第四話 ぐるぐる巻きの小谷
人気のない校舎はすっきりとして、深緑の廊下と水色の教室の壁が、生徒の鬱屈とした感情から解放されたように爽やかな陽の光を反射していた。用事のある生徒だけが通う、機能していないコンクリートの塊。夏休み中の学校ってこんな感じなんだ、と二年生まで部活動を知らなかった俺は体感する。
部室では後輩の比奈田が絵の整理をしていた。彼女は二年生で唯一の女子部員で、年上の懐に入るのが上手かった。川中に気に入られているので、きっと来年の今頃には部長としてこの場所を仕切っているだろう。
「あ、小谷先輩。早いですね。でも、一夏先輩はまだ来てませんよ?」
「別に……いいよそれは。うるせーな」
その愛嬌を活かしてたまに茶化してくるのが困る。床には木枠から外されたキャンバス紙や、厚めのコピー用紙が散らばっている。どれも前年度に描かれたもので、美術部は三年生が卒業すると、上手な作品を残してこっそり捨ててしまうらしい。比奈田はその選別に苦労しているようだった。
「先輩、これって上手だと思います?」
「えー……上手いんじゃね?」
「じゃあ、これは?」
「まあ、上手い……」
「全部上手なんじゃないですかー」
俺も床に座って棚から残りの絵を引っ張り出す。下手くそな天使の絵。そこそこ上手いドラゴンの絵。交差点でパーカーを着た中性的な人間がこちらを睨みつけている絵。どれも学校で展示されていたはずなのに、一つも記憶に残っていない。紙の裏に書かれた学年と名前を一枚ずつ確認する。俺の顔色を伺っていた比奈田が、申し訳なさそうに告げた。
「幹緒先輩の絵は……ないです」
俺はがっかりしたのを出来るだけ表に出さず、「そう」と残りの絵を床に置く。比奈田の方から仄暗い雰囲気を感じる。あぐらをかいて、しばらく頬を触りながら有象無象を眺めていると、すっ、と目の前に一枚の絵が滑り込んできた。
二匹のイルカの絵。海の中なのか、空なのか曖昧な青い空間で、オスとメスと思われるイルカが身を寄せて泳いでいる。よく見るとこの二匹はタッチが違い、それぞれ別の人間が描いたものだと分かる。
俺はその絵の裏面を見る。繊細な字と、見覚えのある丸文字で二つの名前が書かれていた。
二年一組 米澤健
二年三組 道原一夏
「小谷先輩って」比奈田はいつの間にかこちらをじっと眺めていた。いつもの愛嬌いっぱいの子供のような目とは全く違った、あくどい目つきで。
「一夏先輩でよかったんですか?」
「いいんじゃない?」
すぐ頭上で川中の声がして、二人は飛び上がった。川中はいつも通りの格好でにこにこしながら、戸棚に背中をつけて身構える俺たちを見下ろす。
「ぶ、部長! なんでそんなに気配がないんですか!」
「足をね、こう、踵からゆっくり地面につけて歩くと」
足音を忍ばせる方法をレクチャーしだす川中に、顔を真っ赤にして怒る比奈田。久しぶりに光を浴びた絵たちは結局その八割が捨てられて、ここで積み重ねた記憶も一緒に葬られた。汗も血も、涙も。学校という空間に、消えた生徒のそれらを残しておけるほどの余裕はない。
道原が部活に来られないというので、俺は部室の男子グループと女子グループの狭間でへのへのもへじを描くはめになった。普段から道原と机を向かい合わせなんかにして、二人の世界を作っていた弊害だ。今さら男子の仲間に入れてもらうのは気が引けるし、女子グループなんて以ての外だった。
持って来ていた携帯電話から道原へ『どうしても来られない?』とメールを送ろうとしたけれど、やっぱりやめる。やめてから浮かんだその理由がなんとなく酷い気がして、俺は考えること自体をやめる。
結局、道原とは何にもしていない。手に触れるくらいのことはあっても、恋人同士の特別な触れ合いと呼べることは、一切出来ていなかった。
ずっと何かを間違えたまま過ごしているような感覚に、少し疲れつつある。今は疲れているけれど、いつか疲れさえ感じなくなって、この苦みに似た感覚を当たり前のように抱えて生きるようになるのだろうか。それはなんだかもう大人みたいだ。
一方、道原の友人は部員たちとBL本の話をしている。受けとか攻めとか体位がどうとか、内容がきつい割に現実味はない。自分は知識がある大人だと思い込んでいる。ガキがよ、と心の中で嘲ってみる。すると、彼女の話に相槌を打つ川中と目が合う。
川中は、本当は視力が高いのではないかと疑うくらい人の表情に敏感だ。今もそう、俺が女子を心の中で馬鹿にしていたのを見破られ、焦っているところまで見抜いている。やがて彼女の瞳は猛禽類のように鋭く光り、俺を捕えようとする。今日こそお前の思い通りにはなるまい、と抵抗していたら、今度は、ふ、と視線が外れてこちらが拍子抜けしてしまう。
「で、なんだったっけ」川中は何事もなかったかのように道原の友人へ聞いた。
「そう、今ね、監禁されてオークションに出されるシーン描いてるんだけど、椅子に縛りつけられてる男が上手く描けなくてさー」
友人のノートを覗き込み、悪趣味であろう漫画を一通り眺める。「ふうん」と、表情を変えることなく唇の下の辺りを掻いてから、
「じゃあ、実演してもらって描いたら?」
え、と一同が固まる。
「だ、誰に?」
がしゃん、という幻聴と共に俺は自覚する。しまった、捕まった!
