迷光 ― 6

 雲藍のオフィス街に並ぶ高層ビルの、最上階45階の執務室には梅の花が植えられえていた。雲藍の古い上流階級にとってオフィスにこうした花や木を飾ることは、自らの社会的地位を顕示する代表的な例だった。梅は古くより、より美しく強い品種を求めて活発な交配が進められている。漆黒のような黒い幹に燃える炎のような赤い花。ホズミには花を愛でる趣味などないが、それでも思わず目を奪われてしまった。ただ、美しいと。


「手荒な迎えになってすまないね。キミにこの場所が具体的にどこであるかを伝えたくなかったんだ。少なくとも、時雨じうに対する対処を知るまではね」


 ただし、梅を除いて考えれば、部屋は無駄のないシンプルな内装だった。目を引くのは、部屋の奥にある原木を切り出したような巨大な机くらいだろうか。黒を基調としたチェア、書棚、棚、ワードロープが部屋から入って手前にある。どれも決して派手ではないが、どこか重厚な存在感があった。

 それら家具と机の間には、来客用のソファーがあり、ホズミとイト、それから途中で合流したモノノベはそこに座るように指示されていた。ホズミは学長の部屋と比べて、この部屋には無駄というものが全くないことに気づいた。それが威圧感となっている。よほど彼女と非常に親しい関係性にあるか、ないしはこういった重圧をまったく感じ取ることのない無神経な人間でもないかぎり、ここでリラックスすることなどできないだろう。ゆえに彼女は、イトとモノノベのいたって平静な態度から三人の関係性や過去をなんとなく伺うことができた。


「そうだ、ホズミ。キミは少なくとも時雨の出入りをコントロールする術を覚えてもらう必要があるだろう。これから先、時雨が発生する度にその時間軸に迷い込んで、誰かの救助を待っていたら、命がいくつがあっても足りないからな」


 ユンファは執務室の机の前で座っていた。なにやら資料のようなものを片手に、ホズミへ語りかけている。しかし、ホズミが注目は彼女の話だけではなく、その奥に立つボディーガードのような男だった。五、六十代のやや歳めいた、しかし恰幅の良い男だ。しかし、彼が口を開く素振りはない。

 時雨の出入りをコントロールする術は、これから時雨を調査するうえで必須だと、ユンファは話に付け足して、ようやくホズミは自分の意識を完全に彼女へ向けた。


「必須だが、私はキミにその技術を無償で提供することはできない。悪いが慈善事業ではないんだ。具体的に言えば、キミのその能力を提供するという形で、“炎”に協力していただきたい」

「能力の提供って……私はただの学生にすぎませんけれど。天才的な頭脳も、並外れた身体能力もありませんし」

「いいや、ホズミ。少なくともキミの脳は、キミの話す“ただの学生”と同じデザインではないよ」


 ユンファは細い指で自らのこめかみを指し示しながら、そう話した。


「それは十分、異能だよ。時雨の中で活動できる人間は、時子じしと脳波の共鳴現象を引き起こすことができる証明ほかならない。すでに話しているかもしれないが、それは非常に稀有な才能だ。そして私を含めたここにいる者はみな、時雨のメカニズムの完全な解明を目的としており、そのために時雨の中で活動できる才の持った人間を一人でも抱えておきたいのさ。そのための具体的な金銭的な援助を含めた支援は厭わない」

「——注意しておけ、ホズミ。彼女は悪人ではないが、聖人君子の類の人間でもない」


 ユンファの勧誘に対して、初めてイトが口を挟んだ。ホズミは彼女の提案についてそれほど悪いものではない、と捉えていただけに、明確な待ったがかかる。一瞬だけ、時が止まったような気がした。


「イト、今私は彼女と話をしているんだ。余計な口を挟まないでくれ」

「しかし、アンフェアだ。彼女は時雨とそれにまつわることについて、俺たちと同じだけ、いや少なくとも話し合いの椅子に座るだけの知識を持ち合わせているわけではない。時雨を研究することの危険性について彼女が正確に理解するまで、この取引めいた話は、どこまでもアンフェアだ」

