迷光 ― 3

「疲れているでしょうから、ゆっくりなさってくださいな」


 ホズミは大学にこのような立派な部屋があることを知らなかった。木目調の長い机、高級レストランに置かれているような背もたれの高い椅子、壁に並んでいる歴代学長の写真。写真の列の最後、一番右に映る男の顔は、自分の目の前に座る男のそれとまったく同じだった。


「ちょうど他の職員はそれぞれ別の用事を抱えていましてな。私のような暇を持て余している老人しかあなたから伺うことができないのですよ」

「ええと。大丈夫です、よ?」

「おっと、緊張なさっているようだ。茶菓子を用意してます。最近は雨が続いて冷えますからな。どうぞ」


 彼女は混乱せざるを得なかった。あの怪しげな男とその研究室から隙を見て脱出したつもりが、構内の外に出る前に警備課の職員に捕まり、あれやあれやという間にこの学長室まで通されてしまった。職員の話によれば、この一週間の内に学生・教職員の行方不明事件が連続しておきており、その内のひとりが自分だったようだ。連行の道中で、職員の様子からして只事ではないことや、おそらく自分が生存確認者であることはなんとなく察しがついていたが、学長自らわざわざ事情聴取の席につくとは想像だにしていなかった。場違いにさえ感じてしまう。

 いや、場違いなはずなのだ。彼女は自覚していないが、こういった状況判断において大きく外すことはなかった。いくら大事だとしても、わざわざ、そして突然、この役職の人物が出会うことはありえない。警察の影すら見えないというのは異常事態中のだ。


「ほかの先生たちは今、授業中ですか?」

「そうですな。先生方は教鞭をとってらっしゃいますし、警備課の方には行方不明事件の捜索を依頼しているところです。失踪者同士の人間関係や、動向の確認などを探っていただいているわけです。私などは所詮、雲藍大学の学長というポストについているだけのしがない老人にすぎませんから学校中を駆け回っても邪魔になるばかりですからな」


 ふふ、と白い頭を振り、彼はすこし微苦笑すると、改めて机の上にある山査子の菓子とドライフルーツを勧められる。部屋の内装から受ける重たい雰囲気とはまったく不釣り合いな、スーパーやコンビニで見たことがあるような菓子だった。自分の身の丈に合わせているのかもしれない、とホズミはひとり考え、そして納得する。


「このように、大学にわざわざ足を運んでくれたお客さんのお相手をするだけですよ。意外かもしれませんが、値段やこだわりばかり張ったものではなく、こういった馴染み深いものの方が話が弾むものですな。ホズミさん、あなたも覚えておくといい」


 誰にでも腰が低く、人懐こい好好爺——彼女の目にはそう映った。入学式の際には壇上に上がって何か祝辞を述べていたような気がするが、まったく彼女の印象に残っていない。退屈ではないが、過激でも無い。大学の入学式とはおおむねそういうものだ。

 しかし、いくら表面を取り繕っていても、状況や背景までも変化させることはできない。彼女の思考の端に、たしかにある違和感。そして、つい数時間前まで彷徨っていた“時雨じう”と呼ばれる異様な空間。唾を飲みこむ。手持ちの情報から考えて、もしも面倒ごとに巻き込まれたくなければ、あそこであったことは秘匿するべきだ。そして一連の失踪事件と自分は無関係であるかのように振る舞わなければいけないだろう。


「先ほど、あなたのアパートの大家と連絡がつきましてな。今、迎えに来ているところだそうで。あの辺りは住みやすいでしょう。私も学生の頃はそこを下宿先に選んでいたものでしてな。最近はめっきり足を運びませんが……交差点角の古書店はまだありましたかな?」

「健在ですよ。老夫婦も、ルーフの先までずらりと並んだ特価コーナーのワゴンも」


 この男は時雨や雨鬼について知っているのだろうか? そして、私がそこに迷い込んでいたことを証明したいのだろうか? だとすれば、どうしてこのように私にへりくだるような真似をするのだろうか。それとも単なる人の良い老人なのか。ホズミは学長の質問にあえてゆっくりと答えて、自分の考える時間を稼ぐことに努めようとした。


「ええと、私、本当にちょっとだけ授業をサボって友達の家で遊んでいただけなんです。まさか学校でこんな大事、大騒ぎになっているなんて、つゆにも思わなくて」

「はは、なるほど。そうでしたか。サボタージュというのは学生の特権ですからな。大人になってからではできないことです。なるほど、なるほど。恥ずかしい話、私も学生のころは夜遊びばかりでしたな」

