第65話 種落つ荒野(3)

 扉が開き、白衣を纏った一群が入室した。注射器を手にした男たちは、ブルブルと身を縮こまらせる獣に口輪を装着すると、青いゴム手袋で目元の毛を払い除けた。


 ハウンドの白毛の下には、翠眼がはまっていた。


 ギムナジウムで毎日見てきた色。クイーンを慕ってどこまでもついてきた目。


 恐怖と混乱で涙をいっぱいに貯めた大きな瞳は、初めて、階上の豪奢な部屋にいる赤毛頭を見出した。


 それが一瞬たしかに輝いたのを、エルは見た。


 口輪を嵌められた獣は語らなかった。しかし聞こえていないはずの声が、赤毛に隠された耳に届く。憔悴の中にいつもの喜色を滲ませて、「エルだ!」「エルがいる!」と呼ぶ幼い声。


 変わり果てた獣の中には、いまだたしかに、人間の魂があった。


 ゴムグローブの手が、ハウンドの長い頚椎に注射針を指した。ふたりはビクリと身を跳ねさせると、ぐるりと白目を剥いて、それから酩酊したような目つきになった。


 以降は眼前で指を鳴らそうが、二度と焦点を結ばなかった。


「処置も滞りなく完了しましたね」


 おっとりと告げるハロルドの様子は、これが通常業務なのだと教えていた。


「あれが何か、皆さんもご存知ですね? そう、共和国が誇る猛獣兵器ハウンドです。実はトゥランの皆さんは、ある特殊な薬剤で獣になれる性質をお持ちなんです」


 少年少女たちは息もできないまま、カートに載せられてぐったりと退出していく二体の四足動物を見つめた。研究者とハウンドが去れば次は清掃員が入室し、様々な体液で汚れた床をキビキビと清めていく。


「クライノート・ギムナジウムの創設目的は、良質なハウンドの安定供給。健康な身体で十六歳の成人年齢を迎えた子どもたちはこうして処置を施され、本国での調教ののち、最前線で戦うブレイク部隊へと支給されるのです」


 老紳士が優しく説明する内容は、日曜学校でのちょっとした理科の実験についてのようだった。


「相変わらず手際のいい加工でしたな、閣下」


「しかし、今回の個体は少し小さいような?」


「そりゃあまだ十一歳なんで」


「何、小振りなら小振りで使いようがありますよ」


 子犬のブリーダー……というよりは、謝肉祭前の七面鳥売り場で交わされるのが近い会話。


「うう……ッ!」


 キリルは膝をついて嘔吐し、へたり込んだメルサはポロポロと涙を流しながら小刻みな過呼吸を繰り返した。


「ああ、可哀想に!」


 眉を下げた支配者は、心底からそう思っているようだった。


「ジャイルズくん、気分を鎮静するハーブティーを彼らに。オキシトシンのサプリメントも用意を」


 メルサを助け起こしながら、「あれときみたちは違います」と目を細める。


「共和国は、優秀な人材を確保するために労を惜しみません。ぜひ誇ってください。ハウンドとして使役するよりも有用だと総督府に認めさせた、類まれなるご自分の才を」


 促されても、メルサは立ち上がれなかった。キリルは「あ、兄貴と姉さんは……?」と息も絶え絶えに尋ねた。


「お、一昨年首席で卒業したイーナス・カザンチェフは? 試験に受かって、評議会の事務として働いているはずです。六年前に卒業したキウマルスも、警官隊に就職したはず。他の兄姉たちもみんな、集団就職先の工場で働いてるって教わったんです……! おふくろも親父も、ずっと帰りを待ってるんです!」


「二年前と六年前ですか」


 ハロルドが振り向くまでもなく、バインダーを開いたジャイルズは片眉を上げた。


「ええと、……聖顕歴イニティウム1925年度卒業生、32名全員に転変処置完了。1921年度卒業生は、一名を除いて卒業時に処置済み。その一名も二ヶ月遅れで、転変処置を施されている」


「嘘だ‼」


 淡々と告げられた記録に、少年は絶叫した。


「イーナス姉さんは兄姉で一番賢かった! 評議会に就職が決まった時、一族みんな泣いて喜んだんだ! おれよりガタイがいいマルス兄貴は、クープ警官隊で今も働いてるはずだ。間違いない。間違いなんてない……! だってそうじゃなきゃ、そうじゃなきゃおれたちは、何のために……!」


 七歳から十六歳まで、実に九年。死と隣合わせの箱庭に押し込められた子どもたちは、勤労という名の強制労働で身を削りつつ、過酷なカリキュラムをこなすことを求められた。指導は鞭、二度の落第で失格。卒業を迎えるまでにどれほどの努力と忍耐を要するか、キリルはよく知っていた。


 卒業式は向日葵の咲く夏の盛り。角帽とローブを身に着け、受け取ったばかりの証書をたずさえて、夏空を背に晴れ晴れしく別れの手を振る彼らの姿を覚えている。


 卒業生たちはその足で、総督府に向かわされた。おそらく、総督から訓示を頂けるとかもっともらしい説明を受けて。初めて昇殿を許された白亜の城にまごつきながら、集団就職先の工場への不安と期待を語る彼らは、このシャワー室に通された。


