第9章

第63話 種落つ荒野(1)

 1836年。レムリア大陸中央部にて、白毛に覆われた狡猾で残忍な獣が発見された。狼狩りに使われていた在来種と交配させたところ、驚くほど忠実な犬種が作り出された。当初は護畜犬として用いられたが、トゥラン大戦でメッセンジャーとして投入されたことを契機に、ガスマスクを装備した塹壕戦、パラシュート降下、あらゆる軍事行動に帯同する軍用犬となった。彼らを使役する兵士はハンドラーと呼ばれ、1901年、共和国陸軍はハンドラーのみを組織したブレイク部隊を発足ほっそくした。(「改訂版 ハウンドの歴史」より)

 

 鍛冶始めの月トバルカインの下旬は、春待つ薔薇祭りの季節。


 例年この時期には、フェルゼ広場は陽気なカーニバル飾りで彩られるものである。縞模様のピエロに仮想した人々が街を練り歩き、道行く見知らぬ誰かとキスをする。底抜けに明るいパレードはお祭り好きなヴァルトでも特に盛り上がるイベントだったが、今年に限ってはお決まりのハリボテ人形もキャンディー飾りも出ていなかった。


 護送車を降りた子どもたちを出迎えたのは、白い歯を見せた壮年の金髪偉丈夫の笑顔。総督府前の広場は、二大政党の大統領候補者たちの大きなポスターがライトアップされていた。現職を務める連邦民主党のアダム・チャイルドと、国民統一党のオーウェン・グレイの一騎打ちである。


 月末に控えるベルチェスター大統領選挙への意気込みを本国に示そうと、クープ評議会は薔薇祭りのを提案した。拒否権などない市民は、カラフルな風船の代わりに馴染みのない政治家の肖像写真を拝むこととなった。


 もちろん国民選挙といえども、二等三等の人々に投票権はない。


 階段を登れば、漆黒のボディに金メッキが施されたロートアイアン製の総督府門がそびえ立つ。中央にはベルチェスター国章、左右には百合を模したガスランタンを備えたデコラティブな門は、霧立ち込める厳寒の夜にも輝かしい威容を誇っていた。


「……」


 無言で俯いたままのクイーンを左右から支え、兵士に導かれたキリルとメルサは壮麗な白亜の建造物に足を踏み入れた。


 水蒸気式セントラルヒーティングが張り巡らされた館内は、外の寒さがジョークのように暖かかった。飴色に艶めく両開きのマホガニー扉を開ければ、視界に飛び込むのはテーブルのうえに山と盛られた甘い菓子。


「やあ、いらっしゃい!」


 大きな赤いカーテンを前に、背を向けていた初老の男が振り向く。


 ヴァルト州総督ハロルド・ウェリントン――ガンクラブチェック模様の上質なスーツにナイトガウンを羽織った老紳士は、「寒かったでしょう!」と空色の瞳をキラキラさせた。


「ココアはお好きですか? もう夜遅いけど、今日は特別。好きなだけマシュマロを載せていいですよ!」


 彼のほかに室内にいるのは、数名の高等文官と警備兵。ハロルドが兵士に目配せすれば、子どもたちから手錠が外された。


 マシュマロ入りのココアなんて、お祭りの時にしか味わえないごちそうである。メルサは感激の息を飲んだが、キリルはピクリと目元を引きらせ、飛びつこうとする下級生の肩を左手で制した。


「総督閣下」と右手でベルチェスター流の礼をする。


「発言をお許し頂いてもよろしいでしょうか」


「もちろん、キリルくん。でもその前に腰掛けて、チョコレートをおひとつどうかな?」


 おれの名前を知っているだと? ますます警戒を強めた少年は、両手を後ろに組んで堂々と顎を上げた。


「……なんて報告をお聞きか存じませんが、おれたちは脱走を企ててなんかいやしません」


 クープの王侯貴族相手に、大嘘をかますことを試みる。少年は早鐘を打つ心臓を抑えこみ、「実は期末の掃除で、音が出る花火を倉庫で見つけたんです」ともっともらしく肩を竦めてみせた。


人気ひとけがない場所でこっそり楽しもうとしただけなのに、こんなことに。偽造ID証が地面に落ちてることなんて、ブレイク隊に言われるまで気づきもしませんでした。外出禁止令を破ったことについては深く反省しています。もう二度と羽目を外したりせず、連邦共和国のために勤勉勤労に励むと誓います」


「きみのお父さまは危篤だとか」


 差し挟まれた情報に、キリルは苦虫を噛み潰した顔をした。ハロルドは「ああ、誤解しないで」と慌てて手のひらをかざす。


「脱走を咎めるために呼んだわけではありません。愛する家族が命の危機だと聞けば、会いに行きたいと考えるのは自然なこと。それなのに幼い命を散らさないといけないだなんて、あんまりではないですか。きみたち三名の優秀さなら、総督府も把握しています」


