迷光 ― 5

 ホズミが目を開くと、大きく丸い照明が見えた。伝統的でありながら、未来志向も感じさせるその造形は、一般家庭にあるそれとは比べることができない。子供の頃に訪れた科学技術館ロビーの天井と似た意匠だ、と覚醒を待たぬぼんやりとした意識でそう考えた。ホズミは皮張りのソファーに横たわっている。静かな空間で、耳を澄ませば空調の動く音しか聞こえない。


「……目を覚ましたか。さて」

 

 上体を起こして周囲を確認する。時雨と呼ばれる空間の中で出会ったあの黒髪の男、イトは机を挟んだ向こう側で何か手紙かレジュメのようなものを読んでいたようだ。しかし彼はホズミの覚醒に気づくなり、その紙束を机の上に置き、ぐいとホズミのそばに顔を近づける。「え」と彼女は不意に小さく声をあげた。いったい何をするつもりなのだろうか、と思えば、彼はおもむろに彼女の顔に触れた。


「な、何してるんですか!!」


 ホズミは顔を赤くしてイトの顔を押しのけた。イトはそっと彼女の腕を掴み、距離を話した。彼は面倒ごとを前にしたかのような態度で、小さくため息を吐く。


「あまり騒ぐな、薬の経過を観察しているだけだ。車に乗り込む前だか後だかはわからないが、韵花ユンファに眠らされていただろう。まぁ、大声を出すだけの元気があるなら、おおよそ問題はないだろうな」


 薬についてホズミはまったく心当たりなどないが、首裏の痛みはまだ痺れるような感覚があった。ホズミは車に乗り込む直前でユンファから受けた仕打ちを思い出した。それからあの後に睡眠作用のある何かで、今まで眠らされていたのだろう、と推察する。

 ホズミはユンファという女がふと見せた本性と恐ろしさに思わず身震いした。あの恐ろしさに比べれば、目の前の何を考えているかわからない男や雨鬼などという化け物など可愛いものだ。


「ホズミ、お前が何を考えているかはわかる。そしてその推理は正しい。ユンファは目的のためには手段を問わないタイプの人間だ。彼女に初めて会った人間の九割は、畏怖を覚えるものだ」

「彼女は何者なんですか? 見たところ『炎』グループ会社のうちのどこかの令嬢か夫人のようだけど」

「当たらずとも遠からず、だな」


 エン、それは雲藍ユンランの物流を担う巨大な企業グループの総称だった。こと陸運においては都市の血液と称されるほどに、市民の生活の基礎を支え、彼らと密接に関わり合っている。それらは直接名乗ることはないが、それぞれ火にまつわる名前が付けられている。


「彼女は『エン』そのものだ。グループを束ねる代表だよ。まぁ、法律的な観点からみれば『炎』とは俗称で親会社は存在しない。つまり実態らしい実態はない、秘密結社のようなものだということだ。ただ、雲藍という都市が成立する以前から、彼女の血族がグループを超越した影響力を持っていたことは事実だろう」

「……都市伝説だと思っていた」

「そう思うのも無理はない。彼女がメディアに露出される機会など無いし、可能とはいえ彼女は彼女の出生を、立場を自身の目的に利用することは滅多にないからな」


 それこそグループ会社によっては、彼女を亡霊のように捉えるものも居るだろう。とイトは付け加えて補足した。ホズミは学長の恭しい態度の理由に一応の納得を覚えた。炎グループの代表が相手となれば、一大学の学長も緊張するものだろう。しかし、それでも、まだこの一連の事件の中で納得のできないことが山積していた。時雨内の時間の流れや、友人のリンを含めた行方不明者たちのこと、イトがここに居る理由、そして何よりも自分がここに居る理由について。


「そんな経済界の大物が、なぜ私を攫うような真似を?」

「攫われたのは半分キミの責任だ。俺は彼女のところまでキミを送り届けるまでが依頼だったからな。キミが逃げなければこんなことにはならなかったはずだ」

「あなたはそんな私を追いかける素振りすら見せませんでしたけどね」

「単なる自由意志の尊重だ」


 巨大企業グループの代表が、一介の大学生にこのような肩入れする理由については、イトにもわからなかった。しかし彼には、その理由がほぼ間違いなく時雨と関連するだろうという予想がついていた。ある試算によれば、生まれつき時雨を観測し、その内側で行動できる人間の割合は、一万人から十万人にひとりである、という話をイトは聞いたことがあった。雲藍の人口から考えれば、この広い都市で二百人も居ないことになる。時雨の存在を認知し、研究を進める他の団体に狙われる前に保護したい、という彼女なりの思惑があるはずだ。


 ただし、ユンファは、単に時雨の中で活動することができるだけで人間を重宝するような人物ではない。そこまではイトも彼女の心を測りかねていた。通話で彼女と話した時も、いいようにはぐらかされてしまい、未だ回答を得ていない。


