第三話 汚い

 教室はワイシャツの白が増えて軽やかになっていくけれど、空は連日重たい雲に覆われてどんよりしていた。教室の端から端へ、長方形の何かが投げられては誰かの机に置かれ、また投げられる。

 川中の筆箱だった。それを机に置かれそうになると、男子生徒は「やめろよ」と急いで他の奴のところへ押しつける。汚いものに触れたように手をぱんぱんと払う。筆箱は教室を何周もして、十分休みが終わる頃には米澤の手に渡っていた。

 ゴミ箱へ狙いを定める米澤に、俺が茶々を入れる。


「その位置だと絶対入るだろ。もうちょい離れて、燃えないゴミの方を狙えば?」


 その方が面白いと感じた生徒に促され、米澤は三、四歩下がる。燃えるゴミ用のゴミ箱より一回り小さいその箱へ、一度、二度腕を振り、三度目でぱっと手を離す。

 シュート!

 けれど、筆箱が入ったのは燃えるゴミの方だった。惜しいなー、という声を受けて米澤は席についた。授業開始のチャイムが鳴っても、遅刻癖のある社会科の教師はまだ来ない。もうみんな自分の席で教科書を揃えているのに、川中一人だけが教卓の側でゴミ箱を漁っている。惨めな後ろ姿に失笑していると、ようやく教師がやって来た。

 何やってんだ、と川中を責める教師も、その手に筆箱が握られているのを見ると、それ以上は何も言えない。筆箱には払っても鉛筆の削りカスや消しゴムのカスがくっついていて、それを見た生徒が小さく「きったねー」と蔑んだ。


 放課後になると、いつも川中はぴゃっとクラスメイトの間をくぐり抜けて、部室へ急ぐ。けれど今日はそうではなかった。掃除当番だったのだ。

 よりによってトイレ掃除の週だった。同じ班の俺は米澤とめんどくせー、なんて喋りながら、柄つきのたわしで便器を磨く。米澤の手が一瞬、止まった。何かを迷って、再び手を動かし始めた。


「小谷、美術部なんだろ」


 米澤の言葉にどきりとして、俺の手も止まりそうになった。緊張を隠して「うん。それが?」と聞き返す。


「……美術部ってさ、いい奴もいるけど……今の部長、カスじゃね?」


 米澤と目が合った。きっちり斜めに分けた前髪に、神経質そうな青白い顔。四角くて分厚い眼鏡。その姿で、上級生から殴られたり、ゆすられたりするところを想像する。逃げ場のないあの美術室で、確かに行われていたこと。こいつが一番の被害者なのだ、あの女の。


「だよな、米澤」俺は手袋を外して米澤の肩に手を置く。「あいつ、マジで人間の屑だよな!」


「そ、そうだよな!」


「俺、この二か月ちょっとでよく分かったわ!」


 二人はしばらく高揚して女を口汚く罵った。騒いでいると、男子トイレの扉をノックされる。その先には川中がいた。


「あの……洗剤ある?」


 川中は俺たちの顔を見て少し怯えた。部活ではあんなに凶暴なくせに、美術室から一歩でも出たら小動物よりも弱っちい女。


「今日、私一人しかいなくて、洗剤の場所が分からなくて……」


 俺は男子トイレを出て、困惑する川中を無視しつつ女子トイレの扉を開けた。ピンクのタイル張りの、小便器がない代わりに個室の多い小綺麗な空間だった。そこらに散らかるバケツやブラシ、黒いビニール袋が真面目に掃除をしていた痕跡として残されている。


「川中ぁ」俺はすっかりトイレに入る。「お前が洗剤で洗ったって意味ないだろ」


「えっ?」


「お前自身が泥みたいな存在なんだし」


 後ろからおそるおそる覗いていた米澤を引っ張る。その足が、まるで禁忌とされた場所の境界線を超えるように女子トイレの床を踏んだ。閉じ込められた川中は後ずさりし、両手に小さな握り拳をつくっている。俺はそれを鼻で笑う。


「お前みたいなきたねえ奴に洗剤なんていらねえよ。その前に洗い流す必要があるだろ。なあ米澤?」


 米澤は顔を引き攣らせて「あ、ああ」と答える。床には汚水を溜めたバケツが置いてある。米澤の目が泳ぎだすのに、俺は決して彼から目をそらさない。


「流してやれよ」バケツを、目の前にかざす。


「…………」


「許せねえだろ? こいつのこと」


 棒立ちの米澤に無理やりバケツを持たせ、逃げられないよう後ろから身体を支える。そして耳元で囁いてやる、目を見開く川中を一緒に眺めながら。


「お前の話、少し聞いたよ。大人しい顔して残忍な真似をするよなあ、こいつも。筆箱捨てるぐらいじゃ割に合わねえって。もっと酷いことしろ。もっと、一生忘れられないぐらいの傷をつけてやれ」


 は、は、と米澤の呼吸が細かく切れる。バケツの縁を握る手が震えている。川中にはもう後ろがない。ほら、はやく、急かせば急かすほど触れている背中の動きが激しくなる。

 ……米澤は俯く。無力感に打ちのめされた瞳が暗く濁りだした。ああ、こいつは駄目なんだ、憎しみを行動に変える度胸もない小心者なんだ、そう思うと苛立ちは一気にこめかみの方へ上ってきて、俺は一つ舌打ちする。


