第66話 種落つ荒野(4)
タックルを仕掛けた兵士は身を翻され、逆に腕を取られた。肩が外される重い音、絶叫。飛びかかろうとした兵士は、視線を向けられることすらなく左アッパーを叩き込まれた。顎を跳ね上げられて昏倒する。
人の殴り方も知らないはずの少女の四肢は、如何にすれば敵を倒すことができるか、なぜか完璧に理解していた。
「邪魔よ! 外道ども!」
立ち上る激怒で、赤毛が揺らめく。黄金色に燃える双眸は巨大な猛禽類のもの。
「だよなあ……」キリルは熱く歪む視界をこらえ、唇を噛んで俯いた。「そうだよな」
あの拳だ。あの拳こそが、おれが言いたかったことだ。獣にされた仲間たちが、話すことのできない喉いっぱいに叫びたい怒りだ。
服従するしかない
少女の背後に、複数の兵士が足音もなく忍び寄った。大きな翠眼に捕捉されたら最後、恐ろしい反応速度でカウンターを喰らうことを悟り、視界外から取り押さえようと
あと一歩で届くという瞬間、男たちの後頭部は横倒しにされた重厚な椅子に張り飛ばされた。
「……なーにコソコソしてんだ、変質者」
膝をついた少年は立ち上がっていた。汚れた口元を拳で拭い、椅子を投げ捨てる。
「ガキを嬲ってご満悦でしたね、閣下方。これは親切心からの忠告ですが、ちょっと控えたほうがいい」
いつもどおりの尊大な目つきが、呆気にとられた大人たちを睥睨する。「どう見ても興奮したチンパンジーの群れなんで、居住区じゃ射殺対象っすよ」
そこからは乱闘だった。ブロッターが投げられ、エンジェルケーキが宙を舞う。吹っ飛ばされた椅子は一面のガラスを割り、階下のコンクリート上で見るも無惨な姿となった。テーブルの下で小さくなったメルサが涙目で祈る。
年端もいかない、たったふたりの子どもの無謀な反乱。だが、室内の兵士の手には負えなかった。結局、別階に追加兵力を要請し、一ダースの衛兵を投じてようやく鎮圧された。
「……ふう、まったく。きみはわたしをいつも驚かせてくれますね、レディー・エル」
兵士に押さえつけられたエルは、青あざをいくつも作って鼻血を垂らしていた。老紳士はハンカチで汗を拭いながら見下ろした。「歌やダンスだけでなく、格闘技の才まであるとは!」
傍らで片膝をつき、破り捨てられた上質紙を拾い上げる。
「もう一度サインをするおつもりは?」
返答はシンプルだった。「グレートなバカ?」
「口を慎め!」
赤毛頭は床に叩きつけられた。新たに鼻血が溢れても、猫目にはわずかな怯えも滲まない。
「知らないわ、口の慎み方なんて」
「どうやらあなた、あたしたちがペットに見えてるようね。脅せば素直に言うことを聞く、ふわふわのキュートなペットに。でも獣の扱い方はご存じない様子。どんな動物だって、仲間に手を出されたら戦うのよ。宿命なんかじゃ、誇りを奪うことはできない。たとえ神さまだろうと、決してね」
「誇りだと!」
反乱が鎮圧され、安心しきった高等文官たちが腹を揺らして笑う。「ジョークが上手い娘だ!」
「もしかして嫌われてしまいましたか?」
ハロルドは眉を下げて大げさに嘆いた。「ああ、ペットだなんて。わたしはきみたちを愛してるのに!」
白々しい悲嘆と嘲笑が満ちる室内に、その声は唐突に響いた。
「必ず、取り立てる」
語ったのはエルの唇だった。つまり発信源はひとりの少女の喉……のはずであったが、人々の耳には、複数人の声が反響して聞こえた。男とも女ともつかない何やら大勢の、得体のしれない無数の喉。
ガラリと変わった声色に、男たちは笑みを残したまま瞬きをした。
「
天から降る雨のように、声は幾重にも重なる。一対のペリドットは眼窩の奥で
「我らの徴収を逃れられると思うな、ハロルド・ウェリントン」
老人は目を見開いた。
「黙らせろ!」
高等文官からの命で、
「やめて! やめてえ!」
メルサは慌てて取り
真正面から
「そうですか……。そうですか、そうですか!」
何かに得心したように、にわかに瞳を輝かせる。
「残念です! ええ、とても! わたしはあなた方が大好きなのに、愛が伝わらないなんて!」
常日頃おっとりとした君主の、言葉とは裏腹に高揚を隠せない様子に、文官たちは訝しげに顔を見合わせた。
唯一生き残った椅子に腰かけて、ココアを傾けながら、年老いた白い手がニッコリと出口を示した。
「では、当初の予定どおりに」
結局ケーキもチョコレートも口にできないまま、キンキンに冷えた護送車へと逆戻りである。
「ごめんなさい、ふたりとも」
散々殴られた顔に、金属板は心地よかった。壁に顔を押し当てながら、くぐもった声でエルは謝った。
「最後の最後、命が助かる機会だったのに。あたしの巻き添えで棒に振らせちゃった」
「ぶっ飛ばすぞ」
