第二話  佐久良売、二十一歳。

 壬子みずのえねの年(772年)


 二月。


 夜。


 二十一歳の佐久良売さくらめは、奈良、平城京へいじょうきょう采女うねめの部屋で、簡易な椅子に腰掛け、机の上の木簡もっかんを見つめ、ため息をついていた。


 佐久良売さくらめは、采女うねめ(平城京で召し使いをする豪族の娘)となったのだ。


 カタン。


 入口の戸が開いて、十九歳の見目麗みめうるわしいおみなが入ってきた。

 白く艶を放つ肌。たぐいまれな美貌。特徴的な八の字眉。

 この部屋を出て行った時には、きっちり紅がひかれていた唇からは、すっかり紅が落ちている。

 その唇は、紅が落ちてなお輝き、なまめかしい。


藤売ふじめ。お帰りなさい。」


 佐久良売さくらめは椅子から立ち上がり、挨拶をし、藤売のそばに近寄った。


「ふふん。帰ったわ。悪いわね、今日も、衣を解くのを手伝って。」


 悪いわね、と言いつつも、このおみなは、全然悪いと思っていない。


 このおみなも、佐久良売さくらめと同様の采女である。

 ただ、畿内きないの大豪族の娘。

 佐久良売さくらめは、陸奥国みちのくのくにの豪族の娘。

 畿内出身の采女に、地方出身の采女は差別されるのである。


 佐久良売さくらめは、恐れ多くも天皇すめろきさまに仕える采女であって、藤売に仕える采女ではない。

 だが、この藤売は苛烈な性格で、この二月のあたま、新しくこの部屋に住むことになって、初日、


「あたくしに従わないと、承知しなくてよ。」


 と抜け抜けと宣言してきたのだ。

 佐久良売さくらめは呆れたが、もう、采女うねめとなって、六年たつ。女社会では、権力を持つ者には逆らわないのが一番……。佐久良売さくらめは理解していた。


 藤売は権力がある。なにせ、もともと、恐れ多くも井上皇后いのえこうごうさま付きの采女だったのを、恐れ多くも他戸おさべ皇太子さまに、その美貌を見初みそめられ、恐れ多くも他戸おさべ皇太子さま付きの采女となったのだから。


「寝てて良いわよ。でも、あたくしが部屋に帰ってきたら、起きて、衣を解くのを手伝ってちょうだい。」


 とは、以前言われた、藤売の我儘わがままな要求である。


「うふふ……。」


 藤売は上機嫌で、首もとの紅い首飾りをいじっている。


「まあ、それは?」


 聞いてほしそうにしてるので、佐久良売さくらめが適当な口調でそう言うと、


「かけまくも他戸おさべ皇太子さまに、頂戴したのよ。ふふふ……、ああ、素敵な夜だったわ……。」


 藤売はうっとりと言う。

 部屋は暗く、顔は良く見えないのだが、艶が紅色となってしたたり落ちそうな濃厚な気配がする。


(すごい色気。)


 これなら、ご寵愛をうけるのも頷ける。

 

 恐れ多くも皇太子さまのご寵愛をうけるなんて、藤売がちょっとは羨ましい。

 が、佐久良売さくらめには、縁のない話。


可頭乃木能かづのきの 和乎可豆佐祢母わをかづさねも 可豆佐可受等母かづさかずとも……。)


 

 夜着に着替えた藤売ふじめが、八の字眉をくいっと上にあげて、


「お腹すいたわ。」


 と言い放つ。佐久良売さくらめは、適当な口調で、


「あたくしの生家せいかが、すももの蜂蜜漬けを送って寄越しましたの。召し上がる?」


 ときいた。


「いいわね!」


 藤売は嬉しそうに返事をした。

 壺から、とろり、としたたる蜂蜜を木のさじですくいあげ、土師器はじきの皿にすももをよそい、藤売に渡してやる。


「ありがとう。」


 藤売は美味しそうに食べながら、首をかしげた。


「あなたは?」

「今はけっこう。」


(こっちは眠いんだわ! 食べるより寝かせろや!)


 と佐久良売さくらめは微笑む。

 藤売は上機嫌で、


佐久良売さくらめ、聞いたわよ。今日の昼間、新入りの采女をこっぴどく叱ったんですって? 鬼より怖い陸奥みちのくの采女って、噂されてたわよ、あはは!」


 と笑った。

 采女は、豪族の娘である。地元では、家人けにんにかしずかれて育ってきたのだ。

 簡単な皿洗いを、


「あたくしに何をさせるつもりですの? あたくし、そんな事できませんわ。」


 としゃあしゃあと言った新入りの采女を、皆の前で、頬を張り倒してやった。

 あたくしは、甘えたおみなを許せない。


「何をするつもりでここにるのか! ここはかけまくも天皇すめろきさまの御膳を扱う場ぞ! その考え、即刻、宇治川で頭をすすいで流してやれ!」


 新入りの采女は大泣きをした。

 叱っていない他の新入りまで、一緒に手を取り合って泣いていたのは、何故であろうか……。







「あなた、悩んでるの? 気にすることないわ。怖いって人から陰口叩かれたって、何よ。佐久良売さくらめが正しいわ。」


 藤売ふじめが涼やかに言った。

 このおみな、時々、こういった事を言ってくるから……、嫌いになれない。


「悩んでません。怖いって言われたって……、事実ですわ。」


 昔はこうでなかった。

 長い采女暮らしが、佐久良売さくらめを変えた。

 佐久良売さくらめは、きっちりした性格で、仕事の甘えを許さない。

 いつしか、眉根をよせ、口もとは笑いを忘れ、怖い、と言われる顔を、常にするようになった。

 鬼より怖い陸奥みちのくの采女うねめ

 まさしく、正しい。


「じゃあ、何? 

