第59話 極夜行路(6)

 稲妻が落ちたような爆音が轟く。銃殺――脳裏を走る二文字に、せめて何かを守ろうとキリルを庇ったが、けたたましい音を発したのはブレイク部隊のライフルではなかった。その銃口は、別の方向を向いた。


「逃げろ!」


 霊廟の上、弓をひく青年像に脚をかけた男が叫んだ。頭にバンダナを巻いた彼は、地下戦闘組織『夜を行く舟サーリヤ』のひとり、ギヴである。


「ごめんよっ!」


 青年は腕を回して振りかぶると、煙を発する筒をハウンドの群れに投擲した。地上で電閃が弾ける。むせ返るほどの刺激臭と煙幕に、白い獣たちは声にならない悲鳴を上げた。


 兵士たちの銃口から次々に火が放たれた。バンダナ頭は間一髪で女神像の後ろに隠れ、不幸な恋人たちがハチの巣になるだけで済んだが、幸運はそこまでだった。左右から接近した別働隊によって呆気なく引きずり降ろされて、何本もの銃床でしたたかに打ち据えられる。


「やめて‼︎」


 少女の金切り声の懇願には、誰も耳を貸さなかった。


「離しな! ったくレディーに乱暴するなんて、マナーがなってないね!」


「おっとっと、丁重に扱ってほしいなあ。これでも精密技師なんだよねえ」


 馴染みのある声に振り向けば、縛られて引きずり出されるライラ、カムラン、ツェツィーの姿があった。


 古めかしいオーバーコートを着たカムランの左腕には半円状に血が滲んでいた。あれは獣の噛み傷だ。最果ての地で、クズリに噛まれたギングマにあんな形で傷が残っていた。おそらく鼻の効くハウンドに潜伏場所を突き止められ、三人揃って検挙されたのだ。


 どうして? みんな隠れ街ハイドアウトに潜んでいたはずなのに、どうして地上に? 気が遠くなりそうな脳で考えたが、そんなのはディスカッションをするまでもなく分かりきった話だった。


 彼らは、地下街を抜けるエルたちに気づいていたのだ。見守りながら後を追い、そして危機に陥ったのを目にして、救出しようとした。


 箱庭の看守の前にその身を晒したら最後、生きて帰れないと承知の上で。


「その目、その肌……貴様らまさか、トゥラン人か⁉」


 ユージンの顔色が変わった。


「テロリストがクープに潜んでいるという噂が本当だったとは……! 総督府の膝下でネズミの営巣を許していたなど、虫唾むしずが走る!」


 ダークブロンドの美青年は、嫌悪を露わに顔を歪めた。人差し指を横に振ると隊員たちが進み出て、カムランたちのコート、帽子、バンダナを剥ぎ取った。


 装束を奪うのは、お前たちを人間として扱うことはないというメッセージである。これもまた、最果てのトリカで経験した記憶だった。


 エルはよく知っていた。人としての尊厳を踏みにじる方法はまだまだいくつもあって、今は前奏イントロが奏でられているのだということを。


 ひとり残らず、誰も彼もが崖っぷち。考えろ考えろ考えろ。どうにか切り抜ける方法を!


 極寒の中、薄着に剥かれた虜囚たちは歯の根をかち合わせたが、彫りの深い双眸はぞっとするほど静かに青年を見据えていた。


「連邦共和国が求めているのは、七歳から十六歳までの未来ある子どもたちだ。それ以上の成人は駆除対象。ましてやテロリストなど、ベルチェスターを蝕む害虫に他ならない。裁判なしで即日センター送りと決まっているが……わたし自身としては、残酷な刑は実施したくない。敵といえども人道的な手段で、尊厳をもって、神の御許みもとへ送るべきだと考えている。そこでひとつ、尋ねたいのだが」


 英雄はいましめられて立つ四人の前をゆっくりと歩いて、冷たい横顔で尋ねた。


「貴様らが王だとか救世主だとか崇める個体が、このレーベンスタット・クープにいるのか?」


 メルサとシャロンの肩を抱いたエルは、弾かれたように顔を上げた。


「はてさて……何のことだか」


「子どもの前で荒事は避けたい」


 ユージンが右手を挙げれば、傍らに立つ隊員たちが銃口を向けた。


「だが、悪魔の企みを見過ごすのは罪だ」


 知っている。これからあの銃は、誰かの四肢を撃つ。おそらく年若いギヴか、女性であるライラが選ばれるだろう。最初は脚だ。狙いやすい大腿部に撃ち込まれ、激痛で崩れ落ちた脹脛ふくらはぎにもう一発。7ピト口径弾が動脈を貫通すればおびただしい出血によってほどなく死に至るが、これは今後の尋問を円滑に進めるためのデモンストレーションなので命を永らえさせる必要はない。のたうち回って口も利けない犠牲者に形式上の質問を淡々と投げかけて、苦悶の中で息が尽きる様を見せつけることが目的なのだ。