「キミがここに居る理由は、いずれわかるだろう。案外、彼女のお人好しな部分が出ただけかもしれないしな」

「お人好し、って言いましたか?」

「今はああでも、昔はそうだったんだ」


 そう言って彼はソファーから立ち上がり、ホズミに着いてくるように促した。

 さしもの彼女もここから逃げ出すことは考えられなかった。窓には青空が広がっている。ビルの並ぶ雲藍でここまで広い空を見るために、どれだけのお金を払う必要があるだろうか。地上は遥か下で、道路を歩く会社員たちは文字通り豆粒のように見えた。子供の頃に乗った大型のジェットコースターでさえ、ここまで高い場所まで運んでくれなかった、と彼女は回想した。


 長い廊下が続く。部屋は多くあるが、人の気配はない。イトはこのフロアは一般の従業員が出入りすることはない、と答えた。事実、この廊下ですれ違ったのは掃除用の作業ボットだけだった。ここは雲藍の一等地だということは外の景色からよくわかる。そこでこれだけの面積の建物を建てるのに、どれだけの土地代と建築費がかかるだろうか。少なくとも廊下の傍に植えられた梅の木の一株でさえ、一生働いても用意できないような気がした。


「そういえば、時雨内部で気づかなかったが」


 廊下を歩いている途中でイトは不意に立ち止まり振り返った。窓を見やりながら歩いていたホズミは突然のことに彼にぶつかりそうになって、つんのめった。


「キミは右目と左目でそれぞれ虹彩の色が異なるな」

「なんですか、突然急に」

「いや。それで苦労することはあるのか? 不意な痛みや視界不良は?」


 まるで医者のような口ぶりと態度に、ホズミはたじろいだ。ここまでおもむろに自分の眼を観察される経験などしたことがなかったからだ。イトは顔を近づけて、またまじまじと自分が滅多にない例だとは理解しているが、この目の前にいる無愛想な男の興味をひいているのは意外なことだった。


「学校では珍しいものを見るような顔をされるくらいで、日常生活で不便していることは特に……」

「その眼の色は生まれつきか?」


 イトは顔を近づけて、目を凝らす。この眼を珍しがっている人間は数多くあれども、ここまで直接的な興味を持たれたのは生まれて初めてだった。軽い恐怖心を覚える。まるで何かに取り憑かれたような雰囲気があった。止めて欲しい、と思い、ぐるぐると回る頭で言葉を探していたところに、不意に後ろから女性の声が聞こえ、身体を引き寄せられた。首を回すと、白衣の若い女がいた。白い髪は短く、おだやかにウェーブしている。白、それは雲藍の市民の中では一般的な髪色のひとつだった。


「ストップ、イト。アンタ人間との距離感バグりすぎよ」

物野辺モノノベか。久しぶりだな」

「モノノベ “先輩” でしょうが?」

「……お互い、もはや大学とは無関係だが?」

「それでも私はあなたにとって一生先輩で、一方アンタは一生後輩なのよ」


 モノノベと呼ばれた女性は、ホズミを引き寄せていた腕を離した。振り返って改めて見ると、雲藍の伝統的な衣装の上に白衣を羽織っている。古風と科学の両方を取り入れた、不思議な格好だ。似合っているが、街中にいたらやや目立つだろう。彼女は微笑みながら、ホズミに手を差し伸べた。


「アナタがホズミね、話はユンファから聞いているわ。怪我はない? ユンファが突然殴りかかってきたりしてない?」

「ええと、怪我はないです」


 ホズミはやや苦々しい顔をして、モノノベの握手に答えた。


「……イト、どうして彼女は人間不信に罹ったか、わかる?」

「ああ、時雨による影響だな。時子は脳波と共鳴するが、また時子も脳に微弱ながら影響を与える。ショッキングなことが続いて軽く憂鬱になっているんだろう」


 モノノベは呆れた表情でイトを見る。それから、飛び級で入学してきた馬鹿どものために、大学でも道徳の時間を必修科目に登録するべきかもしれない、と彼女は考えた。あるいは彼にはフィールドワークを止めさせて、外国ドラマでも視聴する時間を設けるべきかもしれない。


「まぁ、いいわ。急ぎましょう。奥の応接室でユンファが待ってる。ホズミ、あなたが今、どんなことに巻き込まれているかは、彼女が話してくれるはず」

「これまでにも話すべきタイミングはあったように思いますけれど」

「彼女は秘密主義で、私やイトでさえ、この事件の全貌はわかっていないのよ」


 言うなれば、自分たちは盤上の駒であり、彼女だけが全体を俯瞰することができる棋士だ。とイトは付け加えた。それは自分ひとりでは対応できないことに巻き込まれないための、彼女なりの気遣いのようなものだと。


「——しかし、何かを得るためには、時にその渦の中へと飛び込む必要もある」


 イトは小さくつぶやいたのを、ホズミは聞き逃さなかった。

 それはひどく正しい。ただ、この道の先に、自分の求める答えがあるのだろうか、とホズミは不安になった。なによりも自分と同じように行方不明になっているリンがあの時雨の中に閉じ込められているのだとしたら、と考えるといてもたってもいられないかった。彼女を助けるためならば、ホズミは目の前の奇人変人たちと協力することも厭わないつもりだった。

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