 

 学長はカカと笑う。しかし、それからまるで仮面を剥いだかのように真面目な表情に変わって、ホズミは思わずどきり、とした。


「ただ、しかし、聞きたいのはそれだけではないのですよ」


 そう言って学長は机の上に一枚の写真を取り出した。荒々しい画質でも目立つ、桃色の髪の毛に白い肌の少女。学生証を作成する際に提出される小さな証明写真が大きく引き伸ばされている。ホズミはその写真を見て、思わず目を丸くしてしまった。なぜここで彼女の写真が自分の目の前に出されるのか、不意にを立ててしてしまったからだ。


「キミのほかにも行方不明者はいてね、彼女、リンという名前のこの女生徒もまた連絡が取れず現在、どこにいるのかさえわからない状況にあるのです」


 彼女も時雨に取り残されているのではないか、という不安が口から溢れてしまいそうになった。彼女はリンを知っていた。そして目の前の男が話すとおり、時雨へ迷い込む前に彼女に出会っていたという記憶はある。しかし、時雨の中で目覚めた時すでに彼女は自分のそばにはいなかった。これがホズミの話すことのできる真実である。それだけのことだ。「会いました、しかし今どこにいるかはわかりません」と答えれば良いだけなのに、彼女は自分の喉を開くことができなかった。


「そして構内に設置されたカメラの映像を確認してみたところ、彼女が最後に会っていたのは、どうやらあなたとよく似ている学生でしてな、ホヅミさん——」


 学長は間違いなく雨鬼と時雨を知っている。

 ——しかし、どうやら、それを公表することはできない理由があるようだ。

 では、この失踪騒ぎを、学外に向けてどのように決着させるべきだろうか?

 ——そのためには犯人が必要だ。雨鬼でも時雨でもない、が。


 ホズミは不意に自問と自答を繰り返した。そして今、自分がこの一連の事件の中でどのような役割を担うことを期待されているか、徐々に理解し始める。さぁっと冷気が首筋に当たる感覚を覚える。失踪者と最後に接触した人間。失踪から唯一発見された人物。それがホズミであり、世間からすれば失踪事件の犯人と言われてもなんら不思議ではないか。


「——改めて聞きましょうか。この連絡の取れなかった六日間。あなたはどこで、何をしていたのですかな?」


 細い目を開いて、学長はホズミを見た。喉に、まるで見えない手に抑えられているのではないか、と感じてしまうほどの閉塞感を覚える。彼女は目の前の老人から目を離すことができなかった。よそ見をすれば最後、飛びかかって首を噛みちぎられてしまうのではないか、と思わせるほどのすごみと邪悪さを垣間見た。

 

「悪いが。そこまでだ、学長殿」


 凛とした女の声がその場の雰囲気を破った。ホズミの知らぬ声だ。金髪にキッと釣り上がった琥珀色の眼。伝統的な民族服を着こなした怪しい女性が、学長室にノックすらなく入り込んできた。すくなくとも教授のようには見えなかった。

 学長も思わぬ来客に言葉を失ったようだ。先程あったはずの邪悪さも覇気もふっと消え、初対面の時のような穏やかな雰囲気に戻っている。それからすこし思考した素振りを見せ、学長は口を開いた。


「……久しぶりですな、韵花ユンファ嬢。いつぞやの式典以来でしょうか。立ち寄るというのならば、それなりの茶菓子を用意しましたのに、見ての通り、今は学生と大事な話をしているところでして」

「悪いが学長殿。私はそこの学生の迎えにきた。彼女のアパートの大家に代理引受人を頼まれてね」

「面白い話ですな、あなたを使いに頼む大家がいるとは」

「年の功には誰も勝てないものだよ。学長殿」


 突然現れた彼女はいったい何者だろうか。困惑するホズミをよそに、韵花と呼ばれた女と学長は意味慎重な言い合いをしていた。古い馴染みのようだが、決して仲の良い間柄には見えない。むしろどこか、お互いに牽制しあっているようにすら見えた。


「ホズミ、私は大家のチェンおばさんの友人のひとりだ。彼女は、病院の予約を外せないようでね、悪いが家まで私が送ることとなった」


 それから少し遅れて、安心してくれ、人を運ぶのは得意なんだ。と言葉を付け加えた。

 ようやく、ホズミはあのイトと名乗る男からその名前が出たことを思い出した。そして自分がすでに陰謀の渦の中に巻き込まれていることを実感し、すこしばかりの絶望を覚えた。

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