 老人は、片眼鏡の奥の目を悲しげに曇らせた。「レディー・シャロンも、前途有望な子だったのに」


 奥から進み出た文官が、バインダーから用紙を取り出してテーブルに並べた。少しタレ目の彼は、いつも総督の隣に控える無精髭の男である。


「映画はお好きですか?」


 正面の席に腰掛けたハロルドが、意図のわからぬ質問をニッコリ投げかけた。


「『灼熱砂漠のオーガスタ』を観たことは? 和平工作のために身分を隠して異民族に飛び込み、信頼を勝ち得ていく若き少尉……わたしもこんな仕事をしてみたいと思ったものです。さて、オーガスタ少尉の職務は諜報員。あれはフィクションですが、時としておとぎ話よりも現実離れしているのがリアルというもの。実はきみたちは総督直属の諜報員で、今夜もその仕事をしていた。そういう物語はいかがでしょう?」


 差し出されたのは、三枚の雇用契約書だった。すでに雇用主であるハロルドのサインが施され、あとは当人の署名を待つばかりとなっている。内容を速読で確かめたキリルが無言で目を合わせると、ハロルドは「もちろん、無理にとは言いません」と両手を上げた。


「しかし併合州の統治を定めたローザント法規定では、脱走企図は極刑。州総督といえども、しょせんは中間管理職。本国議会が制定した法を破るのは難しいのです」


 つまりハロルド直属の配下になれば、助命する。断れば規定通り、処刑ということである。


「……おれたちみたいなガキに務まる仕事が、総督府にあるとは思えません」


「それは自分の可能性を見くびっていますよ、キリルくん」


 微笑んだ老紳士は、壁に掛けられた巨大な世界地図を見上げた。


「平和な新世紀となって早28年。世間の潮流は変わり、議会も併合地域との宥和政策に舵を切りました。しかし手を取り合おうにも、わたしたちは血を流しすぎました。特にトゥランの人々に強いた犠牲は、あまりにむごい」


 ハロルドは悲痛な顔をし、悲しみを癒やすようにマシュマロがたっぷり盛られたココアに口を付けた。横に控える高等文官たちも、眉を下げた優しげな微笑を浮かべて子どもたちを眺めている。


 今、なんて言った? キリルは信じがたいものを見る顔で州総督を凝視した。誰が誰に犠牲を強いたって?


 彼は、子どもをことごとく供出させられたカザンチェフ夫妻にとって最後に残された末息子だった。兄を奪われ、姉を奪われ、二度と帰れない場所に向かう友人を何人も見送ってきた少年からすれば、遅すぎる懺悔など、まったく悪趣味なジョークとしか思えなかった。


 張り詰めた表情のキリルに、ハロルドは「きみの気持ちはよく分かります」と頷いた。


「謝罪など、何を今さらとお思いでしょう。取り返しのつかないものが、いくつも失われてしまったのですから。抑圧していた手を緩めたら、かえって怒りが噴き上がるのも当然。でもわたしたちは未来のために、いつか分かり合わなくてはいけないのです。そんな時、共和国とトゥランの架け橋になる人材がいてくれれば、無益な血を避けられるかもしれないと思いませんか?」


 指先を組んだ支配者の澄んだ眼差しが煌めく。


「人の心を変えるのは暴力ではなく、言葉」


 キリルは淡い虹のように光る両眼から、目が離せなかった。


「老いぼれの夢だと、笑って頂いても構いません。けれどわたしは、きみたちの仕事が実を結んだ時に、レムリア大陸はきっと目にすることができると信じています。全ての人々が愛し合い、平等に暮らせる夜明けの世界を。プロパガンダではなく、本当にね」


 右手で「諜報員としての研修は、そこのジャイルズ・ホッパー二等文官が行います。きちんと教育しますので安心してください」と示せば、タレ目の文官は眠そうな顔でバインダーを持った腕をひょいと上げた。


「……」


 何とか視線を剥がした少年は、自分の心が揺さぶられる振動を感じていた。テーブルの下でグッと膝を握りしめる。


 ベルチェスターは許せない。できることなら全員八つ裂きにしてやりたい。でも……仲間や家族が誰にも踏みにじられず、堂々と生きられる未来があり得るのなら。本当にそんな日が来るのなら、この憎しみは飲み干して、一生胃の腑に収めたままでも構わなかった。


 これは、人生を賭けるに値する大仕事である。一等国民に復讐して処刑されるより、よほど。


 だがな、と高揚の中でも明晰なオリーブの双眸が雇用契約書を睨んだ。……話が上手うますぎないか?


「あのう、これにサインしちゃったら、ギムナジウムに戻ることはできませんか?」


 恐る恐る挙手をしたメルサが尋ねた。


「あたし合唱クラブで、次の演奏会にソプラノのソロをもらったんです。あたしがいなければ二位のマーニーになるけど、あの子上がり症で、手を繋いでないと歌えないんです」


「おや、それは」


 ハロルドは微笑ましげに目を開いてから、「……残念ですが、もう学校に帰ることはできません」と眉を下げた。


「修了相当の授業も受けられるように手配しましょう。合唱クラブのことは、本当にごめんなさい。きみたちだから明かしますが、クライノート・ギムナジウムは、卒業してものです」


「……先がない?」


 どういう意味だろう? いぶかしく眉を寄せたふたりの真ん中でようやく、赤毛頭もぴくりと反応した。


「そうだ、いい機会だからご覧に入れましょうか。ジャイルズくん」

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