雨鬼 ー 2
時雨の存在そのものは公に秘匿されている。その理由を挙げればキリがないが、おおよそのところ、それが全体の益に繋がるということに帰着する。時雨を認知できないのならば、それはそれで幸福なことだし、時雨の中で活動する者にとっては、時雨の存在を公にすることに何のメリットがない、そもそもそうすることが念頭に無いような振る舞いをすることがほとんどだ。時雨研究によって直接的な利益を考える人間にとって、それを公開することは、他の研究者へ手の内を晒すこととなり、これもやはりメリットがない。
雨鬼を一種の兵器として利用する計画が、かつて、都市の医療機関主導の下で行われようとしていたが、
イトがかつて在籍していた大学の研究室も、人知れず「時雨」ならびに「雨鬼」の存在について明らかにしようとし、そして存在ごと抹消された、つまらないものの一つである。この古びた大学の校内のどこにも、彼が憩いとしていた研究室の影はない。しかし、イトの記憶の中にはたしかにその日々はあったのだ。青年は自身の記憶、目の前の光景を不意に重ね合わせてみた。
「ここもあまり変わらないな。ただ、人らしい人は見えないが」
刀を入れていた楽器ケースを一度地面に下ろし、韵花が保護を依頼した学生の情報を確認する。名前から推察するに彼女もまた、留学生のひとりのようだった。
「ホズミ スミレ。女学生。専門は人文科学。課外活動は参加なし——数日ほど前から行方不明、か。既に、手遅れになっていなければいいが」
時雨を知らずに時雨に迷い込んでしまう人間は稀だ。と、いうのも時雨を認知することができる人間自体がそもそも珍しい。仮にこの時雨の中で動く者に会ったとすれば、それはおおよそ九割が雨鬼で、残り九分が時雨を知って入り込んだ者、残り一分が何も知らずに時雨に入り込んでしまった者だ。もちろん、それよりも雨鬼に襲われ、物言わぬ死体へと変わり転がっているケースの方がずっと多い。
それは、時雨という時間軸の内部にいる人間が——ちょうど時雨が常人には認知できないように——通常の時間を認知できなくなる。時雨に一度入り込むと、自力でそこから脱出するのは難しい。雨鬼の被害者が絶えないのはそれが理由だ。
時雨に巻き込まれ、そのまま亡くなった人間は、現実世界では
だからこそイトは、
「……冗談じゃない」
窓の向こうから、雨鬼がこちらを見ていた。不意に顔があったのだ。ここは施設の
イトはすんでのところで肩から掛けていた楽器ケースを盾に横へ飛び、そこから雨鬼の腕の届かない建物の奥、階段の方へ滑るように逃げ込んだ。倒せない相手ではないが、所在不明の保護対象の居場所を明らかにする方が先決だった。
彼女は巨大な雨鬼の下敷きになって死んでいた、と韵花に報告すれば最後、雲藍で安らかな休息が取れる場所など何処にもなくなってしまうだろう。
細い腕はさらに細く枝分かれし、触手のようにイトを追った。鰯の大群が海を泳ぐように、狭い室内を動き巡った。イトは自身に回り込む細腕を刀で斬り伏せながら、大急ぎで巨大な雨鬼の側を離れるように、校内の奥まった方へと逃げ込んだ。そうして、建物と建物を繋ぐ非常廊下まで走ったところでようやく、後ろから追いかける気配が消えたことに気づいた。
大きく息を吐く。彼の表情に疲れは見えない。
「単なる人探しと護衛のつもりだったが、存外、厄介なことになりそうだな」
あのような巨大な雨鬼を見るのは初めてでは無いが、普段から観測できるものではない。雨鬼の姿形には、そのような姿をするだけの理由がある。イトはかつて、とある時雨の研究者から雨鬼の中には人間を喰って体躯を拡張させるものがいるという話を聞いたことがあった。当時は単なる冗談だと思っていたが、ここは都市の中でも、もっとも人の集まる施設のひとつだ。時雨に巻き込まれた人間は少なくないだろうし、行方不明者もまた、少なくないだろう。
刀をケースにしまい、彼はそれを肩に掛けた。周囲を見渡すと、そこは学生たちが集まって休憩をするような場所のようで、ラウンドテーブルと椅子が並んでいた。人の姿はない。しかし、それは時雨による特殊な屈折現象によって見えなくなっているだけだ。
「巨大な雨鬼がなぜ現れたかはわからないが、それが人の行動にどのような影響をもたらすのか、予測することは容易い」
イトはそう言って食堂の入り口から少し離れたところにあった学内の地図を探した。自分の記憶が正しければ保護対象であるホヅミなる少女が潜伏している場所はここからそう遠くはないはずだ。
「地下体育競技場だ。あそこなら、あの巨大な雨鬼の目を逃れることができる——彼女も、自分と同じ考えでいてくれればいいんだが」
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