Rain Ghost

Sanaghi

第一章「墸突妄信」

雨鬼

雨鬼 ー 1

 雨が降っていた。いつから降り出したかは誰も知らない。

 静かな車内には、ガラリガラリと車輪の回る音が響いていたが、それを沈黙と捉えた運転手がたまらず、後ろの乗客に話しかける。


「学生かい? 今年から来た留学生ってところか?」


 三輪タクシーは、ビルとビルの細く雑多な道をゆっくりと走り抜けていった。露店の売り子、昼間から道の脇に椅子を持ち込んで酒を煽る亭主、軒先で遊ぶ子供。手を伸ばせば彼らの頭に触れてしまいそうな距離だ。壁にはところどころ、尋ね人の張り紙が貼られていた。その一部は剥がれている。この都市では昔から、時たまに人の消息がわからなくなる、さほど珍しい話ではなかった。性別、年齢関わりなく。

 事実、その乗客の彼は学生に見える程度には若く見えたし、今はこの都市、雲藍ユンランの東部ではもっとも名の知れた大学へ向かっているところだから、運転手が彼を学生と考えるのは自然のことだった。のような奇妙な格好をしているが、少なくとも観光客ではないだろう、運転手はそう考えていたようだ。


「いや、違うよ」

「へぇ、じゃあ、なんだ、見学かね?」

「見学……それも違うな。まず俺は学生じゃないんだ。学士課程は既に修了している。とっくの昔に。それにこの服はただの羽織だ、俺はこの都市で生まれ育っただけで、留学生でもない」


 彼の服装や炭のような黒髪は、見る者に極東の古いステレオタイプを想起させた。雲蘭が多くの人種を内包する多民族国家とはいえ、青年はたしかに、この国では人目を引く風体をしている。

 ガラガラと運転手の操作に合わせて車輪が揺れる。目的地まではまだすこし距離がある。すこし雨が降ってきたがタクシーには屋根があり、二人の体が濡れることはない。ばつ、ばつと天井のビニールを雨粒が叩く。


「学生ではないなら、なぜ大学へ? あそこは今、好き好んで寄るところじゃないぞ」

「ずいぶん物騒な言い方だな。あそこで、何かあったのか?」

「事故だとさ、事件だと話す学生も居る。あすこの実験棟で爆発が起きたらしい。学生数名が亡くなったとか……まぁ、お客さんに話す話じゃないなぁ」


 カカ、と運転手は小さく笑う。雨音が次第に勢いを増してきた。この気まぐれな天気のせいで、先程まで、この狭い道の傍で密を作って遊んでいた子供も、気付けば数を減らしている。雨音は次第に強くなる。


「ところで、学生でもなければ観光でもないアンタが、さっきから何を夢中になって読んでるんだ? その紙束には何が書いてある? 側に置いてあるそのデカいケースには楽器でも入ってんのかい?」


 質問が多いな、と青年は感じた。まるで気になっては大人に訊かずにはいられない子供のようだと思った。青年が読んでいるのは報告書だった。そこにはこの都市である雲藍について簡単にまとめられている。青年がこの都市まで帰郷するにあたって、少しでもこの都市のことについて知っておくべきだ、と彼の友人が作成したものだった。


 雲藍、人口二百万人を内包するこの都市は四つの都と、六つの市に分割され、この島の大都市圏を形成している。ハイテク、IT、電子工学の世界的技術の最先端を担うこの都市は、また世界的に見ても大きな経済圏を作り上げている。

 一方でこの都市は、多くの人種を内包する多民族国家——そこまで書かれて、打ち消された跡がレジュメにはあった——いや、もはや多民族国家という呼称そのものが、昨今の世界情勢から考えて、いささか古臭いものだ。この世界に単一民族だけで形成されている国家なるものは、もはや存在しない。ただし、それでもこの都市に多種多様な人間が集まり、活動していることは、こうしてキミのためのレポートに報告する上で必要なことだろう。この都市はキミが生活していたときよりも遥かに開かれているのだ。


 このような調子で青年が読んでいた報告書には、ところどころ執筆者の主観が混じっているところがあった。悪癖だ、と彼は心のなかで呟いた。彼女は普段の会話の中でも、長大な補足を付け加える癖がある。


「運転手、ここ数年で雲藍は世界に開かれたと感じているか?」

「それは国際化ってやつの話か? 俺にはよくわからんが、ここ数年で雲藍の外から来たらしいヤツを街でよく見かけるようになったわな。あんたがいったい何時の時代の雲藍と比較しているのかはわからないが、俺はな、この都市で五十年以上生きてきたわけだ、戦後すぐのこの都市も、俺のこの目で見てきたんだ。あの時の冷たく、乾燥し、内外ともに閉ざされていた日々と比べれば、今はずうっと賑やかで開かれている。そうだろ、お客さん」

「あぁ……そうかもしれないな」


 三輪タクシーは大通りに出る。雨の勢いは増すばかりで衰えることをしらない。運転手は側面に丸めてあった垂れ幕のような布を窓を覆い被せるように垂らした。タクシーの内側は一層と暗くなる。友人から送られた報告書は雲藍の気候まで網羅していた。

 この雲藍では、六ヶ月の多雨期から三ヶ月の少雨期、そこから数週間あまりの乾期と二ヶ月ほどの少雨期を経て、季節が一巡する。この都市では一年間の四分の三近くが雲に覆われている。特筆するべきは冒頭六ヶ月の多雨期だ。この都市の住民は、この時期になると、日によっては昼でも夜のような暗さの中の生活を強いられることになる。雨が、都市を彩るライトの光を乱反射させる。