 そうしてひとり残らず、赤い水で溶かされたのだ。


「こんなの、バカみたいじゃねえかよ……! 九年だぞ! 何のために、何のためにみんな、あれほど……!」


 夢に見るほど願った、壁の外。ギムナジウムの小鳥たちは正気を失った獣に造り変えられてようやく、この箱庭から出ることを許された。


 肺いっぱいに満ちた慟哭は、声帯の容量をたやすく超えた。少年は声にならない叫びを喉に詰まらせて、両のこぶしを握ってうずくまった。


「ここだけの話なのですが」


 口元に人差し指を立てたハロルドは、誰かが聞き耳を澄ませているかのように小声で言った。


「第三国民であるギムナジウム生の進路は、正式な雇用契約ではないのです。キリルくんも色々な書類に署名したでしょうが、あれらはダミーです。集団就職先の工場も存在しません。全て嘘です」


 穏やかな空色の双眸には、わずかな良心の呵責も現れなかった。ごく当たり前の常識を語るような表情に、キリルは自分の絶望が過ちなのではないかと錯覚した。


「クープ警官隊をいくら探しても、お兄さんは見当たらなかったでしょう? 一年以上勤めたトゥラン人隊員って、いらっしゃらないんですよ。あくまで彼らの役目は予備で、ハウンドの供給要請があれば優先的に処置を施される対象者ですから」


 白い象牙の杖に両手を置いて、箱庭の支配者はゆったりと微笑んだ。


「つまりトゥランの子どもたちの宿命さだめとは、ハウンドとなることだけ。クライノート・ギムナジウムという校名……実はわたしが名付けたのですが、我ながらピッタリだと思ってるんです。無力な人の身から強靭な肉体に変わり、世界の平和を守る崇高な兵器……まさに、クープが生み出した特別な『宝石クライノート』と呼ぶのが相応ふさわしい」


 少年はもはや、呆然と床を見つめることしかできなかった。浅い呼吸を苦しげに繰り返すメルサの嗚咽だけが響く。


 力なく座り込んだ少年少女を前に、ハロルドは「さて、明日から忙しくなりますよ!」と手を叩いた。


「才溢れる皆さんをハウンドにすることはありません。その代わり、今夜は老いぼれのお茶会に付き合ってください! さあ、好きなだけおやつを食べて! 今、学校で流行ってるものは? 一番人気の歌手は誰? おっとジャイルズくん、いつまでレディーを抱きしめているつもりですか?」


「ええ~? そんな趣味はないんですがねえ」


 不満げに口をとがらせた秘書官に、高官たちはグラスを傾けながらクスクス笑った。


 かくして、エルを戒める腕は外された。猿轡さるぐつわも抜き取られる。


「……」


 ゆらり。わずかによろめいた赤毛の下の耳は、語られる全ての言葉を静かに聴いていた。大きな猫目は凪いだ湖面のごとく、目前で起こる何もかもを見つめていた。


 その小さな浅黒い手は、何も迷わなかった。


「失礼、文官」


「ん?」


 ジャイルズが持つバインダーが、ひょいと横から抜き取られる。


 少し傾いて書類に目を落とすエルは、ちょっとつづりを確認したいんですと言う態度だった。何をするのか無防備に眺める男の目前で、しかし、サインしたばかりの雇用契約書は三枚とも勢いよく破り捨てられた。


「あ、……ああっ⁉︎」


 ジャイルズは空っぽになった腕と少女を三度見した。目前でハラハラと舞う上質紙を見て、遅れて事態を理解する。


「お前! 総督がサイン済みの公文書だぞ⁉ こんなことしてタダで済むと思っ……」


 固く握った拳が、男の鼻にめりこむ。


 少女が放った一撃は、誰ひとりとして止められなかった。


 談笑は止んだ。ぽかんと口を開けた人々の頭上で、鼻血が綺麗な放物線を描いていく。吹き飛ばされたジャイルズは、床置きの地球儀に後頭部をぶつけて白目を剥いた。


「……何が、そんなに可笑おかしいのよ」


 キリルが呆然と見上げたペリドットは、煌々と燃えていた。


 輝かしいというよりは、前に立つ者を灰にせんばかりの火勢。あれほど打ちひしがれていた苦悩は完全に消失し、肩を怒らせ拳を握り、真っすぐにハロルドを見据え立つ。


「言ってみなさいよ。人を踏みにじることの、何がそんなに面白いのか」


 血で汚れたブーツが一歩、前に出る。


「この害獣が!」


 短鞭を手に歯を剥き出して詰め寄った高等文官が喰らったのは、顎下への強烈な頭突き。折れた前歯が弾け飛ぶ。


「卑劣な嘘を吐いておいて、なぜ、恥を知らずにいられるのか……」


 ふたりの文官が左右から挟撃を仕掛ける。小柄な少女は驚異的な握力で男たちの後頭部を鷲掴むと、互いの額にかち当てた。


 額の割れた敵がずるりと崩れ落ちていく時も、気絶した身体を踏み越える時も、視線はずっとハロルドを離さない。


「命を虚仮こけにして、なぜ笑えるのか‼」


 たったひとりの丸腰の反乱である。勝ち目などなく、後には当然、処刑が待つのみの自殺行為。だがその傲然とした激怒は、果敢はかない抵抗にはまるで見えなかった。


 キリルが似ていると感じたのは、雨季と乾季の境目、見渡す限りの草原に天が撃つ千の雷鳴。


「エル、お前……」


 オリーブ色の双眸に、熱い涙の膜が張る。

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