第64話 種落つ荒野(2)

 ハロルドの命に従って、ジャイルズ文官は窓横から伸びるタッセル付きの組紐を引っ張った。背面にコードが通されているのか、赤いベルベットのカーテンがスルスルと横に開かれていく。


 カーテンが隠していたのは、大きなガラス窓だった。一面の真っ暗闇に、テーブルに並べられた菓子が鏡のように反射する。


 突然、視界を焼くほど明るい照明に照らし出され、子どもたちは目を覆った。


 窓の向こうは屋外ではなく、コンクリートが張られた正方形の部屋だった。床はこの部屋から見下ろして一階層下。二階部分をぶち抜いた天井をパイプが這い、シャワーヘッドのような口が等間隔に頭をもたげ、壁には大きなタンクが備え付けられていた。床のあちこちには黒々とした沁みが滲み、中央には大きな排水溝が口を開ける。


「グズグズするな!」


 打ちっぱなしの部屋に男の怒号が響いた。兵士の銃床でこずかれてまろび出たのは、子どもたちにはよく見知った顔。


 今年十一歳になる五年生の双子、ナヴィドとマーニーだ。コートを着たままのふたりの少年少女は、ガチガチと歯を鳴らしながら部屋の中央に立たされた。


「ど、どうして?」


 長らく言葉を失っていたエルが呆然と尋ねた。「どうしてあの子たちはここに?」


「夜更けに出歩いてるところを夜警が検挙した。外出禁止令、青少年健全育成条例の違反だ」


 ジャイルズは顔を見ずに答えた。


「な、何かの間違いです! ふたりとも、そんなことする子じゃありません! だってナヴィドは大の怖がりで、マーニーは夜にひとりでトイレにも行けない子なんです!」


 今から何が行われるのか、この部屋が何のために作られた空間なのか、全くわからない。だが、ココアを飲ませて温かく歓待しようというわけでないことは確かだ。


 同じく呆然としたメルサが「ああっ!」と声を上げた。


「メ、メルサ、マーニーに、今夜エルが皇帝と駆け落ちするよって言っちゃった……」


 エルとキリルが息を呑む。瞬く間に青ざめた少女は頬に爪を立て、二つ結びの頭を振った。


「ち、違うの。メルサはただ、推理を披露したかっただけ。いつもみたいに、笑っておしまいのつもりだったの。まさか、本気にするなんて思わなかった。夜中に抜け出すなんて、思いもしなかった……!」


 エルは愕然と呼吸を止め、ややあって唇を噛んだ。


 なんてことだ。それならこれは、……これも、エル・スミスのせいだ。


「総督閣下」俯いた赤毛の少女が、張り詰めた声で呼ぶ。


「先程のご提案にひとつ、条件をつけたいのですが」


「ああ、レディー・エル!」


 応じたハロルドは満面の笑みだった。


「よかった。元気がないから心配していました! さあさあどうぞ、お掛けください」と、手ずから椅子を引いて促す。


「ココアもチョコレートも、熱々のピーチコブラーもありますよ。エンジェルケーキを召し上がったことは? わたしはこのふわふわのココナツケーキに目がないんです。若い女性に人気のソーダファウンテンみたいに、アップルサイダーやエッグクリームをお作りすることもできますよ」


 片っ端から皿を差し出しながら、片眼鏡の下で空色の瞳が微笑む。


「何でもご用意します。きみがほしいものなら、何なりと」


 引かれた椅子にも色とりどりの甘味にも、少女の頬は微動だにしなかった。


「あたしたちが閣下の部下となる代わりに、あそこのふたりの助命をお約束ください」


「いいですとも」


 箱庭の支配者はあっさりと頷いた。「ジャイルズくん。ペンとインクを彼らに」


 独断専行。とはいえ、キリルにもメルサにも否やはなかった。元よりふたりとも、クイーンの判断に委ねるつもりである。


 重厚な椅子に腰を下ろして万年筆を手に取り、それぞれの氏名を共用語の綴りで記すと、すかさずジャイルズが船型のブロッターを転がしてインクを吸い取った。


「三名とも、しかと」


 内容を確認した文官は、剃りが甘い頬をニヤリと吊り上げて子どもたちを見下ろした。「助かるぜ、やっと新人扱いからおさらばだ。すぐに手続きを済ませよう」


 これでよかったのかは分からない。だが少なくとも、自分のせいでさらに命を失うことは避けられた。ついさっき目前で聞いたばかりの銃声が鼓膜に蘇り、エルは制服をくしゃりと握りしめた。


