第61話 極夜行路(8)

 短い夏に採れたキッカというベリーのジャムは、トリカにおけるご馳走のひとつである。エルは煮込むと橙色から美しい青紫色に変わるジャムをポポヨラのチーズと食べるのが好きで、この夏も最愛の孫娘のためにヘンナが腕を振るい、たくさんの瓶にアメジスト色のご馳走を詰めた。


 家中を我が物顔で捜索する男たちが、戸棚を引き倒す。けたたましい音を上げながらラベルを張られた瓶が床に散らばり、零れた中身を革のブーツが踏みにじる。


 子ども用の服や靴、木彫りのお姫さまや絵本といった物品はあっという間に暴かれて、老人ばかりのこの家のどこかに女の子が隠されているということは明らかとなった。


 本国からの追手に急かされた彼らの尋問は、相手の生命を保証しない種類のそれだった。柱時計の扉に隔てられたエルには、音と臭いしかわからなかった。つまり枯れ枝を折る音も、水袋を蹴って破裂させる音も、無理やり吐かされた体液の臭いも、絶叫も今際のうわ言も全て、届いてしまった。


「やめて! やめてよ!」


 扉を叩く拳は真っ赤に腫れた。頭突きを繰り返したせいで額は割れ、鼻梁びりょうを伝って血が口に流れ込んだ。


 喉は焼けるように痛み、息を吸えば血が滲む咳ばかりが出る。しかし自分の声が途切れれば家族の悲鳴を聞かねばならないために、叫ぶのを止めることはできなかった。


「お願い! 何だってするから!」


 軍用ブーツの硬く尖ったつま先が家族の内臓を破裂させるたび、エルの胃もひっくり返った。骨が砕かれるたび、エルの四肢も悲鳴を上げた。吐き出すものはとうに失せたというのに、何度目かの胃液がせり上がる。涙で掠れる視界で、開かない扉に声を張り続ける。


「赤毛の娘はここ! ここにいるのよ‼」


 エルがどれだけ主張しようと、軍人たちが一生懸命家探ししようと、広間の奥に陣取った振り子時計だけは世界から忘れ去られ、誰も注意を払わなかった。


 十二連隊の尋問手腕は、過酷なイスナシャル戦線仕込みである。野蛮な異大陸の拷問には軍人だろうが到底耐えられるものではなく、初めて前線に出る時には自害用の青酸カリの薬包を部隊長から渡されて新兵が青ざめるというのがお決まりの通過儀礼である。


 だが田舎のポポ飼いたちは、どれほど痛めつけても口を割らなかった。思いがけないその頑固さに、男たちは首を傾げた。


 ニルファルはとりわけて苛烈な目に遭った。彼女が碧眼のトゥラン人であることは彼らの説を裏付けるものであり、必ず財宝の在り処を知っているはずだと集中的に嬲られた。女の分際で仲間をほふったという義憤は殴る拳に大義名分を与えたが、それも形骸化するまでに時を要さなかった。


 彼女は若く、風花の女神のように美しかった。その銀髪と白磁の肌はベルチェスター人にとって特別な意味を持ち、翡翠の虹彩はいかようにも踏みにじっていい対象であることを同時に示していた。つまり、希少レアな戦利品である。


 こうした特別な虜囚に対して、どれほど刺激的な破壊を加えられるかということは、集団内での序列を定めるにあたって重要な要素だった。万が一にも人間らしいいたわりなどを見せて躊躇ためらおうものなら男らしくない腰抜けとされ、あっという間にヒエラルキーの最下層へ落とされる。


 だから彼らにとって、これは勤務後にパブで肩を組んでエールを飲むことと同じ。より正確に称するなら、娼館で狼藉を働くことや、通りすがりの二等国民を路地裏でリンチするのと同じ意味を持った。


 仲間との連帯を強化すること――踏みにじるべきものを共に踏みにじることで彼岸と此岸の境界をより明確にする、少しだけ原始的でこの上なく効果的な儀式。


 つまりは仕事のひとつ。


「うわこいつ、記述病スクリプタだ!」


 裸に剥いたのはずいぶん前だというのに、凌辱と暴力に没頭していた男たちは今更、その薄い背中に生えた異常に気づいたらしかった。


 この世ならざる手が焼け落ちた灰で皮膚に彫り込んだ、誰も読めない文字。肩甲骨の間から首、腰へと次第に広がっていくその奇病は、内臓にも記されて耐え難い苦痛とともに命を奪う。


