雨鬼 ― 7
例の怪物、雨鬼はホズミの脇をすり抜けていった。まるで巨大な磁力が働いているかのように彼らが一同、同じ方向へ向かって動いていく様子を彼女はじっと観察していた。この時雨なる不思議な空間に迷い込んでから三日ほど経った彼女だったが、今日起きた出来事から得た情報の量を衝撃は、初日のそれを優に超えている。
彼女が第七号会館のラウンジに到着してから二十分ほど遅れてイトが姿を表した。道中で雨鬼の群れにでも襲われたのだろうか。彼の来ていた羽織は穴が開き、持っていたはずの楽器ケースはガランと中がだらしなく開いていた。そこにしまっていた刀を彼は抜き身で持ち歩いている。しかし、その何よりも目を引いたのは、そういった彼の格好や傷ではなく、その顔にあった。彼女は唖然とする。
「すまない。予想よりも遅れた。キミは無事のようだな」
「あなた……人間じゃないの?」
「そう言いたくなる気持ちはわかる。だが
そういって彼はホズミを建物の奥へ行くように先導する。彼の頭部、額の左が卵の殻のようにひび割れており、その隙間から、御伽噺に出てくる鬼の、その角ような形をした何かが伸びている。このイトという男は人間ではないのか、とホズミはすこしばかり恐怖を覚えた。少なくとも、彼は普通の人間ではない。
もしもできることならば、ここから逃げ出したい気持ちがあったが、この時雨と呼ばれている空間で、別の誰か話のわかる人間に出会える保証はない。しぶしぶ、だ
二人は階段を使って、学生らが普段講義のために出入りする階よりもはるか上の階まで移動した。第七号会館は四階までが吹き抜けとなっており、廊下から下の様子を見下ろすことができたが、二人が移動した六階はそれが無い。建築家がどのような意図でそのような不思議な構造にしたのかはわからないが、低い天井と見通しの悪い廊下に彼女は閉塞感を覚えた。
「この部屋だ」
イトは羽織の裏地に付けられたポケットから鍵を取り出して、彼女を中へ案内する。6畳ほどの小さな会議室のような部屋だ。入り口から入って右手には机とパソコン、電子レンジと電気ケトル、数個の長ロッカーが、左手には本棚がずらりと並んでいた。奇妙なことに本棚に収められている本は学術書ではあるものの、分野に統一性はなかった。化学、精神医学から歴史、考古学などを取り扱ったものまで、幅広く並んでいる。書店ならば好ましいが、研究室の本棚らしいとは言えない。
「ここでは、なんの研究をしているの?」
「……かつて、時雨の研究を行なっていた。自分を含め五人のメンバーと一人の出資者で」
ホズミの言葉にイトは遠くを見つめるような表情でそう答えた。羽織を側の椅子にかけ、代わりにロッカーから白衣を取り出してそれを羽織った。その表情は、どこか昔を懐かしんでいるようだった。
それから彼はゆっくりと机のそばにある乾燥棚から一本の試験管を取り出す。中には液体が入っており、彼女の目には液体が銀白色にきらきらと光って見えた。透明度が低く、向こう側は見えない。
「それは、もしかして水銀?」
彼女はとりあえず、頭の中に浮かんだ銀色の液体の名前を挙げたが、彼に鼻で笑われた。
「ただの雨水だ。だが、純粋な水ではない」
そう言うと彼はデスクの引き出しを開け、そこから小さなライトを取り出した。時雨の影響で部屋は薄暗く、ライトの光はより濃く見えた。イトは彼女のすぐそばに立ち、彼女の目の前に試験管を出して見せた。彼の白衣から消毒液の匂いがする。
「今からこの試験管に向けて光を当てる。これもまた特別なライトではない。下のコンビニで買えるような、ひどくつまらないものだ。しかし、体験より優れた教師はなかなかいない」
ライトの光が試験管を通った。中の水は光を通さない。研究室の壁に細長い影ができる。しかし、その影をよく観察してみると、ゆっくりとゆらめいているように見えた。ホズミははじめ、そのゆらめきは彼の手のかすかな動きによってできた影の動きだと思った。しかし、次第にそれが錯覚であることに気づいた。
映し出された影が明滅している。影が消えたかと思うと、壁がライトの光で強く照らされ、また次の一瞬には影が壁に現れる。クリスマスのイルミネーションを想起する。決して劇的な変化ではないが、彼女の目を丸くするには十分だった。
「……綺麗」
「綺麗、か。たしかにそう言われればそのように捉えることもできるかもしれない」
イトはライトを消し、机の引き出しに戻した。それから少し時間を確認する素振りを見せると、試験管を手に持ったまま、先ほどの現象について解説を始めた。
「
イトはそこまで言いかけて、試験管の手に持っていない方の手で自分の額から伸びる、鉱石のような光沢をもった角を指さした
「キミはこの角について知りたがっているな。これもまた時子がもたらした影響のひとつだ——俗に言えば時子は我々時雨の中の活動者に超能力を与える」
「超能力? たとえば発火や、念動力、霊媒のような話をしているの?」
ホズミは思わず怪訝な表情を浮かべた。
「そうだ。だが、俺の言葉を信じようとしなくていい。先ほども話したように、この状況における教師は俺ではなくキミの得る体験のことだ」
イトはそう言うと試験管の口を閉じていたゴムを取り、机の上に置いた。それから棚から秤に乗せるような皿を取り出して、そこに雨水を注いだ。彼女はそれを凝視する。その液体に粘性はない。窓から取り込まれるわずかな光の反射を受けて輝いているところを除いては、たしかにそれは雨水に見えた。
「離れていろ。万が一にも怪我をすれば、
「韵花……?」
それは人の名前か? とホズミが訊ねようとした時、雨水は小さな音とともに爆発を起こした。それこそ先ほど自分で口にした発火というべきふさわしいように。暗い部屋が一瞬、オレンジ色の光で照らされるが、すぐに消え、元の薄暗がりに戻った。
「今、水が勝手に爆発した?」
「違う。爆発
脳の活動の際に発生する微弱な電気信号である脳波については、キミも聞いたことがあるだろう。
それはキミたちにとって超能力と呼んでも差し支えないものだ、とイトはすこし遅れて付け加えた。ホヅミは皿にそっと触れた。まだ仄かに熱を持っている。
「それで、その角は脳波の増幅器の役割を果たしているってこと?」
「……そうだ、聡いな。共鳴可能な人間には、この角のような外見的変化が伴う。ただし角とは限らないが」
「私もあなたと同じようなことができるの?」
「さあ、それは俺が判断できることじゃないからな」
途端に、部屋全体がちかちかと明滅したことに気づいた。それはこの小さな実験室の小さな窓から取り込まれた自然光の量の増減を意味していた。もちろん、外を覗き込んでも、雨雲が空を覆い尽くしているばかりで、太陽など見えはしない。先程、イトがライトと試験管を持って実演してみせたような変化が、この世界全体で起こっているかのようだった。
「キミにはまだ、この世界や時雨について訊きたいことが山積しているかもしれないが、ひとまず保留してもらおうか————」
イトはそう言って窓のそばに立ち、何かを話した。しかし、ホズミには彼の言葉を最後まで聞き取ることができなかった。その時、いっそうと空が明るく光ったからだ。時間は加速し、音が引き伸ばされる。ぐるり、と世界が廻ったような感覚を覚え、思わず立っていられなくなる。不意に彼女は近くの本棚にもたれかかった。彼女は薄れゆく意識の中で考えた。彼はこう言った気がしたのだ。
————時雨が明けるぞ
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