 こうなってしまったら速やかに能力を示して、必要な人材だと認めさせよう。巻き込んでしまったメルサとキリルの身の安全を、何としても保証してもらうために――暗い眼差しで眼下の部屋を見下ろしていた赤毛頭は、兵士がふたりの子どもに目隠しをしたのを、見咎みとがめた。


 助命を約束したはずなのに、なぜ目隠しを?


「閣下、あの?」


 同じく部屋を見下ろすハロルドは微笑みをたたえたまま、返事をしなかった。


 部屋の真ん中で震える子どもを残して、兵士たちは退室していった。錠の落ちる音が響く。


 間もなく、天井から血のように真っ赤な水が勢いよく放出された。


 窓にかじりついた三対の翠眼は、息を止めていた。あれは何? 静脈血と動脈血が混ざったような濃淡のある、あの赤い液体は? 何もわからないがとにかく、人が触れたらタダでは済まないものだということだけは、すぐに知れた。


 赤い水が触れた瞬間、ウールのコートが湯気を立てて蒸発する。


 幼い絶叫は、高所のガラス窓を揺らした。


「嘘つき‼︎」


 飛びかかろうとした少女は、後ろからジャイルズに羽交い締めにされた。噛みついて抵抗しようとすれば、用意のいいことに布を噛まされる。


「そのまま抑えていてください、ジャイルズくん。暴れてはレディーが怪我をしてしまいますから」


 高等文官たちはブランデーグラスを手に、階下を覗き込んでいた。


「おお、いつ見ても圧巻だな!」


「こんなショーを楽しめるのはここだけだ!」


 優しい労りはすっかり拭い去られ、愉悦と興奮を剥き出しにした顔は、いつもの彼らである。


 眼下の正方形はもはや、床が見えているところが少ないほど真っ赤に染まった。ふたりの子どもの身体は、ほんの数秒で見るも無惨に変わり果てた。


「ウウウ! ウウーッ!」


 エルは肩で息をして唸り声を上げた。眼で射殺いころさんとばかりに睨むペリドットを前に、ハロルドは「大丈夫ですよ」と幼子をあやすように宥めた。


「あのシャワーは命を奪うことはありません。むしろ新しく、と言っていいでしょう」


 片眉を上げた空色の瞳が、興味深そうに下を示す。「ほら、ごらんなさい」


 液体の放出がまもなく止む。真っ赤な海の中、息を引き取ったはずの幼い身体は突然、ビクリ! と跳ねた。


 海老のように背骨が丸まり、皮膚が膨れ上がっていく。耳が腐り落ちる。関節は増殖し、複雑に折れながらバキバキと伸縮を繰り返す。


 ――何が起きている?


 見開かれて小動こゆるぎもできない翠眼のもと、蒸気を上げながら、グロテスクな変化は止まらずに上演されていく。


 鎖骨は消失した。肩甲骨は垂直になり、肩関節が前に突き出した。骨盤が縮小し、踵骨しょうこつはメキメキと伸びて長大な踵となる。額はバキリと縦に割れ、後頭部に向かって矢羽の形に伸びた。


 まだらに毛髪の抜け落ちた頭頂部から、真っ白な毛が一気に生えた。長い毛は額、首筋、肩の順にすべての体表を覆っていき、腰に至ったあたりで、頭の天辺てっぺんで一対の耳がピンと立ち上がった。


 白い体毛に埋め尽くされた獣は、身体を震わせると口から赤黒いものを吐き出した。床に零れたのは、人間の子どもの歯。獣が耳横まで開口するその捕食器を開ければ、二列の鋭い肉食獣の牙が覗く。


 真っ赤な水たまりの中で震えるのは、二体の汎用型猛獣兵器、ハウンドだった。

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