雨鬼 ― 6

 イトの目前に黒い閃光が眩く光り、目を細める。

 目の前に向けられた銃口、殺意そのもの。

 強力な能力、そしてなにより狡猾な人間だ——刹那の時間の中でイトは目の前の男の実力を認めた。

 彼の手前で力を抜くことなどできない。


よ————」


 そう、イトが言いかける。

 男の開く手から溢れる閃光の束がイトの額を貫かんとする。


 ——その両者の間を巨大なかいなが阻んだ。


 巨大な眼が二人を見た。呼気とともに涎をこぼしてこちらを見ている。腕からまた小さな腕が触手のように伸び、二人を捉えようとする。それは巨大な濁流のようにも見える。しかし、それは強者からすれば、有象無象の雑兵にも満たない存在だ。天から降る黒い一線が、次に次にその手を貫いた。轟音で、瓦礫と砂があたり一面に舞う。


「雨鬼、私と彼の間に割って入るな」


 手痛い反撃を喰らった巨大雨鬼は泣き声のような悲鳴をあげると、その場から離れ、やがて時雨の作り出す霧の中へと姿を消した。



「おや」


 姿を消したのは雨鬼だけではなかった。いつの間にか、先ほどまで目の前に刀を持っていた男は、この一瞬の騒ぎの内に、その場から立ち去ったようだ。逃げ足の速さに、幽靄ヨゥメイの男は舌を巻いた。あるいは、あのイト研究員はこれを予想して、いつでも離脱できる準備をしていたのかもしれない。


「彼の雨器うきが、もう少しで見れるところでしたが……残念です」


 男が目を閉じると、それとともにそれまで頭上を怪しく光っていた黒い天輪も、手のひらの中の黒球も、たちまちに姿を消した。


「能力の連続使用は精神的な疲労に加えて、周囲の雨鬼を惹きつける。もしもあの巨大な雨鬼の闖入まで彼の計算内だとすれば、彼を単純な戦闘能力で測ることは難しいでしょう」


 あの下手な煽りも、捨身に思えた突撃も、おそらく自分に雨器を使わせ続けるための布石だったのかもしれない。表に立って剣を振るうべきではない人間なのは、あの研究員もまた同じことか、と男は小さく呟いた。

 男は自分のポケットが振動していることに気づいた。時雨内でも通信できるよう特殊な改造が施されたスマートフォン、そのバイブレーションだ。彼は時雨内では着信音が鳴らないようにしていたことをすっかり忘れていた。これより前にすでに五件以上の着信があったようだ。


「——私です」

「私です。じゃ、ねえよバカ!!」


 静かなキャンパスの中で、スピーカー越しに怒号が響く。


「連絡員殿、あまり騒ぎ立てると周囲の雨鬼が勘付きますよ」

「雨鬼がなんだ! まもなく時雨が終わるんだぞ。それなのに煒澄ウェイチェン、アンタ今どこにいるんだ? どうして勝手に自分の元を離れてるんだ!」

「ふふ、落ち着いてください、連絡員殿。私は幽靄ヨゥメイ本局より、独自行動の許可を得ています」


 彼は、指を一本立てて弁明した。しかし、それに対して返ってきたのは怒りと呆れの混じった言葉だった。


「あーっ、もう! バカウェイがよ! 独自行動は好き勝手行動して良いって意味じゃないんだ。それはあくまで特殊作戦中などの限定的な話で……いや、もういい。とにかく、話を戻すがアンタ今どこにいるんだ?」


 彼はそう聞かれて周囲を見渡す。穴の空いた壁からは広場が見えた。本来ならばそこで学生たちが待ち合わせをしたり昼食を取ったりしているのだろう。掲示板には張り紙がびっしりと貼られている。その側には、大学創設者と思しき人物の銅像が立てられていた。


「大学です」

「大学なのは知ってるよ。正門まではアンタと俺は一緒に居たんだから。具体的に大学にある校舎のうちの何号館に今いるんだって話だ」

「……ふむ。何号館とは? 大学は大学でしょう」


 連絡員は大きくため息を吐いた。きっと本局は自分が居るから煒澄のような男に独自行動なんぞの許可を出したのだろう。彼らにとって自分は、ウェイの手綱程度にしか思われていないのだ。


「わかった。もうそこから動かないでくれ。一歩たりとも。自分でなんとかしてアンタのことを見つけるから。……それから、待機中に、ほかの雨器持ちや噂にあがっている巨大雨鬼と必要以上に接触しないように」


 ふと長い沈黙が二人の間に訪れた。「まさか、もう——」連絡員が吠える直前で、ウェイは通信を閉じる。廊下の扉から古い教室に入る。時雨が訪れる直前では授業が行われていたようで、化合物の構造について書かれた説明がスクリーンに投じられていた。それを他所に煒澄は先ほど戦闘を広げたイト研究員について考える。

 彼は数年間、この雲藍ユンランから姿を眩ませていた。その理由もどこに消えていたのかもわからないが、ほぼ間違なく彼の雇い主である韵花ユンファ嬢の指示によるものだろう、と考えた。幽靄の目を欺いて彼を国外へ移動させることができるのは彼女くらいのものだ。


「『炎』、『白』、『髄』、『巡警』、『幽靄』——雲藍ユンランを構成する権力者たちについてそれぞれ問い直される時期に来ているのかもしれませんね」


 鼎の軽重を問う、時代が変わる——そう表現するのはやや陳腐だと彼は考えた。正確には、この雲藍はずっと昔から不安定だったのだ。実質的な勝者不在の中で、仮初の秩序だけがあった。この状況はいずれ崩壊する定めにあり、本局含め彼らはそれにずっと備えていた。備えていたのだ。


「実に興味深い」


 数分と経たないうちに連絡員がここを見つけるだろう。その時彼に対して、廊下の窓に空いている大穴についてどう弁明するかウェイは考えた。天井の蜂の巣のようにできた穴もそうだが……いや、それらは全て些事だ、とウェイは思考を止めた。今後起きるであろう混乱と比較すれば、瑣末なことだ。

 

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