雨鬼 ― 5
警察。彼らはこと時雨の外側でいえば、武力の王であり、裏社会を生きる者の天敵であり権威である。イトの目の前に立つ男のピンと立てた背筋はそれを象徴しているようだった。男は問う、あたかもそれが当然の権利のように。
「……貴方は、ここで何をしているのですか? まさか、貴方とあろう研究者が、ふと迷い込んだわけではないでしょう」
「それはこちらの台詞だ。生憎俺はお前のことなど知らないが、見たところ、こんなところに立って剣を振るう人間ではないはずだ。時雨の治安を守りたいのならば優秀な部下に任せておけばいい」
ケースを地面に下ろし、臨戦態勢を取る。彼がここに現れた意図はわからないが、この状況が異常であることはわかる。
「俺はただ友人の頼みで学生の保護を行なっているだけだ。裏に隠していることなどない。これが望み答えか? 次はそちらが俺の質問に答える番だ」
ケースから刀が飛び出し、イトは利き手でそれを掴む。一方で目の前の男は眉ひとつ動かすそぶりを見せない。カチ、カチカチと古い照明が点滅した。
「
お前たちの目的はホズミ スミレなのか? それともあの巨大な雨鬼か?」
「ふふ、貴方は我々について、いくつか誤解しているようですね」
男は微笑むとすらりと人差し指を天に向けた。
「ひとつ、幽靄が行方不明者の捜索を行うことはあります。しかし我らは命令に従うだけの傀儡のようなものですから、表向きのあれらと違い、何人遍く、ではないだけで」
次に二本目の指を立てる。
「ふたつ、私は幽靄本局より、独自行動の許可を得ています。故に
そして男は最後に三本目の指を立てた。
「みっつ、選択肢の用意が不十分です。私の興味関心は、あの巨大雨鬼でも、彼女でもなく————他ならぬ貴方だ、イト研究員」
立てられた三本の指。
男の笑み。
不意に男の頭の上に現れる、傾いた
「……——裁け」
イトは思わず、その場から後ろに飛んだ。自分が先ほどまで居た位置を、三本の黒い光線が天井から降り注いで貫いた。男の行動は全て単純な視線誘導の一種だった。そう気づくのがすこしでも遅れていたら、イトの身体は目の前の床のように穴だらけになっていただろう。
「地下競技場の天井を破壊したのもお前か。あれのせいで手間が増えた」
イトは一気に男へ駆け寄った。見たところ男は徒手空拳だ。なにか武器を隠し持っている可能性は捨てきれないが、いかなる武器を隠していたとしても、先程の黒い光線の方が危険度が高いと判断した。
射程、同時発射可能数、威力、攻撃の条件――光線の詳細を知る由もないが、いかに強力な能力といえど、使わせる前に叩いてしまえば、床に落ちた刃物と同じようなものだ。
幽靄の男は動く素振りさえ見せない。しかし代わりに天井から先ほどと同じように黒い光線が高い音を響かせながら降り注ぐ。その時、イトは一瞬、壁に
「……しかし、あまりに愚直ではありませんか?」
第十六号会館は、古く狭い校舎だった。一本道の長い廊下と教室につながる扉のみ。イトと男の間に障害物らしきものはひとつも無い。まっすぐこちらへ来るのならば警戒することは何も無い。黒い光線の第二波。その数をわざわざ数えるほどの余裕など無いが、そのけたたましく天井の割れる音から、先ほどの倍以上の数が自分の頭上に落ちていく予感があった。
「愚直はそちらも同じだろう」
足を前にぐんと伸ばして、廊下をスライディングする。同時に、左手に持っていた楽器ケースを広げて頭上に掲げ盾のように広げて防御体制を取る。
イトがもっとも恐れたのは光線によって誘導され、袋小路に追い詰められることだ。言い換えれば、こちらが先手を打ってまっすぐ攻め込めば、相手も同じように直線上に光線を配置する他ない。拙速は巧遅に勝る——ただし、それでもなお、分の悪い賭けだったかもしれない、とすぐに後悔した。
天から降り注ぐ光線はケースによって阻まれる——しかし、それも長くは続かないだろう。ケースはぶつかる度に悲鳴のような音を上げ、蝶番の部分に当たったのかネジが弾け飛んでぐらりと大きく、形が崩れた。そして一つ一つの衝撃が重く、激しい。ケースを掲げる手の感覚が薄れていく。
「幽靄。お前の攻撃には芸が無いな。一度攻略すればそれきりだ」
十分すぎる時間を稼いだ。役目を終えたケースを地面に投げ捨て、スライディングからバネのように上体を起こし、男の目前まで再接近した。あまりに近い。右手に持つ刀を振るえば、その首は容易く地面に落とすことができるだろう。だというのに目の前の男は不敵な笑みのままで微動さえしない。
「芸? そんなものは必要無いでしょう」
男は握っていた手を軽く開く。
その指の隙間から黒く光る球体がこちらを覗いていることに気がつき、目を見開く。
自分が生死の瀬戸際に立っていることに気がついたのだ。
「貴方は追い詰められたのだ。私が誘い込んだ、私という袋小路に」
球体が今にも炸裂せんとしている。形が揺れ、線が溢れる——その変化を観察してイトはこの男の持つ能力の一端を知った。
その球体は、設置型の小型ガトリングガンのようなものだ。校舎の天井(あるいはもっと上空)に設置されていて、そこから黒い光線が放たれていた。つまり今、イトが置かれている状況とは、銃口が自分の目の前に向けられていると同義だった。
今頃、能力のタネを知ったところで、至近距離からの機銃めいた速射を回避する助けにはならない。ふっ、と風がイトの額に当たる。
「ここが貴方の果てだ。イト研究員」
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