「キミは知らないかもしれないが、完璧に公平な取引は存在しない。両者が納得さえすればそれで良いだろう」


 イトとユンファが真っ向に対立しているのを見て、ホズミの口から出かけていた「わかった」という言葉も引っ込んでしまった。彼女はそばに居たモノノベに、二人の仲が悪いのかと、耳打ちをして訊ねる。彼女から返ってきたのは何かを含むような苦笑いだった。見てのとおり、という意味だ。


「あの、私は別にその条件で全然構わないんですけれど——」 

「でも、今回ばかりは私もイトに賛同せざるを得ないわ。少なくとも私たちは彼女のためにある程度、身を切る必要がある」


 ホズミの言葉を遮って、今度はモノノベが手をあげて発言を始めた。ユンファはすこしムッとしたような一瞬表情を見せたが、ここに居る三人の内、それに気づいたのはモノノベだけだった。彼女はその様子にすこし微苦笑したあと、話を続ける。


「時雨の出入りのコントロールは取引に含めるべきではないと思うわ。それができなければ十中八九死ぬ以上、簡単に断ることができない話なのだから。それにイトの言う通り、時雨の危険性について彼女は完璧に承知していないようだから、これはメリットだけが提示されている不公平なものよ」

「ならば、キミならばこの取引の天秤に何を載せる?」


 モノノベはサングラスを掛けていたサングラスを外してユンファを見た。その表情は不敵に笑っている。


「——? あなたが声を大にして『持っている』と言えるのは実のところ金だけでしょうに。それ以外に載せるものなどあるのかしら?」

「……私はキミらの財布ではなく、人間のつもりなんだがね」

「それならばユンファ、あなたが“炎”の代表として、意思ある人間として出来る最大の貢献は何か、わかっているはずじゃない?」


 それを聞いて、今度はおもむろに渋い表情をするユンファに対して、ホズミはモノノベの意図を理解し、思わず、小さな声で「あ」と声が出た。彼女は自分に対して、出来るかぎり優位な条件に立つように促している。しかし、いったいどこからが優位か分からない彼女は自分から条件を出せずにいた。その状況を見かねた目の前の科学者は、ヒントを出したのだ。目の前の代表が意図的に何を自分から遠ざけようとしているのか。


「ユンファさん」


ホズミはつばを飲み込んで、それからゆっくりと言葉を口にした。


「私の友人を、あの大学で失踪した生徒の捜索を、時雨に巻き込まれて失踪した人間の捜索を、、これからずっと、全面的に“炎”が協力してくれるのなら、私はあなたに協力しても構いません」

「ホズミ、『今後、これからずっと』とは“炎”が続く限りずっと、という意味かな?」


 それはあまり現実的ではない、とユンファは答えた。時雨の捜索にはキミが思っている以上に多くのコストが掛かっているのだ、と話す。部屋の角に置いてある梅の木一本で、平均的な雲藍市民十人分の衣食住を賄うだけの価値がある。そして時雨でイトが携帯していた刀はその梅の木の十本分の価値がある、と説明する。


「しかし『雲藍市民は遍く皆、我々の贔屓』というのはあなたの言葉ですよね。ユンファさん。私の答えはこうです、あなた方“炎”の目的に、ひとつ書き加えさせてください——」


 そこまで話して、ホズミは一度、大きく息を吸った。なんだか自分がとても身の丈に合わぬことをしているような気がしているが、それを気にしてはいけないと自分に言い聞かせた。こういう時に使う言葉は短く、単純で、あえて使い古されたフレーズが良いのだ。使い古されたフレーズの新たな意味を再発見させる。それがもっともインパクトがあるのだ。


「——時雨がもたらす被害に対する、人道援助と」

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Rain Ghost Sanaghi @gekka_999

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