 時刻は昼の二時だがビルは照明をいっぱいに光らせている、そうしなければ雲の闇に隠れてしまうからだ。大通りでは”特売”を行なっていた。特売と言いながら、それが恒例なのだ。とはいえ、それはあくまでガラス扉の向こう側の話だ。この雨の中を歩く人の顔はどこかに陰を帯びている。


「運転手。ここまででいいよ」


 青年はそう言って、運転手にやや余分に多い運賃を渡して、降りる支度を始めた。


「ここで? 言っておくが、ここから大学までまだ一キロ近くあるんだぞ」

「あぁ、知っているよ。この大通りをまっすぐ行って、ピザ屋の角を右に曲がるんだろ。かつて何度も通った道だ。数年ぶりとはいえ、忘れていない」

「この雨だ。歩くより乗っていた方がずっと楽だろう。これはセールストークじゃなく、俺の親切心で言ってるんだぜ?」

「あぁ、わかっているよ。ありがとう。だが、ここまでで良いんだ——」


 青年はそう言って傘も刺さずに三輪タクシーから降りる。青年は、友人が書いた報告書を濡らさぬように袴の内ポケットに畳んでしまう。青年は運転手に言葉を告げたが、激しい雨音が彼の声をかき消した。


「おい青年! 何言ってんだ?! この雨の中歩いて行くつもりなのか?」

「——時雨じうが来る」



 青年がそう告げた時。

 雨の勢いと音が閾値を超えた時、途端、世界から音が消えた。

 特売を知らせる放送も、青年の言葉を聞き返す運転手の声も、通りを行く人の言葉も、全てが一斉に霧消した。


 友人の報告書には「時雨について研究者であるキミにわざわざ改めて説明するのは無粋かもしれないが」と前置きがされていた。

 雲藍における多雨期において、一定期間における降雨の量が一定を越えるとと呼ばれる時間が発生する。それはおおよそ多くの人間には知覚することができず、おおよそ多くの計器を用いても観測すら難しい時間のことだ。


 青年はゆっくりと周囲を見渡した。時雨の発生と共に、周囲の人間は静止をした。雨粒は天と地を結ぶ線のように細く整列しているばかりで落下することがない。青年がこの時雨に遭遇したのは二年ぶりのことだった。

 主観的に見れば、目の前のそれは自分を除いて時間が止まったように見える。しかし、厳密に表現すれば、自分と時間を除いた全てが静止しているのだ。時間は流れ続けている。時間とは、時雨とはなんだ。青年は現象の中で常に問い続ける。


 ——そして雨鬼うきとは、我々とは?


 風を切る音とともに突如現れる爪が青年の頬を掠める。


「雨鬼、幽鬼ゆうき、穢れ、そして、レインゴースト。呼び名が変われども、その姿が変わることはないみたいだな。お前たちはまだ、この時雨の中で彷徨っているのか」


 イト、キミのように、時雨を認知し、時雨の中を動き回る人間もいる。それとは別に時雨の認知されず、時雨の中でしか活動できない人間もいる。

 そして何より忘れてはならないのは、時雨の中でのみ活動し、コミュニケーションさえ不可能で、時雨の中で活動する人間を見境なし襲いかかる、ある種の怪物のような存在がいる。キミはすでに知っているかもしれないが、我々「エン」はこれを正式に雨鬼と呼ぶことに決めた。


 高さはおおよそ二メートル、その輪郭は朧げで幽霊のようであり、鬼のような筋肉を持ち、時雨の中を活動できる人間を襲う怪物。


 雨鬼は青年に向かって二度目の打撃を与えようと、力のままに拳を振りかぶった。青年は肩から掛けていた楽器ケースを地面に下ろす、衝撃でガスの噴出とともに中身が飛び出る。刀——白羽が周囲の光を反射して氷のように冷たく光った。雨鬼の拳は青年の手に握られた刀によっていなされ、そのままお互いは密着するほどに接近した。雨鬼と一瞬、目が合う。しかし次の一瞬は、青年がその雨鬼の首を切り落とした後のことだった。


 雨鬼、それがいったい何であるか、我々はその全容を捉えることはできていない。わかっているのは、それが、我々が時雨の存在を知る前から、彼らが時雨の住人であったこと。そして時雨で活動することのできる人間が、この雨鬼へと姿を変えてしまうこと。そして雨鬼となった人間を、元の姿、元の生活へと戻す技術は、「炎」を含むすべての研究機関が未だ確立さえされていないということだ。

 イト。キミが雲藍を離れた時から、すべてはさほど姿を変えていない。


韵花ユンファ。キミが十数ページに渡ってまとめ、俺に送ってきた報告書の結論がそれなら、この長文すべてにいったい何の意味があったんだ?」

 

 音無く倒れる雨鬼を尻目に、青年はぽつり呟いた。

 それから彼は大学の方角を見やった。都市の輪郭は静止した雨の世界ではぼやけて、それを捉えるのは難しいが、青年はそれを想像の中で補うことができた。蔦、赤いレンガ、乳白色の壁、薄い窓ガラス。

 都市の中でも、もっとも著名な大学のひとつであり、かつて彼もそこの学生、そして研究生のひとりだった。そこではかつて、時雨のメカニズムを明らかにする研究が行われていた。


 韵花が青年に宛てた依頼は、この大学を中心とする時雨の解決。

 そして時雨に巻き込まれた学生の保護だった。

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