 知っている。よく知っている、やつらのやり方なら。


「それはあたし」


 そう告げたのはエルではなかった。事態をさっぱり理解していないキリルでも、目に涙をいっぱいに溜めて震えているメルサでもなかった。


 ポケットに手を入れたシャロンは、少し左に傾いて静かに佇んでいた。


「何だって?」


「おっと、聞こえなかった?」


 差し向けられた銃口を前に、クライノート・ギムナジウム不動の次席は、いつも通り飄々とした笑みを浮かべてみせた。


「あたしこそが、トゥランの第121代目君主だと言ったのさ」


 エルは愕然と息を止めた。脳内の司書たちは先刻より、何とか切り抜ける方法を探し出そうと煙が出るほど本を漁り、これから先に起こることを演算していた。だが導き出されたのは、避けがたい破滅。書架を照らす電灯がバチバチと点滅する。


「ダメ。シャロン、やめて」


「いいやエル。あたしが王だ」


「違う! 違うんです、この子じゃない! 隊長さん、シャロンは違う!」


 必死の訴えに、ユージンは眉をひそめて向き直った。


「ではきみは本当の王を知っていると? 誰だ?」


「それは、ええと」


 言えない。キリルを売ることなどできない。


「あ、あたしです! あたしがトゥランの女王なんです!」


 震え声の自己申告は、信頼に値しないと評価された。むしろ、身代わりになってまで庇おうとする様子が供述の信頼性を高めたことを、エルは自分を見下ろす青年の表情からありありと悟った。


暗澹あんたんたる気分だが……共和国軍人として、申告があったなら対処しないわけにはいかない。ロス」


 沈痛な面持ちのブレイク隊長は、副官を呼んだ。


 兵士たちの奥から、その青年は現れた。立つのも辛いはずなのにいつもどおり、午前零時を指す長針のような立ち姿で。


 漆黒の軍服、ひとつに束ねた銀髪、血の気のない顔は、ひとりだけ白黒で映された写真の中にいるようだった。


「本国からの指令は受諾済みだな?」


「はい」


「では、かかれ。……くれぐれも、苦しませることのないように」


 クープの英雄は、これから先の展開を見たくないと言わんばかりに背を向けた。


 ロスが懐から取り出したのは拳銃だった。チタンフレームの奥、色ガラスを嵌めた目は、何を思考してかほんの数秒俯いた。


 顔を上げた時には初めて会った時と同じ、温度のない眼差しをしていた。


「嘘」


 ええ嘘ですよ。エルは、彼がそう言って黒手袋を開いてくれるのを願った。秋の夕暮れに、上空のスパロウを果敢に撃墜したあの時のように。今回も居並ぶブレイク隊員を蹴散らして、手を引いて逃げてくれるんじゃないだろうか? だってロスさんは優しい人で、いつもあたしを助けてくれたもの――。


 だが甘い夢想も虚しく、銃口はこちらを向いた。


「やめて。やめてやめてやめて! お願い‼ やめて‼」


 違う、違う、違う。こんなことあってはならない。これだけはあってはならない。とっさにエルは、シャロンの前に身を乗り出した。


 トンと左手で軽く、しかし不思議とあらがえない強さで胸を押され、後ろにバランスを崩す。


「下がってな、エル」


 逆だ、と思った。


 それをするのは、自分のはずだった。


 空を向いた視界に最後残ったのは、片目を瞑って微笑む綺麗な横顔。ライフルよりも軽い銃声が、至近距離の空気を割る。


 一度ビクリと大きくのけぞったシャロンは、重たい音を立てて崩れ落ちた。


 瞬きと呼吸を忘れたまま、赤毛の少女は駆け寄った。胸の中央から噴き出す赤黒い体液が、氷点下の外気に湯気を立てる。小麦色の小さな手が、同じ肌をした左手首をブルブル震えながら取り上げた。


 シャロンは、九歳でクープ住まいとなって以来のルームメイトだ。スュクス村のエルにとっては、初めてできた人間の友だち。ベッドは衝立ついたてを挟んだ部屋のあちらとこちらだったが、どちらかの寝床に潜り込んではお喋りをしながら眠るのが常だった。去年のバースデーの夜には、この手で傷薬を塗ってくれた。


 馴染みある温度を保ったままのそれは、鼓動を失っていた。


「へあ……」


 薄汚れた雪の上にぺたりとへたりこむ。


 キリルは呆然と立ち尽くした。腰を抜かしたメルサは、堤防が決壊したような大泣きで「シャロン!」と叫んだ。「何をしやがる!」とロスに飛びかかろうとしたギヴは銃床で殴り飛ばされ、彼以外のサーリヤの大人たちは俯いた。


 親友の手を握りしめたまま動けない赤毛頭は、現実を認め始めていた。


 自分は賭けに負けたのだということ。


 あがないようもなく大きな負債を背負い、それを今から、根こそぎ取り立てられるのだということを。


「護送車を二台だ。至急」


 音も酸素も、何もかもが遠かった。息ができない世界の中で、ただ虚空でチクタク時を刻む秒針だけが、ますます耳障りに音を立てていた。


 


 何を驚いているんだ? 傍らに立つ誰かが問う。いつだってだったじゃないか。


 お前は今までも、お前を愛する者を地獄に突き落としてきた。


 今夜も、その続きをしただけだ。

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