丹つつじの匂はむ時  〜佐久良売と都々自売〜

加須 千花

第一話  佐久良売、十一歳。

 岡辺をかへみちに  つつじの


 にほはむときの  桜花さくらばな


 咲きなむ時に  やまたづの


 むかむ  きみまさば




 岳邊乃路尓をかへのみちに  丹管土乃につつじの

 将薫時能にほはむときの  櫻花さくらばな

 将開時尓さきなむときに 山多頭能やまたづの

 迎参出六むかへまゐでむ 公之来益者きみがきまさば




 岡辺おかへの道に真っ赤なつつじが咲き誇り、桜が咲くときに、お迎えに参ります。あなたがお帰りになったら。



 万葉集  高橋虫麻呂たかはしのむしまろ 巻六 971番 抜粋





   *   *   *




 奈良時代。


 壬寅みずのえとらの年。(762年、天平宝字てんぴょうほうじ六年)


 薫風くんぷう香る初夏。



「にゃあん、にゃあん、待て待て、ねこー!」


 てててっ、可愛らしい五歳の女童めのわらは(少女)が、猫を追う。

 猫は、白い毛並みに、土器かわらけ色と黄色の斑斑むらむら(この場合、ぶち)の模様。

 紅い紐を首から長く、垂らしている。


「にゃあん、里夜りや、つーかまえたー!」


 地面を引きずる紅い紐を、女童めのわらははつかもうとするが、するり、と猫は逃げる。

 里夜りや、と呼ばれた猫は、充分距離をとって立ち止まり、どこか余裕で、女童めのわらはを振り返る。

 彼女は飼い主であり……里夜りやの遊び相手であるからだ。


「あ───ん!」


 女童めのわらはは悔しそうな大声をあげる。


都々自売つつじめさま、もう帰りましょう。」


 彼女のお付き、乳姉妹ちのえもである塩売しおめが、てこてこ、あとを走ってくるが、彼女とて五歳。

 主である都々自売つつじめの手を引くが、


「やっ!」


 都々自売つつじめは簡単に、その手を振り払ってしまう。

 塩売しおめは両拳をにぎり、腰を落とし、腹から、


「え───ん、つーつーじーめーさーまぁ〜!」


 と叫ぶ。

 その時、横から、すい、と白い手がのびて、猫をあっという間につかまえた。

 その手は、里夜りやのもう一人の飼い主のものであったので、猫は大人しく。


 にゃあん。


 一声鳴いた。

 ふわふわの里夜を抱えた、十一歳の女童めのわらはは、人目を引く美しい顔立ちである。


都々自売つつじめ。また里夜りやを逃がしたの。

 猫は、桃生柵もむのふのき(桃生城)にこの子しか……、いいえ、陸奥国みちのくのくに広しと言えど、この子しかいないのよ?

