」


 道原の唇が一瞬震えて、少し間が空いた。


「た」


 それだけ発音してから、慌てて「米澤」とたどたどしく言い直す。


「米澤、いるでしょ。二組に。彼も美術部だったんだけど。結局、米澤のせいってことにされて、三年生は米澤をいじめ始めたの。ひどかった、思い出したくもないぐらい……。でも私は分かってた、あいつはそんなことしてないって。合羽先生にも相談したけど、先生は見ないふりをした。そしてとうとうあいつは部活を辞めて、三年生も引退した」


「…………」


「幹緒先輩は、花南とすごく仲が良かったよ。何をする時も一緒だった。だから安心して部長を任せられたんだと思う。でも、私はずっと花南が犯人じゃないかって考えてた。それであの子の鞄を調べたら、出てきたの、ボイスレコーダーが……。私は幹緒先輩にそのことを言ってしまった。先輩はそれから追い詰められたようになって、それで……」


 道原の瞳に青い大きな光が宿り、目尻の方へと転がった。「ごめん」の声は彼女の袖で篭る。それでも道原は謝り続ける。


「本当にごめん。私が、幹緒先輩を悩ませた原因の一つかもしれない。先輩は信頼してた花南の行動にショックを受けたのかな。いじめのきっかけを作った子を部長にしちゃったことに、責任を感じてたのかな……」


 震える肩にそっと触れる。道原は嫌がらず、自分からこの胸に頭を預けた。そのまま道原を抱き寄せる。呼吸が浅くなる、暗い教室で、その暗さよりもずっと深い憎しみに触れて、二人でその重みを味わう。


「俺が美術部に入った理由」


 グラウンドはいつしか静けさに満ちていた。そこに元気な運動部員の姿はない。目に映るのは藍色の闇。


「道原の考えた通りだよ。兄貴がどうして自殺なんかしようと思ったのか、その原因をこの目で見て、叩き潰すためだったんだ」


 しばらく互いに押し寄せる感情に浸っていた。胸の中で道原が「復讐したくない?」と問う。淀んだ瞳をゆらりとこちらに向けて、


「復讐しようよ。花南がしてきたこと、全部やり返してやろうよ。私一人では無理でも、二人でなら、できるよ」


 俺たちは約束する。あの女から何もかも奪う。地位も、尊厳も、人生のささやかな幸せさえ、あの女に与えられたものは全て蹂躙する。川中花南。あいつの薄気味悪い笑みなんかぐちゃぐちゃにして、もう、二度と人前に出られないようにしてやる。

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