「おれのコックさんがストライキ起こしちまう!」


 下品なジョークを飛ばしながら、外した革ベルトで女を打つ。ピクニックでもしているかのように陽気な大笑が溢れ、食いしばりすぎたエルの右奥歯はバキリ! と砕けた。


 ――獣の唸り声が聞こえたのは、突然だった。


「おいお前、どうしたんだよ?」


 不思議そうな問いを発した男は、言い終わるかどうかのタイミングで、くぐもった呻きを上げた。


 肉食獣に頸動脈を噛まれた鹿と同じ声だった。


 何も見えないエルは、森のクズリかオオカミが乱入したのだと思った。獣の数は一匹。ガチャガチャと銃剣を構える音がしたが、もうすっかり覚えてしまった発砲音は、いつまで経っても聞こえなかった。


 代わりに、獣の足音が増えた。


 柱時計の中にあってはわからないことだったが、暴虐の嵐の果てにとうとう呼吸を止めたニルファルの遺体からは、赤黒い粘性の何かが漏れていた。止めどなく溢れる体液は磁石に引かれる砂鉄が移動するように白樺造りの床へと放射状に拡張し、ほんの一息のうちに、何もかもを掴まんとするがごとく、大きく広げた手と成った。歪で禍々しい光景に、かろうじてまだ目が見えていたヘンナは静かに瞼を下ろした。


 

 植物が生い茂る。手から無数の帯が伸びる。

 伸びた帯は一瞬にして、生きとし生ける全てへと絡みついた。

 そこから先を目にした人間は、誰もいない。

 


 あれほどうるさかった恫喝や嘲弄はパタリと止んだ。聞こえるのはただ獣の足音だけで、混乱したような足取りの獣たちは家の中をバタバタと駆け、やがてガラス製の何かを落として割った。鼻につく魚脂の臭いから、エルはそれがオイルランプであることを悟る。


 ほんの数刻前、静かな宵の風を浴びながら本を読むためにともした灯り。炎は零れた油とともにトリカ織りの敷物を舐め、乾いた白樺の床、壁、梁へと広がっていった。


 済んだ群青色の空に一番星が輝くのは、白夜のトリカにおいて日付が変わる深夜を指す。そうして瞬きの夜明けを経て、また朝が来る。


 薄闇の降りた花咲く丘陵で、スュクス村の里刀自りとじの屋敷は炎に包まれた。ヘンナの祖父の祖父が建て、子孫の営みを永く見守ってきた頑丈な白樺造りの家は、柱ひとつ残さずに全焼した。


 ――ニルノースク王国北領軍の男たちがやってきたのは翌日のこと。


 クーデターの残党が逃げ込んだ、ただちに捕縛するようにという共和国からの強権的な命令に、壮年の大尉は渋面だった。植民地さながらにニルノースクを扱う大国の増長は近年目に余ると思っていたが、自分たちが取り逃がした犯罪者の捜索すら居丈高に命じてくるとは。私事だが、この先にあるスュクス村では若い頃に苦い経験もしていた。


 あそこは老人ばかりのはずだ。もう自分も年を取った。どうか人々がこの顔を忘れていてくれることを願おう。葉巻の煙を吐きながらそんなことを考えていた男は、白樺林を越えた瞬間に鼻腔へ抜けた臭いから、異常事態を悟った。


 そこは小鳥がさえずり、丘陵いっぱいに花が咲き乱れる最果ての夏。のどかなポポ飼いの村。


 くすぶったはりから、黒煙が長く伸びていた。あちらこちらに鹿の糞のように落ちているのは人間の死体で、隊列を横切ってきょとんと一行を見つめたイタチが咥えているのは、木製のバングルを嵌めた右手首だった。生きた人間の登場に、裸の背中をついばんでいた森ガラスたちが飛び立っていく。


 田舎の治安部隊にとっては、青天の霹靂としか言いようがない惨状である。残党捜索から事件現場の検分に慌てて職務を切り替えた兵士たちは、ほどなくしてそこで何が行われたのかつぶさに承知した。


「……けだものどもが!」


 仕事中は平常心を心がけていた男だったが、耐えきれずに吐き捨てた。


 大国のお達しどおり、確かに罪人たちは最果ての寒村へと逃げ込んできた。そこで略奪するだけで済ませばいいものを、ウサギでも狩るように好き放題に撃ち殺した。残りの村人たちの服を脱がし、老いさらばえた身体に容赦のない拷問を行い、老女を凌辱した。最後には火をつけて雑な証拠隠滅を図ったというのが、この惨状の経緯である。