 紐を外してはいけない、といつも言ってるでしょう?」

佐久良売さくらめ姉さま! 都々自売つつじめ、ねこと、あそぶー!」


 五歳である。だん、だん、足を踏み鳴らし、都々自売つつじめはしたい事を主張する。


「めっ!」


 彼女の姉は、眉根を寄せて、怒ってみせる。

 都々自売つつじめは、唇をむうっと突き出して、うつむいた。

 一歩下がった後ろでは、塩売が感謝をあらわし、幼いながら、礼の姿勢をとる。


 佐久良売さくらめは、同母妹いろもと、その従者ににっこり笑いかけた。


「さあ、里夜りやと一緒に部屋に戻りましょう。」

「やあん! 戻らない! 母刀自ははとじ、遊んでくれないもん! お姉様、遊んでくれないもん! 」


 ててっ、走り、女童めのわらはは十一歳の姉に、横から抱きついた。

 正面には里夜りやがいたからである。

 佐久良売さくらめは微笑んだまま、


古富根売ことねめ。」


 と、後ろに控えた、己の乳姉妹ちのえもの名を呼び、猫を渡した。佐久良売さくらめと同じ背の高さの従者は、こくりと頷いて、胸に猫を大事に抱きかかえる。

 佐久良売さくらめは、大切な同母妹いろもを抱きしめ直し、


「母刀自は、お身体が弱いのよ。良く寝ていないと、いけないわ。

 都々自売つつじめ、わかっているでしょう? 良い子だものね。」


 と背中を優しくたたいて、言い聞かせた。

 優しくされて、都々自売つつじめは、


「はい。」


 と素直に返事をする。


「いいわ。ちょっとだけ、あたくしが遊んであげる。だから、一緒に部屋に戻りましょう。」

「本当?」


 都々自売つつじめは姉から身体をぱっと離し、嬉しそうに姉の顔を見上げた。大きな可愛らしい目が、期待にキラキラ輝いている。


「本当よ。」


 佐久良売さくらめは、切れ長の目で、優しく微笑えんだ。桜の花が風にそよぐがごとく、柔らかく、美しい微笑みだった。


古富根売ことねめ博士はかせに、ちょっとだけ……、四半刻しはんとき(三十分)遅れると伝えてちょうだい。そのぶん、勉学を励みますので、お許しください、と言い添えてね。」

「わかりました。」


 古富根売ことねめ佐久良売さくらめに猫を渡し、礼の姿勢をとり、同じ従者という立場の塩売しおめに、頑張ってね、という微笑みを一瞬投げかけ、去った。


「ねーえさまっ、ねーえさまっ。」


 猫を抱いて歩き出した佐久良売さくらめの裳裾に、都々自売つつじめがまとわりつく。

 佐久良売さくらめは、ふふ、と笑い、桃生柵もむのふのき領主の館の庭を、歩く。


 ここは、山の上。平らかではなく、坂道が多い。

 紅いつつじの花が群れ咲く小道を、幼い従者を引き連れ、美しい姉妹が通る。

 ふと、佐久良売さくらめは、唄をくちずさみたい気分になった。


岡辺をかへの道に───、つつじの───。」


 同母妹いろもが笑顔で唱和する。


「にほはむ時の───、桜花さくらばな───。」


 佐久良売さくらめ都々自売つつじめ

 二人の名前が入った、この唄は、姉妹のお気に入りの唄だった。


「咲きなむ時に───、山たづの───。」


 母刀自のお気に入りでもある。


(……母刀自ははとじは、いつまで生きていてくださるだろうか。)


 丁酉ひのととりの年(757年、五年前)、佐久良売さくらめが六歳の時に、一家は、相模国さがみのくにから、陸奥国みちのくのくにへやって来た。

 陸奥国みちのくのくには、冬の寒さが厳しい。

 都々自売つつじめを出産後、肥立ひだちが良くなかった母刀自に、ここの冬はこたえたのだ、と、佐久良売さくらめは今ならわかる。

 母刀自は、ふせったり、体調が良くなったりの繰り返しだ。


都々自売つつじめが、思いっきり母刀自と遊べない不満は、あたくしが引き受ける。あたくしが、たくさん、遊んであげる。

 寂しい思いはさせない───。


 母刀自は、ふせっていても、生きてさえいてくれれば、あたくしは、充分。)


 佐久良売さくらめは、紅いツツジを見て、ふと思いついた。うたうのを止め、


都々自売つつじめ。すこし、ツツジの花を手折って、持っておいで。母刀自の部屋をのぞいてみましょう。もし起きていらしたら、花を飾ってあげて、一緒にお唄をうたいましょうね。」

「はい!」


 都々自売つつじめは、その提案が嬉しかったのであろう。

 元気に返事をし、ぴょん、とその場で飛び跳ねて、ツツジの花を手折りにむかった。


 紅いツツジの花の向こうから、都々自売つつじめ乳母ちおもが、


都々自売つつじめさまーぁ。どちらにー?」


 とうろうろ都々自売つつじめを探しているのが見えた。


「母刀自ぃー、ここですー!」


 佐久良売さくらめの後ろから、塩売しおめが大きな声で応える。


 佐久良売さくらめの腕のなかでは、里夜りやが、つつましく。


 にゃあん。


 と鳴いた。

 佐久良売さくらめは、猫の柔らかいのどを、優しく指でなでる。

 すると里夜は、ごろごろ、と素敵な音を喉から発するのだった。






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