 いつもこの時間、布団で寝て、あたしが帰ってきたら、起き出すじゃない。

 今日に限って、なんで、椅子に座ってたの? 

 ……あの木簡もっかんに、何か書いてあったの?」


 なにげに、藤売は良く見ている。

 佐久良売さくらめはため息をついた。


「ええ。陸奥みちのくのくにに、もう六年会っていない、十六歳の同母妹いろもがいるんです。

 ……良い方と婚姻したって、知らせてくれました。」

「ああ、十六歳。良い年ね。婚姻にぴったりの年齢。……あなた、もう二十一歳だものね。婚姻に適した年齢、過ぎちゃったわね。」


 ふふふ、と藤売は意地悪く笑った。

 二十歳を越えると、女は、婚姻に適した年齢を過ぎた、と世間ではされている。


「意地悪ね。」

「ふふふ。」


 藤売は、何故だか、こういった毒を含む会話を好む。


「まあ、それも皆無ではないけれど、それより……、同母妹いろもに会いたいの。とっても可愛くって、あたしに良く懐いて、奈良に旅立つ日には、わんわん泣いてたわ……。

 それがもう、つまが、……婚姻の宴にも、……出れない、なんて……。」


 婚姻の宴に、出たかった。

 同母妹いろもが幸せに笑うその日に、あたくしも、同席したかった。


都々自売つつじめを幸せにしなかったら、黄泉の鬼を引き連れて、頭から丸呑みにしてやる!」


 そうつまに、言ってやりたかった。

 どうしても、その想いがこみあげ、布団に横になる気にならず、ぼんやり、倚子に腰掛けていたのだ。

 藤売は、


「馬鹿ね……、あなたは、采女なんだから。」


 ちょっと苦しそうにそう言い、皿を、かたっ、と机に置いた。

 倚子を立ち、玉櫛笥たまくしげ(化粧品入れ)をあさり、雑色瑠璃ざっしょくるり(色ガラス)の首飾りを二つ、手にとった。


「あげるわ。二つ。あなたと、あなたの同母妹いろもに。すぐに会えなくても、いつか、会えるわ。

 会ったら、今日の日の事を話しなさい。

 あなたが、どんなに同母妹いろもの婚姻の宴に出れなかったのが、口惜くやしかったか。

 祝福がしたかったか。

 忘れず、その時に、直接言いなさい。」


 そして、二つの首飾りを、佐久良売さくらめの手に押し付けた。

 黄瑠璃きるりの首飾り。

 緑瑠璃みどりるりの首飾り。

 とても高価なものだ。


「こんな高価なもの……。」


 佐久良売さくらめが戸惑うと、


「いいのよ。あたくしは、河内国かわちのくにの大豪族の娘よ? 装飾品に不自由した事なんてないの。沢山持ってるんだから。

 それに、もう、……この、血赤珊瑚ちあかさんごの首飾りと、耳飾りがあれば、あたくしは良いの……。」


 そう藤売ははにかんで、笑った。

 暗闇でも、ホタルの光が弾けるような、恋の幸せに満ちた気配を、佐久良売は感じた。


「大事にしますわ。ありがとうございます。」


 佐久良売さくらめは心からお礼を言った。


 藤売は、佐久良売さくらめに、まるではたらのように仕える事を求めながら、時々、ぽん、と、大きなものをくれる。

 だから、長い付き合いになると、とんとんの関係になるであろう。

 佐久良売さくらめは、威張りたがりのこのおみなを、けっして嫌いではなかった。


「もう寝る。」


 藤売はかめから杯で水をくんで、くっと飲んで、


「器は片付けておいてね。おやすみ。」


 とさっさと先に布団にもぐってしまった。

 佐久良売さくらめは適当な口調で、


「はい。」


 と返事をする。


 そして、二つの首飾りを、木簡の上に、綺麗にそっと置いてみた。

 木簡が首飾りをしたようだ。

 佐久良売さくらめは、くすっと笑う。

 この木簡は、たしかに、都々自売つつじめが手ずからしたためたはずだ。


(今はまだ、直接は渡せないけど、気持ちが、空を駆け、届くと良いな。いつか、会えたら、この美しい首飾りをあげるわ。都々自売つつじめ。)


 木簡には、こうも書いてあった。


 ───岡辺をかへみちに  つつじの


 にほはむときの  桜花さくらばな


 咲きなむ時に  やまたづの


 むかむ  きみまさば



    *   *   *




 ───佐久良売さくらめ姉さま。


 あたくしのたった一人の、大切な、お姉さま。


 まだ、お帰りにならないのですね。


 会いたいです。


 あたくしは、真っ赤なツツジの花咲く小道で、笑顔で、お姉さまをお迎えする日を、夢見ています。


 待っていますわ───。












     ───完───








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丹つつじの匂はむ時  〜佐久良売と都々自売〜 加須 千花 @moonpost18

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