「小谷に」
女子部員が一斉にこちらを向く。戦慄く俺の顔を見た部員の一人がちょっとだけ吹き出した。
川中の愉しくてたまらないというような声がゆらりゆらりと頭を泳ぎだす。
「さっきから、一夏がいなくて暇で仕方ないって感じだったもんね。夏休み前もずーっと一夏と喋ってばっかりだったし、そろそろ部員の役に立ってくれてもいいんじゃない? それに……椅子のこと、忘れてないからね」
黙っているうちに、誰かがどこからかビニール紐を取り出して来ていた。道原の友人は顔を赤くしながらにやにやしている。
椅子が、女子グループの机の前に置かれる。見せしめのように、処刑台のように……
「さ」
川中は紐の塊をするする解きながら、顎をくいっと上げてみせた。
「おいで、小谷」
有無を言わせぬその態度。俺は前から不思議だった。なぜ部室ではこの女に逆らえないのか。その場にいる人間を味方につけるのが上手いから? こちらが戸惑うほどの二重人格だから? 部室でこの女の瞳を見ると、懐かしいけれど恐ろしい感覚になってなぜか身体が言うことを聞かなくなる。
肩を押され、そのまま椅子に座ってしまう。川中が背後に回り、ちりちりとビニールの軽い音をたてて、俺を縛るためのロープを準備する。女子たちの好奇心に満ちた目線。俯いて視界に入った胸の前に、明るい黄色の紐がぴんと張られる。
「手、後ろに回して」
ぞわっ、とするくらい近くで囁かれ、肩がびくついた。後ろから静かに笑う声がする。普段は絶対にしないポーズ。背もたれの向こうで、右手に左手を重ねる。
ぐるぐる。川中は声に出して言った。
身体がおもちゃみたいな華奢なロープに締めつけられていく。
ぐるぐる。ぐるぐる。声が遠のいたり、右耳に近づいたり、左耳に近づいたりする。
頭はどんどんぼんやりしてきて、自分が何をされているのか分からなくなってくる。耳に篭った熱が目尻の方にまで伝わる。
わざとちぐはぐな方向に這わせたロープは、上半身を五周くらいしてから、やっと両端を結ばれた。
「どう? 参考になった?」
最後に、川中はこちらの手首を余った紐の切れ端で優しく縛った。右手と左手が勝手にくっつく。
「よかったね、小谷」耳に川中の髪が触れる。顔を背けようとする俺に、川中は無理やり言い聞かせる。
「椅子以下から、椅子の上の囚人にまで昇格したね」
身動きがとれなかった俺は解放されてからあることに気づく。俺は、この両手首をずっと、緩やかな蝶々結びで縛られていたのだった。
「さようなら!」
美術室を出ていく部員。奔放で軽快な足取り。いつも通り川中は全ての部員がいなくなるのを待つ。合羽から預かった部室の鍵を取り出す、その時。
俺は扉を塞ぐように立ち、川中の行く手を阻んだ。
「なあに」と、川中は表情を変えずに言った。
俺は何も言わず川中を見下ろした。一斉に鳴きだした蝉の狂騒が、頭の奥で黒い渦を巻く。
「こえーな、って思ってさ」
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