第62話 極夜行路(9)

 ――聖顕歴イニティウム1927、レーベンスタット・クープ


 大人と子どもで分かれて乗車させられたそのバスは艶消しの漆黒ボディで、座席は用意されていなかった。鉄製の壁が運転席と荷台を仕切り、同素材の床は皮膚がくっつきそうに凍てついている。鉄板に座らせられ、お世辞にも滑らかとは言えない石畳の道を走れば身体が跳ねた。


 窓は目張りされていたが、たとえ外が見えるようになっていたとしても目的地を確かめる気力のある者はいなかった。向かう先は再教育センターかあるいは公開処刑場か、いずれにせよ、待つのは速やかな死という点に変わりはない。


「……」


 俯いたエルがどんな顔をしているかは、巻き毛に隠れて見えない。親友の血のついた指先を見下ろしたままピクリとも動かない赤毛頭を、キリルは縋る眼差しで、メルサはしゃっくりが出るほど大泣きをしながら見つめていた。


 不意に甲高い音を上げ、急ブレーキがかけられた。荷物の安全など考えていない制動に、手錠でいましめられた子どもたちがつんのめる。


「何をしている、護送中だぞ!」


 車の前に何らかの障害が現れたらしい。怒鳴りながら運転手が降車すると、たちまち鈍い打撃音がした。呻き声とともに、重たい何かが崩れ落ちる。


「立ってください。エルさん、ふたりと共にただちに隠れ街ハイドアウトへ」


 堅く閉ざされた檻の扉を押し開いて現れたのは、顔に傷のある銀髪の青年だった。


 この男は、ブレイクの副隊長である。それについ先刻、シャロン・ミルザリエを射殺した張本人。身を固くした子どもたちに構わず、「間もなく地下にも摘発の手が伸びます。時間を稼ぎますので、ゲルハルトさんの指示に従って」と、ロスは外を確かめながら横顔で右手首の腕時計を示した。


「近づかないで」


 その声の冷たさは、全員の呼吸を止めさせた。


 闇の中、ゆっくりと立ち上がったペリドットは、かつて見たことのないくらい輝きでギラギラ光っていた。


「よくもぬけぬけと、あたしの前に顔を出せたわね。ひとりの女の子は撃ち殺しておいて、また別のひとりは命を救うって? ……何それ。吐き気がする」


 それは長い付き合いのキリルもメルサも、知らないエルの顔だった。全く彼らのクイーンらしくない、火傷しそうに冷たく暗い怒り。


「エルさん」


「時計の針を戻せるのなら引っぱたいてやりたいわ。その勘違いした顔を」


 逆立つ赤毛は、ロスの発言を許さない。


「たしかにあなたは、大義を背負ってるわ。王の守護者もトゥランの再興も、誰が聞いたって立派なお役目。レジスタンス仲間はきっと、よくやったって言うでしょう。大義のためなら三等国民の子どもの命なんて、ちっぽけなものでしょうから。……でもあたしは絶対に、許さない!」


 固く握り込んだ拳が、皮膚に爪を立てる。


「勝手に戦えばいい! ご立派な大義を掲げて、クソの役にも立たない王を探していればいい! 足元のささやかな命を、仕方ないって踏みにじりながら! でも、これだけは覚えておいて……! たとえあたしたちがみんな死のうが! この世界が滅びようが! シャロンの命と引き換えにしていいものなんて、ひとつもないのよ‼」


 声を張り上げながらも、エルは理解していた。


 ロスは間違ってもやりたくなんてなかったこと。叶うことなら放り出したかったのに、エルを救うために手を汚したのだということ。選択肢がない彼に残酷な仕事を強いたのは、他でもないエル自身であること。


 だがそれを理解してどうするのだろう? シャロンの親友である自分が彼女を殺した相手の肩を叩いて、辛かったねと慰めるって? 助けてくれてありがとうと、お礼を言うって?


 こんなのあんまりだと、大泣きの司書たちが訴えていた。だってあと一年で、シャロンは卒業だった。立派な成績を持って、晴れ晴れしくゲートの外まで自分の足で歩いていって、家族と抱きしめ合うはずだった。それが友人を案じたばかりに、冬の真夜中に路上で撃ち殺され、素っ気ない棺桶で送り届けられる顛末だ。


 エルが何をどれだけ支払おうが、彼女の物語は終わってしまったのだ。


 理解など一切、示してはならない。憎まなくてはならない。たとえ糾弾するたびに、自己嫌悪で胃がひっくり返りそうだとしても。もうエルが差し出せる誠意は、これしかないのだから。


「あなたは世界一の大バカ者だわ! なんで、あの子を撃ったのよ……! あの子はただ、向こう見ずなあたしを止めにきただけだった! あそこで死ぬべき人間はあの子じゃなかった! あなたに、それがわからないはずないのに!」