足を投げ出したキリルは、不機嫌に腕組みをしていた。「このおれが、サディストどもの手下になるわけないだろうが」
機嫌が悪い本当の理由は、エルが殴り飛ばすまでその選択肢を思いつかなかった彼自身である。
「メルサもだよ。マーニーをあんな目に遭わせた人たちと一緒に働くなんて、死んだほうがマシ。……全然、怖くないよ」
振り向けば、泣き虫の少女は声を出さずにくしゃくしゃに泣いていた。
「メルサ」
「違うよ、泣いてない。これはアレ、武者震いってやつ」
不可解な言い訳をしながら、リュックから日記帳を取り出す。
「エル、覚えてる? ロウがギムナジウムを追い出されて、もう
物騒な思い出話に、キリルはあんぐり口を開けた。
「……覚えてるわ」
身体が小さくてちょっとぼんやりした、みんなの弟のような少年だった。小さなロウが、勤労中に利き手の指を落としたのは二年前の秋。
職業訓練校行きが命じられたのは、大怪我からたった三日のことで、こんな小さな子を行かせたら死んでしまうとギムナジウム生みんなでハンガーストライキをした。……結局のところ、抗議に耳を貸してくれる大人はおらず、時間通りに現われた警官隊のジープに乗せられて、少年は遠くへ行ってしまった。
弟を奪われた女子寮は沈黙した。夜は長くて耐え難く、眠れない少女たちのうちのだれかが、冴えた解決策を思いついた。――もうみんなで手をつないで、時計台から飛び降りちゃわない?
「メルサ、やっと楽になれると思ったよ。だって、怖くて仕方なかったもん。ここに連れてこられてから、ずうっと。お母さんにもお姉ちゃんにも会えなくて、毎日酷いことが起きて、ロウも助けてあげられなくて。そっか、死んじゃえばいいんだ。そんな簡単なことで、こんな思いをしなくて済むんだって。……なのにエルったら、こともなげに言ってのけた。それより日記をつけましょって」
泣き濡れた翠眼が、赤毛の少女を映す。
「日記の記載は、極刑相当の重罪。知らない市民はいないのに、あなたは言った。『あたしたちに、武器の所持は許されない。でも、銃や爆弾だけが武器じゃない。教えられた文字で、忘れられない記憶を克明に記したダイアリーが、いつか必ずベルチェスターをぶっ飛ばす。それが分かってるから、やつらは広場で吊るすぞって脅してる。このご時世、悪いやつらを倒すのに火薬はいらないの。あるならあるに越したことはないけど』」
驚異的な記憶力は、一言一句
「『あたし、ベルチェスターが怖いと思ったことなんて一度もないわ』って。みんなビックリだったけど、メルサ、笑い出しそうだったよ。薄々分かってたし、やっぱりどうかしてると思って。――『何だってそうだけど、目を瞑ってるから怖いのよ。ぶっ飛ばそうと思って真正面から見据えれば、世界なんて恐れるに足りない』」
鼓膜に刻まれた声を思い出すように耳を抑えて語る少女は、経典を暗唱して祈る姿に似ていた。
ぐいと涙を拭ってウサギ柄のノートを掲げる。「これが、メルサの武器」
「何でかな? 見つかったら終わりの紙切れなのに、手にすれば勇気が湧くんだ。誰ももう、死のうなんて言い出さなくなった。ダイアリーさえあれば、メルサは怖くない。怖くない。怖くない。……ほんとだよ」
小さな肩は小刻みに震えていた。エルは何も言わず、ただ力強く抱きしめた。
助けたい。自業自得な自分はどうでもいいけれど、巻き込んでしまったふたりだけは。
しかしここに至って、救命は不可能だった。腕をきつく掴んでこちらを覗き込んだ、ライラの眼光を思い出す。
――四世代目のあたしが半世紀生きてようやく、東の空の色が変わりそうなんだよ。この太陽を奪われたら、次の朝を望むまで、また百年かかるだろうね。
エルは賭けに負けた。唯一の希望である王は敵の手に落ちた。
彼らが待ち望んだ黎明はこれより日暮れへと変わり、また長い夜が始まる。
やがて、耳をつんざく金切り声を上げて護送車は停止した。
「さっさと降りろ!」
扉が開けられた瞬間に怒号が響く。服を掴まれて投げ飛ばされるように降ろされたのは、くすんだレンガ造りの建物群の前。
看守の宿舎を兼ねた四階建ての監視塔の中央は、二階部分まで貫通し、車両の侵入門となっていた。周囲に張り巡らされた鉄条網に高圧電流が流されていることは、クープでは常識である。
サーチライトが飛び交うこのゲートは、通称『死の門』。護送車から降ろされたエルは、自分がすでに死の内側にいることに気がついた。
悪名高き『再教育センター』は、月のない夜に冷たく佇んでいた。
黄金機械 長谷川愛実(杉山めぐみ) @biggestnamako
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