 空っぽになったバケツを投げ、「つまんねーな」と吐き捨てる。

 川中の青いベストが濃紺に染まる。同じ色のスカートから恨みがましく茶色い水滴が垂れ、膝下へと流れ落ちていった。


「行くぞ」


 何も出来なかった米澤を連れて女子トイレを出る。多田に「川中さんがバケツをひっくり返しました」と報告すれば、あとはもう何もする必要はなかった。



「どうしたのお、それ」


 道原がジャージ姿で現れた川中に驚く。川中は教室で俺に何をされていても、部活にそれを一切持ち込まない。今日もにこりと笑って「掃除の時に汚れちゃって」と困ったように首を傾けた。

 部室では夏休みの計画が立てられていた。週に三日ぐらいがいいよね、午前中だけでよくない? この日は大掃除だよ。次々決められていくスケジュール。部員の提案を書き連ねる川中のノートに男の影が落ちる。

 顧問の合羽。そこら辺の中学生と変わらない適当な切り方をした髪に、黒縁眼鏡の男。中肉中背。各クラスに一人は「いじられ役」を作って笑いをとる授業のスタイル。似た見た目の先生がもう一人いるので、たまに間違えられている。


「合羽先生、今年の見学会も十日前後でいいですよね?」わくわくしながら川中が聞く。


「いいんじゃない? けど、今年はアニメショップに寄り道したりするのは禁止な」


 道原の友人がえーっ! と絶望する。何の話か理解していない俺に道原が説明してくれる。


「毎年ね、三年生は水族館に見学会をしに行くの。そこで描いたスケッチを元に、グループで作品を作るんだよ」


「あー、なるほどね」


「楽しみだねえ、小谷」


 部員たちが俺と道原を盗み見る。川中だけでなく顧問の合羽にまでひけらかすこの甘い態度は、道原が宣言した「復讐」のうちに入っているのだろうか?

 あれから彼女は、恋愛漫画に出てくるヒロインのように変化した。俺のイヤホンを片方だけ借りて同じ曲を聴きたがるし、夏休みにはお弁当を作ってあげるから昼食は持ってこなくていいと言う。そして、川中の視線を感じる度に「どうしたの、花南?」と優越感を持った目で聞くようになった。

 川中が俺をどう思っているかはどうでもよく、ただ川中が自分に嫉妬しているように見える状況を作るのが、彼女には何より愉しいらしかった。



 空は曇りがちのまま、七月も中旬に差し掛かろうとしていた。雲の隙間から光が見えたかと思えば、それはグラウンドを照らすこともなく消えてしまう。

 昼休み。俺と道原は校舎を出て、外の水飲み場の近くで他愛ない会話をしていた。腕を組んで壁に寄りかかる俺に対し、道原は両手を後ろに回してもじもじしている。


「ねえ、付き合ってること、花南たちに言っちゃわない?」


 急に言い出されると、却って冷静になる。俺は「いいけど」とわざときょとんとした顔で返した。


「その方が、過ごしやすいでしょ。堂々としていられるし……」


 もう充分堂々としているだろ、という言葉は飲み込んだ。道原は大きな瞳で俺を見上げ、さも困った乙女のような表情で、ひそりと囁く。

 …………俺は聞き返した。「何度も言わせないで」と怒られた。道原は不安に満ちた声で、もう一度、


「……キス、してくれないの?」


 緩んだ蛇口からぽた、ぽた、と水の垂れる音が、今さらうるさく感じられた。今すぐ応えるべきだと分かっているのに、まだ自分の意思がついて来ない。

 なにぼけーっとしてるのよ。あんた、よく分かってないの? 人を好きになるってことが。恋が。これが恋だってことが!

 まだ何にも言っていない。互いに変な間が空いたのを、必死に埋めようとしている。けれど、俺の頭は既に道原の聞いたこともない声に支配される。

 恋。恋。淡い幻想と、差し迫る現実。これが、恋……!


 視界の隅で何かが放物線を描く。それは何の脈絡もなくグラウンドの方向へ投げられ、土と芝生の境目でころんと転がった。

 靴だった。道原も俺も一体どうしてそんなものが投げられたのか分からなかったけれど、俺ははっとして靴が飛んできた方向を素早く振り向いた。すぐ近くの、自分が過ごしている三年二組の教室から「おーい、あいつ、取りに行ったぞ」と声があがる。窓から顔を出した数名のクラスメイトと目が合う。道原と向かい合い、今にも彼女を抱きしめそうな距離にいる俺に、男子が「あっ」と気まずそうな声を漏らした。

 遅れて、米澤が顔を出した。たちまちその目は見開かれ、奈落に沈む瞬間のような、絶望と怒りを混じえた表情になった。


「た」


 すぐ横で道原が一音だけ発する。気がつくと、彼女も米澤と同じような表情で相手を見上げていた。二人の目と目の間で、何かが崩れている。俺の知らない何かが……


「あーあ」


 気の抜けた声で我に返る。いつの間にかすぐ側に川中がいて、グラウンドに落ちた上履きを拾い上げていた。ぱんぱんと土埃を払い、今度は俺たちの方を見てもう一度「あーあ」と言う。

 その口角が小狡く吊り上がる。


「汚いね」


 首から上が一気に熱くなる。クラスメイトの冷やかすような視線。米澤と道原の難解な表情。流し台にねっとり落ちる水滴のような、まだ知らない何か。恋が分からないくせに所作だけ真似する未熟な自分。それら全てが、川中の一言で総括される。


 汚い。


 言われて初めて分かったけれど、その言葉は異性に使われると、自尊心がめちゃくちゃにされてしまう。

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