 ロスにあやまちがあるとしたら、突きつけられた天秤を選び取る損な役目を受けてしまったことだった。命が載せられた天秤は、それ自体が間違いだ。そんな命題を強いた者こそが、罰を受けるべきなのだ。


 つまり選択を誤り、賭けに負けたエル・スミスの心臓こそを、ピストルで撃ち抜いてくれればよかったのに。


 エルが言いたいことは結局、それだった。甘ったれた本音にえずきそうになり、前歯の形に血が滲むほど唇を噛み締める。


「彼女は」


 ロスは何かを言おうとしたが、不意に口をパクパクさせた。それは透明な手が、青年の喉から声を剥ぎ取ったかのよう。いぶかしく見上げる子どもたちを前に、顔をしかめたロスが不満げに両手を挙げると、声は取り戻された。


「……エルさん、見誤らないで。世界はあなたを罠にめたようですが、同時に真実をも伝えているはずです」


 もうたくさんだ。知った口を叩かれるのも、まだ期待されるのも。


「いい加減にして!」


 青年に向かって掌中のものを投げつける。


 キリルに渡そうとして受け取ってもらえなかった導きのトゥール。胸に跳ね返って金属の床に落ちた黄金の鍵を見たロスは、まるで平手打ちをされたような顔をした。


 傷ついた表情に息が詰まったが、それでいい。嫌われるべきなのだ。彼がどれだけこの鍵を大事に扱ってきたのかよく知っている。献身を仇で返したバカな子どもだと失望されるのが、自分に対するせめてもの罰だ。


「これはあなたのものです」


 ロスは拾い上げて片膝をつき、辛抱強くさとした。


「無理に使おうとしなくてもいい。ただのペンダントでいいから、どうか最後までお傍に置いてください。必ず、王の力になりますから」


「嘘つき‼」


 肩を押して突き飛ばした。


 クソ喰らえだ。黄金の鍵も、真っすぐな銀の瞳も、何もかも。


「……あたしは、王じゃない」


 声はなみなみ注いだ熱湯のように、熱く張り詰めていた。拳を握って俯いた肩は小刻みに震えていた。


 渾身の力で押し出されようが微動だにしなかったロスは、その震えには息を呑んだ。


「大事なものならいつも、取り上げられてきた……。守れたことなんてない。仕返しできたこともない。勝つどころか勝負にもならずに、ぶちのめされて転がってきただけ。できることはせいぜい、バカげた世界に向かってキャンキャンわめくくらい。負け犬の言うことなんて、誰も聞いちゃいないのに」


 ……白状すれば、エル・スミスという十四才の少女はずっと、家族がなぶり殺された白樺の柱時計の中にいた。


 友が八つ裂きになった血の海の畜舎で佇んでいた。錠を下ろされた地下貯蔵庫セラーで、祖母の作品を愚弄されたのに言い返すこともできず、樹木粉の上で膝を抱えていた。


 振り上げたかった拳や主張したかった声を、何もかもよく記憶してしまう脳に抱えてひとつも忘れられないまま、一歩も動けずに生きてきた。


「こんなにみっともない王がいる? いつも負けてばかりで、全部取られてばかりのグズが? 生まれてこないって選択肢が一番、誰も死なさずに済んだ疫病神が? ……いるわけない。いていいわけがない……!」


 声を震わせながら、唇を噛んだ顔が上げられる。


「この無様な役立たずが、王であるはずがない‼」


 一対のペリドットから溢れた熱いものが、少女の頬を伝った。


 ロスは稲妻を受けたように立ち尽くした。


「エルさん、涙が」


 赤毛で隠し、間髪を入れずに答える。「泣いてない」


「いいえ、でも」


「どうでもいいでしょそんなこと!」


 涙を流す資格など、自分にはなかった。まつ毛が抜けるほど乱暴に拭って、後ろ向きに扉を指差す。


「出ていってください」


 唇を噛み締めなければ嗚咽が漏れそうなぐちゃぐちゃの頭で、エルはやっと理解した。


 耳の中で聞こえて離れなかったあの時計の音は、この役立たずと呪う声だった。


 軍人たちのブーツが粉々に踏み割ったジャムの瓶のように、自分はとっくの昔に、砕かれていたのだ。


 世界で一番殴り飛ばしたいのは、村を襲った十二連隊でも、ベルチェスターの首相でも高等文官でもない。エル・スミスがいっとう大嫌いなのは、エル・スミス自身。


 彼女は愛する家族が踏みにじられている最中、ただ泣き喚くだけで何の役にも立たなかった自分に、心底ガッカリした。役立たずの赤毛娘のことを、反吐へどが出るほど軽蔑したのだった。


