迷光

迷光 ― 1

 時雨の内部に居る人間にとって、時雨とは晴れることのない雨だ。憂鬱の泥濘に浸るほかない、暗い空間だ。聞こえるのは雨鬼どものうめき声と雨が地面や屋根に叩きつけられる音だけだ。聴き続ければ、一部の人間はノイローゼを引き起こすだろう。


 しかし雲藍ユンランの大学、学生棟の隅にあるこの音楽室は様子が違った。雨鬼と雨音はなりを潜め、代わりに不規則なピアノの音が響く。そこに座るとは桃色の髪と、その分け目から狂ったように曲がった角を生やした女生徒だ。その目は虚で、心はここになく、ただ目の前の鍵盤に手を置いているだけだった。


 かつての彼女にとって、音楽とは言語だった。


 頭の中でとりとめなく散逸する思考が、言葉が、五線譜の前で整列する。そう表現すればやや過剰とも取れるところがあるかもしれない。俯瞰的に捉えれば、彼女は人よりやや口下手で、人よりすこしだけ耳が良かっただけの話なのだから。


、キミはピアノが上手だね。きっと将来は——」


 しかし現在の心は虚だ。記憶のイメージがふと些細なきっかけで浮かんでは崩れ去る。リンは目の前の鍵盤から目を離し、ふと顔を上げた。思考は未だかつて取り留めない。何か輪郭のある言葉は見つからない。きっと将来は——? その続きが思い浮かばない。

 前髪が、桃色の髪がゆっくりと形を崩して目の前に掛かる。暗転する視界の隅には教室の窓と、明けぬことのない雨雲が世界を覆っていた。いったいどれだけの時間、青空を見ていないだろう。


 自分がゆっくりと雨鬼と化していくとは、つまりこういうことなのだ。


 頬に、誰のものともわからぬ細い指が張り付く。それから、腕に、肩に、腿、足首に。彼女はそれを重みと感じなかった。ただ、しがらみとだけ感じていた。手を離しても音の鳴り続ける楽器のように。


 ある時、食堂の前で、はずの友人話をしていた時をふと思い出す。


「ねぇ、リン。あなたが特待学生って本当? そのピアノで? ……いや、ただ、羨ましいって思っただけ。わかるでしょ、雲藍には明確な貧富や格差がそこにあって、私はその機会に恵まれず、あなたがそれを得ただけ。別にあなたのことが嫌いなわけじゃないのよ。ただ疎ましいと思ってしまったの」


 何か言葉を返そうとしても、記憶にノイズが走るだけだった。

 差し伸ばされていく腕に、肉の海にゆっくりと呑み込まれてゆく感覚があった。いくら過去を振り返ったところで、目の前の凄惨な現実を塗り替えることなどできない。リンは鍵盤に手を掛ける。


 静かな音が、この時雨の中に響く。ただし聴く者はいない。多くの腕が、音楽室の壁から、床から、天井から生える細い腕、細い指が、彼女の体にまとわりつき、彼女はその中へゆっくりと沈んでいく。知らぬ誰かの手に目を閉ざされ、口を覆われ、耳を塞がれる——しかし、そのピアノの音だけは止まない。


「哀れですね。その巨大な図体は虚栄であり、実態はかようにひどく矮小で空虚なのですから」


 誰だろう、と彼女は考えた。いままで、この音楽室に来た人間など、ひとりもいなかったというのに。黒いコート、灰色の髪、そして、頭の上に光る、黒い天輪。目の前の男は人間なのだろうか。ただ、父がよく話をしてくれた、御伽噺に出てくるような天使にはとても見えなかった。


 音楽室を取り巻く腕は、ゆっくりとその男の方にも伸びていった。男はとくに抵抗する素振りを見せない。ただ哀れむような目つきで自分を見ているだけだった。


「しかし残念ながら、私では貴女を助けることはできない。私は雨鬼を殺すことしか能のない人間ですから」


 腕はゆっくりと男を覆い隠し、そのまま締め殺そうと試みるが、あるところを境に煙のように消え去ってしまった。幻でも見ていたのだろうか、と彼女は考えた。しかし、どちらであっても彼女には特別関わりのないことだと気付くと、また思考はバラバラに散らばって、やがて何を見ていたのかすら忘れてしまった。代わりに音が響いた。ただ、その音もまたバラバラで、かつての演奏のように、結びついて輪郭を描くことはない。


 彼女にとって、音楽とは言語だった。

 しかし、音楽とはなんだっただろうか?

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