「やつら、スパイダーを使いやがった」


 犠牲者の遺体から顔を上げた曹長が暗い眼差しで呟いた。


 拡張破裂弾頭、スパイダー。前世紀の大戦で開発された、人体を低コストで惨たらしく破壊することにかけては折り紙付きの国際法違反兵器。


 声にならない憤りを湛えた沈黙が部隊に降り、新兵は木の根元までフラフラと行って嘔吐した。


 大型の獣が何頭もうろついた足跡が残っていた。遺体を食い荒らされなかったことだけが神の救いだと、固く目を閉じた男は秘蹟教会のオベリスクを切り、祈りの言葉を呟いた。


 緑茂る夏の森に、ゴーン、ゴーンと澄んだ鐘の音が響き渡った。日常を思い出させる規律正しい音に首を巡らせれば、それは驚くことに、全焼したはずの村長の家から鳴っていた。


 焼け落ちた梁の向こうに、町でも珍しいほど立派な柱時計が佇んでいる。辺り一面黒々と焦げているというのに、不思議とそこだけ炎が避けたように、木漏れ日色の木肌を晒していた。


 時計に興味を惹かれたのは、単なる偶然だった。……しかしひょっとするとの神々に導かれたのかもしれないと、今になって男は考えている。


 思い返せば白夜の午前中だというのに妙に薄暗く、崩れた梁から斜めに日差しが差し込んでいて、家屋や遺体から巻き上がる煤もチラチラと瞬きながら渦を為し、柱時計までの光の道を形作っているようだった。犯人の捜索にも生存者の救出にも無関係な、ただの興味本位で現場を崩したことは、彼の長い軍人生活でこれより後にも先にもないことだった。


 グローブをつけた手が、半開きの振り子室の扉を開く。


 中から何者かが腕の中に落ちてきて、大尉は紺の瞳を見開いた。


「子ども……⁉」


 ぐったりと力を失った身体を抱きとめると、このあたりでは見かけない浅黒い肌がまず目についた。重たそうに瞼を上げた瞳の翠色から、トゥラン人の少女であることを悟る。


 生存者が現れたことで、打ち沈んでいた部隊はにわかに活気づいた。町の病院へ駆ける者、救護用品を取りに行く者、担架を広げようとする者が慌ただしく動き出す中で、少女は周囲に視線を走らせた。無惨な光景を見せまいと慌てて視界を遮った男に、何を言おうとしてかひび割れた唇が開く。


 出たのは血の混じった咳だけだった。どんなむごい目に遭わされたものか、額は割れて両手は青く腫れ上がり、爪は全て剥がれていた。


「隊長。たしかトゥランの子どもって七歳で強制徴用されて、断りゃあ縛り首って話じゃなかったでしたっけ。その子、もう大きくないっすか?」


「いったい誰を吊るすってんだ?」


 部下の問いを鼻で笑って水筒を開け、唇にゆっくりと含ませてやる。


「見てのとおり、この子の家族はみんな神さまの元にいる。拾ったか預けられたか経緯いきさつは知らんが、ポポ飼いたちはただ小さな女の子を育ててただけだ。こんな田舎にまでありがたいお達しが行き届いてるつもりなら、共和国さまは勘違い野郎ってやつだな」


 ニルノースク人の典型的な夜色の瞳は、たったひとり生き延びた少女を映した。


「お嬢ちゃん。残念ながら、お前さんはもうトリカにゃいられない。でもせめておじさんが責任を持って、海峡鉄道に乗せてやる。鉄道の先にはクープっていう場所があって、そこにトゥランの子どもたちを集めてる。学校もあるって話だ。きっとたくさん、友だちもできるだろう。ちょっとくらい入学が遅れたからって何だ。ベルチェスターにも文句を言わせるもんか。ケチつけてこようもんなら、テメェんのころのイカれたけだものどもが善良なポポ飼いに何をしたのか、おじさんがデケエ声で喋ってやる。たとえお前さんが喋れなくても国中に触れ回って、みんなで怒ってやるからな」


 少女は澄んだ大きな翠眼で、ただ静かに見上げていた。男は幼い肩へと自分の襟巻きを外してかけた。


 アリエスボーグの病院へと搬送を急ぐ部隊の背後。


 託された役目を終えたかのように、真っ黒に炭化した柱時計は崩れ落ちた。

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