第60話 極夜行路(7)

 ――5年前。聖顕歴イニティウム1922、最果てのトリカ 夏


 地の果てでは知るよしもなかったが、遠い南の海峡を越えた超大国ベルチェスターでは、年初に起きた青年将校たちのクーデターに沸いていた。


『イスナシャルとの激戦地グリファーダ島の生き残り、陸軍第十二連隊数十名の軍人が離反。』


 高官を殺害して逃亡した彼らの目的は不鮮明で、大衆紙タブロイドは政府関係者から取材したという説をこぞって掲載し、紙面によってまるで異なる噂話がベルチェスター中を駆け巡った。当の軍部でも軍人恩給ナイトズ・マークをドブに捨てた無謀な逃避行に首をひねる中、連邦共和国の中枢だけが、将校たちの目的を握っていた。


 彼らが求めるのは、ある魔法のような財宝。


 旧世紀から続く支配階層をひっくり返す、起死回生の一撃である。


 トリカ亜大陸はレムリア大陸の一部ではあるが、山脈や海に阻まれ、カニやクジラを求める漁船以外には探検家が訪れるくらいの広大な秘境だった。覇権を握るニルノースク王国も、大陸諸国から見たらただのド田舎。


 北嶺に近いアリエスボーグというその町も、リウマチに効く温泉を求めて幾ばくかの湯治客が訪問するものの、それを以て歓楽地と呼んでは詐欺といっていいような寂しい場所だった。


 かつて青年将校だった男が町を訪れたのは聞き込みという名目だったが、白状すれば休養を求めてのことだった。彼は疲れ果てていた。自分で選んだ道だったが、北上せよという部隊の方針はあまりにもあてどなく、長い旅路で多くの戦友を失い、厳しい最果ての気候は喉も関節もさいなんだ。


 宿を探すうちにふと、が目についた。


 亜麻色の髪も濃紺の瞳もニルノースクにはありがちな色合いで、寒さの厳しいこの地では、身体の末端を取り落とした人間も珍しいものではない。閉じた意識に他人が入り込んだらあとは反射的に、慣れた口上で探し物のことを尋ねた。


 ――赤毛のトゥラン娘を知らないか? おれの上官が使っていた奴隷なんだが、かすめ取られて行方が分からなくなってな。そろそろ九つになったはずだ。御執心だから、生かして連れ帰りたいんだ。もし居場所を教えてくれたなら、100金貨グラナトを支払おう――。

 



 トリカの夏は短い。そして、極夜とは反対にいつまでも夜が訪れない。深夜零時を挟んで、短い夕暮れと夜明けが世界を茜から群青に染める以外は、ずっと昼間である。


 アンジェリカ、ライラック、スズラン、ヒナゲシ、色とりどりの花が咲き乱れ、蝶が飽きずに蜜を吸っていた。宵の口になってもまだまだ明るい日差しの中、解熱剤が効くのを待ってゆったりと本を開いていたニルファルは、何かに気づいたのか突然立ち上がった。南の窓辺を覗き込んで尋ねる。


里刀自りとじ。一応聞いておきますが、あれは知り合いや同族だったりしますか? 曽祖父の弟の妻の連れ子の兄弟だとか、山三つ越えた先の百年ぶりに会う集落のトリクスだとか」


「……あらまあ、大変!」


 外を見たヘンナは鍋が吹きこぼれたかのような声を上げると、機敏な動作でいしゆみを手に取り、ガシャン! とハンドルをずらした。


 迷わずセットしたのは、一撃でギングマを殺せる毒矢。


「敵だわ」


 母をならって本を読んでいたエルは手を引かれ、有無を言わさず柱時計の振り子室に押し込められた。七匹の小ヤギじゃないのだから、九歳の子どもが収まるような隙間はないはずなのに、不思議な柱時計はすんなり少女を呑み込んだ。