 生き残ってしまったこの恥知らずに、相応ふさわしい罰を与えよう。


 何人も身代わりにした分だけ、他の誰かの身代わりになろう。


 残酷な責め苦と同じ量だけ、この身体を痛めつけよう。


 そうでなくては、帳尻が合わない。


 だというのに今日またひとつ、エル・スミスは大きな負債を背負ってしまった。治癒しないまま壊死した大きな穴の隣に同じだけ大きな穴を開けて、動静脈いっぱいの血が溢れている。


 今度こそもう二度と、立ち上がることはできないだろう。


「出会わなければよかった、あなたとなんて。記憶を全部白紙にして、何もかもなかったことにしたいくらい。……嫌い。大嫌いよ、ロス・キースリング少佐」


 真っ赤な嘘。舌が苦すぎて顔を上げることもできない。震えようとする喉を抑え、努めて平気そうに言い放つ。


「鍵のこともカフェのことも、あなたのことも金輪際、綺麗さっぱり忘れるわ。あなたもそうしてください。それで、二度とあたしの前に現れないで」


 知っている。こんな宣言をしなくても、もう会えない。これがお別れだ。ロスは限りある命に鞭打って、エルを救うために駆けつけてくれたのだから。


 本当は、返したかったの。毎年届くバースデーカードが支えだったこと。いつだってこちらを優しく見つめる眼差しに、最果ての家族を思い出していたこと。どれほど弱音を吐こうがびくともしない信頼が、もう一度自分を信じてみようという気にさせたこと。


 与えてもらえた愛をありったけ返して、飽きるほどの夏をあなたに贈りたかったのに。


「エルさん」


 扉から差し込んだその声に、固く閉ざされていたペリドットははたと見開かれた。


 なじられてなお青年が滲ませるのは、どこまでも温かな親愛だけだった。


「これまであなたには、この種の助言はしてきませんでした。……ほんとはよくご存知のはずなんです。だって実をいうとこれも、エルさんからおれが教えてもらったことなんですから」


 そんな記憶はなかった。しかしロスは、まるで思い出が床に転がっているとでも言うようにつか目を伏せると、あの真っすぐな眼差しで微笑んだ。


 チタンフレームの奥、銀の双眸に赤毛の少女が映る。


「難しいことはなし。ただ目を開けて、振り向くだけでいい。あなたが一歩ずつどうやって歩いてきたのかは、明白な事実としてそこにある。本人が否定しようが蹴飛ばそうが、他の全ての目が覚えている」


 ロスはここで「ええ、生涯忘れませんよ」と相好そうごうを崩した。


「あなたという人に制止は無意味だし、心配したって聞かないことを、あの日におれは学びました。誇り高さについてなら、もっとずっと前に。……だからねエルさん、おれがここで何を語ろうが、あなたはどうせすぐ思い出すんです」


 青年が見せたのは、闇夜には場違いなほど眩しそうな笑みだった。


「自分を呪うのも立ち上がらせるのも、あなた自身なのだということを」


 遠くからサイレンが近づいていた。片目を瞑って悪戯を仕掛けるような微笑みを最後に残すと、金属扉は静かに閉められた。


 ややあって怒号が響く。エンジンがかけられて、再び車が走り出す。銃声が続かないところを察すると、スパイの副隊長は首尾よく逃げおおせたらしい。


 立ち尽くしたままだった脚が大きくよろめいて、凍てついた床に膝をついた。


「……」


 糸が切れたように崩れ落ちたエルの右隣に、メルサは無言で身を寄せた。鼻をすすって涙を拭うと、冷え切った手を小さな両手で握りしめる。


 大号泣の余韻で唇はまだ震えていたが、真っ赤な目をした泣き虫の少女は、ぐっと力をこめてこらえた。キリルも何も言わないままで、ふたりの傍に腰を下ろした。


 やがて目的地に到着した護送車は、軋んだ音を立てて停車した。


「さてと。イカれたスクラップ工場の課外見学といくか」


 目張りされた小さな窓を見上げてふてぶてしく言った少年に、「違うよ」と顔の下から声がかかる。


「ここ、センターじゃない」


 壁を見つめたメルサはエルの手を握ったまま、外が見えているかのように断言した。眉を寄せたキリルの背後で金属扉が開かれ、今度は見知らぬ兵士の冷たい顔が覗く。


「キリル・カザンチェフ、エル・スミス、メルサ・セラハーニーだな? すみやかに降車しろ」


 軍服の背後には、長い階段が続いていた。肩口から伸びているのは、上限の月に似た弧を描く真っ白な尖塔。


「総督が上でお待ちだ」


 そこは再教育センターでも、フェルゼ広場の公開処刑場でもない。


 六角形の箱庭の中心、総督府であった。



【表紙】

https://kakuyomu.jp/users/biggestnamako/news/16818093082595006239

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