「おばあちゃんどうしたの? 何かあったの?」


「しー」


 目を丸くするエルをよそに、指を立てた老婆の唇から澄んだルートが奏でられた。

小さな星タハティネンさま小さな星タハティネンさま、どうかこの子をお守りください。あらゆる災いが気づかず通り過ぎますように。きっと無事にくぐり抜けられますように」


 素朴なおまじないを願い、そうして、皺の刻まれた真珠色の手は振り子室の扉を閉めた。


 どれだけ目がよかろうと、押し込められてしまっては外の様子などわからない。エルはたまらない不安に襲われた。


「ねえママ、敵ってだれ? 仲間外れにしないで」


「エルちゃまはなんにも心配しなくていいのよ。おばあちゃんがあなたには指一本触れさせない。だからいい子にしていてね」


「違うわ!」


 的外れな答えに首を振る。心配しているのは断じて自分のことではない。辛抱たまらず「出して!」と叩いたが、白樺の扉を壊すつもりのこぶしはなぜか、押し固めた雪原にそうしたように何の音も手応えも返さなかった。


「赤毛の娘はどこだ!」


 窓の外の丘陵から、知らない怒号が響き渡った。硬いブーツの靴底で夏の畑を踏み荒らす幾人もの足音。ゴム底の靴など、工場労働にありつけたトリクス以外には縁のない高級品であり、老人ばかりのスュクスで使う者はひとりもいなかった。エルは暗闇でせわしなく目を動かしながら、声の主の正体を探ろうとした。


「そんなものいるか! 村から出ていけ、大陸人!」


 村人たちを代表して進み出たのは小太りの大叔父マウノラッセだった。


 間を置かず、銃声が空に響いた。


 立て続けに二発聞こえたそれが自分たちのものではないことは明らかだった。村の狩人が丘陵の獣を狩る時に使う古めかしい施条銃の音なら、毎日のように聞いてきたのだから。


 息を止めて扉を凝視するエルに状況を教えたのは、目ではなく耳。さざ波のように沸き立って引いた恐慌のあと、掠れた喘ぎ声が届く。地面に這いつくばって漏らされる血混じりの喘鳴は、かつて腹いせの襲撃を受けたレータがしていたのと同じ呼吸。生まれつき聡い頭は、こうして両目を塞がれた闇の中で事態を把握した。


 赤毛の娘とは自分のことだ。


 誰だか知らない人間たちは、自分を探して遥々地の果てにたどり着いた。


 愛する家族は果敢に立ち向かい、今まさに、踏みにじられようとしているところである。


「……やめて‼」


 頭を掻きむしって叫んだ悲鳴は、不思議なおまじないに阻まれて、振り子室の外の空気を揺らすことはなかった。


 この白々と明るい晩の襲撃者は、十名余りの男たちだった。トリカ亜大陸を南下し渡州八国も越えて遥か南、海上の激戦地グリファーダ島で捨て駒とされた第八師団十二連隊の生き残り、ベルチェスター陸軍出身の流浪軍人たち。


 数では村人が上回るとはいえ、軍人にとってピッチフォークを手にした年寄りの農民など何人いても物の数ではない。それは男たちの威圧感を目の当たりにした当の村人も承知のことだったが、とはいえ彼らは、死よりもはるかに恐ろしいものを知っていた。いかなる代償を払ってでも守りたいものを擁していた。ゆえに逃げるという選択肢も子を渡すという選択肢も、ありえなかった。


 スュクスの村人たちの戦いぶりときたら、ささやかな英雄叙事詩のごとく勇敢だった。


 いしゆみの使い手であるヘンナは、物陰から敵を三人の敵を討ち取った。目のいいニルファルもライフルで二人を倒した。だが当然のことながら訓練を受けた兵士を前に一刻と持たず、半分は屍に、もう半分は手足を縛られて、村長むらおさの家の広間へと集められた。


 エルが押し込められた柱時計の前である。


 制圧のあとに待つのは尋問だった。衣服を剥ぎ取り、男も女も、ひどい怪我を負った身体も同じ姿にしてから、汚れた軍服を着こんだ男たちは銃剣の切っ先を性急に突き付けた。


「三秒時間をやる。赤毛の娘の居所を吐け」


「そんなものいやしない」


 ゼエゼエと痰の絡んだ苦しそうな声で、ノッポのヨンネラッセが答えた。いったいどこを痛めつけられたのかと、エルはしゃくりあげながら扉の木目を一心に見つめた。


 腹部の貫通創から赤黒い血を流した男は青白くなった唇を震わせて、しかしわずかの怖気おじけ躊躇ためらいもなく、力強く言い切った。


「お前たちにくれていい子どもなど、この村にはひとりもいない‼」


 スュクスの人々には全く関係のないことだが、襲撃者たちに悠長にしている時間は残されていなかった。

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